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其の三百十三 爪痕
しおりを挟む堂傑と藤士郎は六兵衛長屋を調べる前に、まず差配から直接詳しい話を聞く。
差配は長屋で起きた変事について、指折り数えひとしきり語ってからこう言った。
「ひょっとしたら三葉の婆さんが、何か絡んでいるのかも」
三葉(みつば)とは、少し前まで長屋にいた老婆である。
ちょっと口やかましいところはあるものの気持ちのいい年寄りで、占いを生業とし、ずっと一人で暮らしていた。
かくしゃくとして「これは百まで生きるねえ」なんぞと周囲も言っており、当人も「なんの、あたしゃあ、百十までは生きるよ」と笑っていた。
しかし先のことなどはわからないもので、そんな会話をしてから、ほんの半月ほどで三葉の婆さんはぽっくり逝った。
ふだんならば顔を出す時刻になってもあらわれないので、不審におもった長屋の住人が表から声をかけるも返事はない。そこでのぞいてみたら寝床で冷たくなっていた。
どうやら就寝中にひっそり人生を終えたようだ。
穏やかな死に顔であった。別れは寂しいけれども、まぁ、大往生なのは間違いあるまい。
身寄りのない老婆であったので、近所の者らでささやかながらも弔いをした。
後日、部屋を引き払うべく、差配が婆さんの荷物を片づけようと、押し入れにあった行李を開けてみたところで、ぎょっ!
占いの道具とおぼしき物から、奇妙な文様の書かれたお札に女の髪束、動物の頭蓋骨などの怪しげな品がごろごろ。
中身をひと目みるなり、差配は慌てて行李の蓋を閉じた。
仕事柄、いろんな住人らと接してきた差配は、その豊富な経験から直感的に「これはうかつに触れるべきではない」と察した。
とりあえず何も見なかったことにし、口も噤んで、大家に相談することにした。
けれどもそんな矢先のこと、長屋にて変事が起こり始めてしまう。
大家と差配は相談の上で、知念寺を頼ることに決めたという次第。
◇
差配から事情を聞き終えた堂傑と藤士郎は、生前のままにしてあるという三葉の部屋へと赴く。
部屋へ近づくと、堂傑がしきりに鼻をすんすんさせながら「おや?」と眉間にしわを寄せた。
藤士郎にはわからぬ匂いを嗅ぎ取ったようだ。
なにせこの堂傑は人間ではない。その正体は鼬の化生である。それがいろいろあって、巌然に弟子入りしている。
堂傑が「ちょいと獣臭いですね」と言って、ぶるりと肩を震わせた。その臭いがおっかない獣のものだからだ。
「おそらくですが狼です。自分も山でなんどか出くわして、命からがら逃げたものですよ。あいつらのしつこいことといったら、それはもう……。山を三つも四つも超えても、まだついてくるんですから!」
よほど怖い目に遭ったらしく、堂傑は顔を青ざめている。
だがそれでも臆することなく、みずから障子戸を開けようとしたもので、「ここは私が」と藤士郎が代わって、ずいと前へ。
警護役としては当然のこと。
が、藤士郎は半信半疑である。
ここは神田で、江戸のど真ん中だ。野良犬ならばともかく、狼がうろついている?
ちょっと信じられない。
とはいえ、もしも本当に狼が潜んでいたら大事(おおごと)だ。襲われたら堂傑では対処できない。
だから堂傑をいったん下がらせ、藤士郎は腰の小太刀をいつでも抜けるようにしてから、障子戸の取っ手に指をかけた。
「………………」
息を殺し耳を澄ませ、室内の様子を探る。何者の気配も感じられない。
藤士郎は一度堂傑と目を合わせてから、ひと息に障子戸を開けた。
たんっ!
小気味よい音が鳴り、開け放たれる障子戸。
飛び出してくるかもしれない何者かを警戒しつつ、藤士郎は身構えていたが、小蝿の一匹もあらわれず。
室内の薄暗がりを睨みつつ、堂傑にはそのまま外で待機するように伝え、藤士郎はひとり屋内へと入った。
裏の雨戸が閉じられており、薄暗い室内――藤士郎は素早く視線を走らせ、潜んでいる者がいないか確かめる。
入ってすぐの土間と玄関脇の台所、二間続きにて、家財道具は少なくこざっぱりとしたもの。身を潜められそうなのは、奥の間にある押し入れぐらいだが、襖(ふすま)はきちんと閉じられており、何者かが出入りした形跡はない。
だから藤士郎も安堵して、表で待っている堂傑を呼ぼうとしたのだけれども、その時のことであった。
上がり框の床板に刻まれている四本爪の痕を発見した。
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