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090 幸福のハチノヘ

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 昼下がりの梅苑にて、巨大ミツバチと遭遇!
 枝垂はすかさずきびすを返し、脱兎のごとく逃げ出した。
 だが、逃げられない。
 背中にひしと抱きつかれてしまい、枝垂はたちまちがくりと膝をつく。いや、この場合は腰が砕けたというべきか。

「くっ、なんという感触……」

 さらりとしており、ふんわり柔らか、極上の肌触りと温もり。
 たちまち枝垂の脳裏に鮮明に蘇ったのは、まだ幼くて世界がキラキラしていた、あの遠い夏の日――

 プールで遊び疲れたあと、気怠い午後のお昼寝タイムのとき。
 安息と心地良き眠りを与えてくれたのは、一枚のタオルケットであった。小さい頃からのお気に入り。
 だというのに、いつの間にか失せてしまい、すっかりその存在を忘れていたのだけれども。
 懐かしさと、愛しさと、気恥ずかしさと……思わずギュッと抱きしめたくなるような想いがこみ上げては、幸福感に包まれる。
 これを受け入れ、認めた瞬間に、枝垂はふっと下半身からチカラが抜けてしまった。

 背中に張りついた巨大ミツバチが、よちよち動く。
 でもって向かった先は枝垂の胸元であった。
 円らな瞳にてこちらを見上げつつ、「キュ?」と小首を傾げられたところで、枝垂は陥落した。
 もう辛抱たまらんとばかりに、そっと抱きしめてみれば、とたんに押し寄せるのは幸福の波である。なんという多幸感であろうか。

 ここギガラニカ世界には可愛い獣人がたくさん暮らしているけれども、基本的におさわりは禁止である。抱き着いたりわしゃわしゃしようものならば、たちまち変態認定されて御用となる。触れるのはよほど親しい間柄とか家族のみ。
 だから、枝垂はずっとモフモフを目の前にして我慢を強いられていた。
 いわば禁欲生活のようなもの。
 そこにふって湧いたのが巨大ミツバチである。
 憧れ、恋い慕い続けたモフモフとの邂逅、温もりを与えてくれる存在を胸に抱いていると、枝垂の頬をつーと涙が伝う。それは歓喜の涙であった。

 そんな場面へたまさか通りがかったはナシノ女史であった。
 肩書をたくさん持っている老嬢は、仕事の合間にここに足繁く通っては軽く息抜きと気分転換をしていたのである。

「おや、誰かとおもったら枝垂じゃないか。いったい何を――」

 途中で言葉を切ったナシノ女史の赤い双眸が色みを増した。
 赤い瞳は鑑定士の証、鑑定能力を持つ者はみな赤い目をしている。
 こちらの世界に召喚されてすぐに枝垂に星クズ判定を下した、あのお爺ちゃんも赤い目をしていた。
 なおこの鑑定士という職業、適性や能力だけでなく、膨大な知識と類まれなる見識、研鑽を積み、信頼と実績により認められて初めて成立する。鑑定チートでイエーイとかは通用しない。とても厳格な職種なのである。
 卓越した鑑定能力を有するナシノ女史は、枝垂が大事そうに抱えている巨大ミツバチを前にして、驚きのあまり大きく目を見開く。

「なんてこったい! こいつは『幸福のハチノヘ』じゃないか。見たところ一匹だけみたいだけど、でも、どうしてこんなところに……」

 幸福のハチノヘは、ギガラニカに生息するハチである。
 しかし極めて用心深く、臆病で人見知りな性格なため、めったに人前には姿をあらわさない。
 大きさは御覧の通りにて、生態はまんまミツバチなのだけれども、個体サイズがこれなので当然ながら巣も大きくなる。そして採れるハチミツなのだが最上級品である。
 幻のハチミツと呼ばれており、出すところに出せば同量の砂金と交換されることもあるんだとか。
 ぶっちゃけ中央五ヶ国の王さまですらも、めったに口にできないようなシロモノ。
 そんなハチゆえに、彼らが住み着いた地には多大な恩恵がもたらされることから、いつしか「幸福」の頭文字を付けて呼ばれるようになった。

 ナシノ女史も知識としてはあったが、こうやって実物と間近に接するのは初めてのことにて、いつになく興奮をしている。恐る恐る触れてみては、その感触に悶絶している。
 だがしかし――

「コウケイ国にとっては吉兆なんだけど……はて? 島内にハチノヘはいなかったはずだけど。この子はいったいどこからやってきたのかねえ」

 本土とはけっこう距離がある。海の上を渡ってくるのは無理だ。
 この前の船にまぎれ込んできたのであろうか。


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