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009 冥穴

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 先ほどまでの猛りっぷり、狂乱が嘘のよう。
 まるで憑き物が落ちたかのように、啓介は上機嫌になった。

「そうか、そうか、アキはやってなかったんだな。うんうん、ならいいんだ。あの作家気取りのエセ野郎とは違ったんだな。そっか、そっか」

 作家気取りのエセ野郎。
 そんな人物は村でひとりしかいない。
 にしても啓介のこの口ぶり、もしや……

「なっ、お、おまえ……、まさかハタを……」

 啓介はにぃと笑み。
 それが答えであった。
 とたんに、ツンの鼻についたのは、ずっと境内に漂っていた異臭。
 てっきり生ゴミが腐ったものかとばかりおもっていたのだけれども。
 ふと頭に浮かんだ考えに、僕は慄然とする。

 顎が震え、カチカチと歯が鳴った。
 胸が苦しい。うまく呼吸ができない。体が酸素を求めている。
 でも大きく息をしたら、この臭気まで取り込むことになる。
 それは厭だと、心が強く拒絶する。
 急に吐き気がこみ上げてくるも、それはゴクリと呑み込みどうにかこらえた。

「じゃ、じゃあさ、佐奈は? 佐奈の奴はどうしたんだよ?」

 恐る恐る訊ねると、啓介が無言のままスッと指差したのは祠のうしろの方。
 そこは入らずの森。
 陰気な森で奥の岩場には、地獄にまで繋がっているという深い亀裂があって、冥穴と呼ばれている。
 じつは小さい頃に一度だけ、みんなでこっそり穴を見に行ったことがあったが、森は枯れ木だらけ、まるで骨の墓場のような場所で薄気味悪く、冥穴のある場所には陽の光がまるで届かず、なかには暗黒だけがあった。
 試しに小石を投げ入れてみると、カラン、カラン、カラカララララ。
 落ちる音がいつまでも、いつまでも……
 本当に地獄まで続いているのか。
 すっかり怖くなった僕たちは、こぞって逃げ帰ったのを、いまでもよく覚えている。

 あまりのことに僕は呆然とするばかり。
 啓介の口から滔々と語られたのは、あの日の出来事――

「あれは……俺が山に芝刈りに行った帰りのことだったよ。空模様が怪しくなってきたもので、作業を切り上げることにしたんだ。
 そうしたら、たまたまこの近くで佐奈を見かけてた。
 声をかけようとしたら、すぐあとに続くハタの姿もあった。
 ふたりでこそこそ、めくりさまの境内に入っていくじゃないか。
 何かとおもって後をつけてみれば、あいつら祠の裏で乳くり合っていやがった!
 ハタの野郎、頼子っていう彼女がいるくせに、俺の佐奈にまで手を出していやがった。
 もちろん俺は怒鳴り込んで、問答無用でぶっ飛ばしてやったさ。
 そしたらハタの野郎、余計なことをしゃべりだしたんだよ……本当に余計なことをベラベラベラベラとよぉ。
 なぁにが『自分だけじゃない』『他の連中もみんなやってる』『誘ってきたのは佐奈の方だ』『頼子にバラすと脅された』『本当はイヤだったんだ』『おまえには悪いと思ってる』だ。
 やることだけしっかりやっておいて、バレたとたんに、あーだこーだと。
 あんまりな言い草でよぉ。とてもじゃねえがまともに聞いちゃいられなかった。
 だから、だから俺は……ついカッとなっちまって、腰に差してた鉈でアイツの脳天をかち割ってやったんだ。
 くははは、そうしたらあの野郎、ぴゅうぴゅう噴水みたいに頭から血を噴いて、くたばりやがった。ははは、ざまぁねえな。
 でもよぉ、そうしたら、返り血を浴びた俺をみて佐奈が『人殺し!』って叫びながら逃げ出したんだ。
 もちろん俺は佐奈を追いかけたよ。あいつのやったことは許せねえ。ずっと俺を裏切っていたんだからな。でも、だからって、ハタみたいにやっつけてやろうとは思っていなかった。本当だ、それだけは信じてくれ。
 俺はただ、あいつの口から、本当のことを聞きたかっただけなんだ。ちゃんと詫びを入れてくれたら、許すつもりだったんだ。
 なのに佐奈は俺の言うことなんて、ちっとも聞いちゃくれない。
 いくら危ないから走るなと言ってもダメだった。真っ裸のまま半狂乱になって駆け続けるんだ。
 すると案の定さ。
 佐奈のやろう、岩場で足を滑らしやがった。
 冥穴にすってんころりん、落っこちてしまった。
 悲鳴もすぐに聞こえなくなっちまったよ。どうにかして助けてやりたかったけど、どうにもなりゃしない。じきに雨も強く降り出してきやがった。ザァザァとよう。
 俺は冥穴の前でへたり込んで、濡れるにまかせていたよ。
 一時間、二時間? どれくらいそうしていたのかわからねえ。
 すっかり体が冷え切っちまって、意識もぼんやりしていたし、いっそこのまま自分も佐奈を追って穴に飛び込もうかと思った。
 でも、その時のことさ。
 不意に首のあたりがチクリとしたとおもったら、ふわりと背後から抱きついてきた女がいた。
 その女がさ、耳元で『可哀そうに、あなたは何も悪くないのに』と囁いてくれたんだよ――サレスさまが」

 サレス……
 閑古鳥の館の新たな主人で、衛が心酔している人物だ。
 それが何の脈絡もなく啓介の話に登場したもので、僕はおおいに困惑する。


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