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015 人の皮
しおりを挟む彩子をあまり家の奥にまであげたくなかった健斗は、リビングではなく玄関からすぐのところにある広間に案内した。
十二畳ほどの広々とした畳敷きに、幕板に豪華な彫りと太い脚を持つ座卓だけがぽつんと置かれている空間に彩子を残し、健斗はいったん台所に下がった。
健斗はかなりイラついている。これは地下室のアレと過ごすようになってから、ひさしく忘れていた感情だ。
「どうして、どうして、どうして、どうして……」
頭を掻きむしっては、壊れたレコードのように同じ言葉をくり返す。
あいつは……、あの女は異物だ。自分が大切にしている場所にまぎれ込んだゴミである。はやく取り除かないと、ここが汚染されてしまう。
排除、除去、淘汰、排斥、拒絶、駆除、駆逐、除外、消去――
やかんに水を入れてコンロにかける。
点火するなり、ホーロー製の黒い五徳がコトコト震えた。
ガスコンロの炎に炙られるやかんをぼんやり眺めていると、頭の中にふつふつ湧いてくるのはそんなことばかり。
健斗は「ふぅ」と深く息を吐いた。
「いけない、少し頭を冷やさないと」
このままだと激情に流されて、うっかり手を出してしまいかねない。
そうなれば相手の思う壺だ。健斗は深呼吸を繰り返し、気を鎮めようと努めた。
◇
いきなり押しかけて来た。
もとより招かれざる客だ。
成り行きで家にはあげたものの、もてなすつもりは毛頭ない。
だから健斗はこの真夏の盛りに、しかも妊婦相手にホットのブラックコーヒーを出してやった。
これにはさしもの彩子も顔をひくつかせたが、すぐに笑顔を取り繕って席を立つこともない。
「どうして僕の居所がわかった?」
くだらない会話や妄言に付き合うつもりはない。健斗はストレートに尋ねた。どこから情報が洩れたのかか気になっていたのだ。穴はすぐに塞いでおかないと、第二第三の彩子があらわれかねない。
健斗から向けられる厳しい視線などは、どこ吹く風にて彩子は答えた。
「ふふっ、親切な事務員が教えてくれたのよ」
妊娠を機に桐谷陽太から捨てられ、彩子は窮地に陥った。
追い詰められ、どうにかして健斗と連絡をとろうと試みたものの、電話はいっこうに通じない。居所を知っていそうな弁護士にも頼んでみたが、とりつくしまもなかった。
構内で健斗の知り合いであった連中に片っ端から声をかけてみるも、みな「知らない」と首を横に振る。アルバイト先にも押しかけてみたが、こちらもダメであった。
大学の事務局に問い合わせるも「個人情報に関することなので教えられない」との一点張り。
こうなれば探偵でも雇いたいところだが、そのための金がない。
どうしたものかと困っているうちにも、タイムリミットは刻一刻と迫る。
けれども構内を徘徊していたおかげで、彩子はおもわぬ拾い物をした。
校舎の片隅で、密会現場に遭遇したのである。
非常階段の陰にて、大学の教授と事務員の女が抱擁をしては、熱い口づけを交わしていた。
その場面をこっそり自分のスマートフォンで隠し撮りをし、彩子はほくそ笑む。
あとは簡単だった。
三十路半ばの女性事務員に画像をちらつかせては、ちょっとお願いをするだけで、知りたい情報をあっさり得ることができた。
隠し撮りに脅迫まがいのことまで――。
そんなことを平然と口にしては、臆面もなく「私だって本当はこんなことをしたくはなかったのよ。でもどうしても健斗に会いたかったから」なんぞと言う。
ちろりと舌を這わせ唇を舐める彩子に、健斗は心底ぞっとした。
これは誰だ?
自分はいまいったい誰と話をしている?
目の前にいるのは、本当にかつて愛した女性なのか?
いくら変わってしまったとはいえ、自分の知る彼女とはあまりにも違い過ぎる。
まるで杉浦彩子という人の皮を被った別の何かだ。
気持ち悪い。不快さを通り越して、おぞましさすら感じる。
「健斗……お願い。私、いまとても困っているの。それにすごく後悔もしている。一時でもあんな最低な男に目移りしてしまって。本当にごめんなさい。でも私は目が醒めた。そして気がついたの。自分が本当に好きなのは、心から愛しているのは誰なのかということを。だから、ねえ、健斗、私たちもう一度……」
自分の名前を呼ばれる度に、頭の中がぐらぐら揺れた。
彩子の姿をした何か。その口からつらつらと垂れ流される言葉の数々は、まるで何を言っているのかわからない。
わかるのは彩子から縋られるほどに心が冷めて、ふたりの距離が遠のき、溝が明確に広がることだけだ。同じ空気を吸っていると考えただけで反吐が出る。
なんて醜怪なのだろう。これは本当に同じ人間なのだろうか?
そしてとても無駄な時間だ。
理解できない内容を健斗はぼんやり聞き流すばかり。
健斗はいま無性に地下室に行きたくてしょうがない。アレが恋しい。この醜怪な生き物から解放されて、アレを愛撫し癒されたくてしょうがない。
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