24 / 83
第二十四話 出陣
しおりを挟む心なしか空気にまじる湿り気が鼻につき、そろそろ長雨の季節の到来を予感させるようになってきた、ある日のこと。
この頃は曇天続きにて、ちっとも洗濯物が乾かないとぼやく七菜を手伝って、大きな背を丸めて洗いものに精をだしていた鈍牛。
肩にとまった茶トラの小梅が、しきりに自分の顔をきれいにしていることから、いよいよ本格的に降り出すかも、なんぞとぼんやり考えつつ手を動かす。
その日も仕事は山積みにて、朝から忙しく、いつもと変わらない一日となるはずであった。
唐突に城全体がざわりと震えた。
奇妙な感覚に襲われ鈍牛、はっとする。
隣にいた七菜にも感じられたようで、不安とおびえを混ぜたような表情を見せていた。
「なんだろう……。いま、城そのものがゴトリと揺れたような」
「ひょっとしたら琵琶湖の大なまずが動いたのかも」
日ノ本一の湖のヌシ。それが暴れて地震が起こると巷ではもっぱらの評判にて、怖くなった七菜は無意識のうちに鈍牛の衣の端を掴む。
だけれども鈍牛は首をかしげるばかり。
なぜなら肩にいる小梅は、かわらずのんびりした調子だから。もしも地震とか天変地異の前触れならば、獣は真っ先に反応するはず。
などと思っていたら、廊下を慌ただしく移動していく近習の姿が目に入る。
続いて何人もの侍たちや女中らも行ったり来たりし始め、その数がどんどん増えていく。
いったい何事? と二人が立ち尽くしていると同僚の下働きの姉さまが彼らを呼びに来た。
「七菜、鈍牛、そっちは後回しでいいから、こっちを手伝って」
「どうしたんですか、姉さま」と七菜。
「どうもこうもないよ。殿さまが出陣なされるんだってさ。急に決まったらしくて、おかげで城内はてんやわんやだよ」
なんでも西国に赴いている羽柴さまからの要請があって、自ら武威を示すべく出陣なされるんだとか。
思い立ったら即行動を信条としている、とってもせっかちな織田の殿さま。
先ほど城が揺れたように感じたのは、城の主の意志に、集いしみんなが呼応したから。
いついかなる時にも備えているのが戦国の武士の心得。
とはいえ、出立するにはそれなりの準備がいる。その最低限の準備のために奥も表も、手の空いている者全員が駆り出されて、たちまち城はお祭り騒ぎとなり、鈍牛らもしっかりこれに巻き込まれた。
これから戦に赴くとあって、早くも殺気を抑えきれない者、鼻息荒く手柄を立てんと野心を抱く者、内心の怯えを誤魔化し虚勢を張る者、残していく者との別れを惜しむ者……。
あちらこちらにて様々な人間模様がくり広げられている中、とくに悲鳴をあげていたのは小荷駄部隊の面々。
大勢の人間が動くとあれば、それだけ多くの武具や糧秣も動かさなければならない。
ついこのあいだ、各地へと征伐に向かった武将たちの支援として、六割近い人員を割いたばかりだというのに、さらに吐き出せと言われたのだからたまらない。人手があまりにも足りなさすぎる。
いかに信長さまの命令とてさすがにこれはと、意を決した部隊のいちばんえらい人。
打ち首覚悟にて「せめて、三日下さい」と直談判。
しかし返答は無情にて、「ならぬ」とのおおせ。
それでも無理なものは無理。恥も外聞もかなぐり捨てて泣いてすがって、どうにか認めてもらえたのは、準備が整った分から、逐次送り出すという妥協案。
いきなり百の物資をそろえるのは不可能でも、とりあえず二十ならばなんとか対応できる。
これで現在の限られた小荷駄部隊の人員でも、どうにか難局を乗り切れる目処がついてひと安心。まぁ、だからとて仕事が楽になるわけではありませんけれども。
部隊員一同、苦いマムシの干物をかじり眠気を吹き飛ばしながら、ソロバンをはじく指先を血でにじまし、関係各所の調整をはかりつつ、懸命に遠征の準備を整えていく。
どうにか第一陣の準備を整えたのと同時に、信長さまも出発。
とりあえず京にて態勢を整えるゆえに、用意が出来次第、どんどん送ってこいとの申しつけにて、わずかな手勢にて、さっさと行ってしまった。
織田家の行軍行動の激しさは伝え聞いていたけれども、じっさいに目の当たりにすると、まるで迫力がちがうと鈍牛はおどろかされてばかり。
まさしくすべてを巻き込み轟々と燃え盛る炎。その熱量のあまりの凄まじさよ。
天下布武を掲げ、日ノ本を平らげようとする男の苛烈さの一端を、鈍牛は垣間見たような気がした。
あわただしい一日をどうにか乗り切り、やれやれと大部屋に下がった鈍牛。
横になろうとした矢先に、大部屋の障子が勢いよくターンという音にて開かれる。
立っていたのは具足を身に着けた人物。
「それがし小荷駄部隊の岡本新右衛門と申す。鈍牛どの、火急にてそこもとの身柄、わが隊が借り受けることとあいなった。ついてはすぐに一緒に来てくれ」
急な申し出ながら、上役同士ですでに話がついているという。
というか以前から鈍牛のことを狙っていた岡本新右衛門。まえまえから打診をしていたのだが、奥の女衆が頑として聞き入れてくれない。さて、どうしたものかと悩んでいたところにこの度の出陣。これ幸いとどさくさに紛れて鈍牛の身を一時的に借り受けることに成功する。
もちろん、このままずるずると取り込んで、離さない所存。
いざともなれば、親類の娘を見繕って身内にとり込む覚悟。
そんなことは億尾にも出さない岡本新右衛門。「さぁ、いくぞ」と鈍牛を引っ立てていく。
「行くって、どこへ」
鈍牛がたずねると岡本新右衛門は言った。
「あぁ、これより荷駄の第二陣が出立するので、おぬしにはそれに付き合ってもらう。行き先は京の本能寺じゃ」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる