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第三十四話 田所甚内
しおりを挟む屋敷での丁重なもてなしに、目をまちくりしながら奥へと通された鈍牛こと芝生仁胡。
庭に面した十畳ほどもある座敷にて彼を待っていたのは、白髭の好々爺、田所甚内。
「やあ、たいへんだったね。まずはこちらへ」
人懐っこい笑みにて、すすめられるままに向かいの席へとついた鈍牛。フカフカの座布団の感触にびくり。あちこち駆けずりまわってドロだらけの体にて、もしきれいな畳を汚してしまったらと考えると、どうにも尻の座りが悪くてしょうがない。
そんな若者に老人は目を細めている。
「なに、気にせんでよろしい。それよりも疲れておるし、腹も減っておろう。お連れさんなら心配いらぬから、先に風呂にでも入ってさっぱりしてくるがええ」
あいさつもそこそこに、甚内が手を軽く打ち鳴らす。
すぐさま襖が静かに開いて男の奉公人が姿を見せた。
「湯の準備は?」
「整っております」
「そうか、ならば二人分の着替えと食事の用意をたのむ」
「かしこまりました」
男の奉公人が下がると、すぐさま別の女の奉公人が姿をあらわして、湯殿に案内してくれるという。
正直、わからないことだらけにつき、混乱している鈍牛。それでも老人の厚意だけは伝わっているので、ありがたく言われるままに従うことにする。
「あっ、そうだ、小梅はどうする?」
肩にのっかっている愛猫にたずねると、シュタと座敷に降りた茶トラの猫。
さっきまで鈍牛が腰をおろしていた座布団の上にいき、その場でくるっと丸くなる。
どうやら彼女はお風呂があまり好きではないようだ。ついでに壺の入った大切な風呂敷も小梅に預けておくことにして、そばへと置いた。
いまさらながら風呂敷包みが気になった田所甚内、「それはなんだ」とたずねたら「糠床」と鈍牛がこたえたものだから、奇々怪々な老人の目が点に。それからなんとも気の毒そうな顔を青年に向けた。
よもやこの若者が、本能寺の変に居合わせていたとは思いもよらない田所甚内は、壺の中身にとくに興味も抱かなかった。むしろ安土の苛烈な火事場のことにて、とっさのことゆえ、そんなモノしか持ち出せなかったのかと、いたく同情したぐらいである。
生暖かい視線を向けられて、鈍牛は内心で首をひねるも、そのまま席を立つ。
長い廊下を何度か曲がった先にあった湯殿。
脱衣所にてうす汚れたボロ着を脱ぎ、すっかり裸となったところで、鈍牛は首をかしげる。
さきほどの田所甚内の発言に、何やら引っかかりを覚えたのだ。
が、そんな思考は香る檜風呂を前にして、すぐにどこぞへと消し飛んでしまった。
「うわぁ、こんな立派なの、はじめて見た」
六尺を超える鈍牛が五人は並んで入れるほどの大きさの風呂。
そこになみなみとはられた湯。これだけの量を沸かすのに、どれだけの薪と人手がいることか。
なんと贅沢なことかと感嘆のあまり立ち尽くす。
だがそんな感動をさえぎったのは、無遠慮な背後からの声。
「うしろがつかえておるのだから、とっとと入れ」
びっくりしてふり返れば、そこには裸の男の姿があった。
背丈はほどほどにて自分の胸元ぐらい。無駄のない引き締まった肉体をしているが、それが見た目通りではないと感じさせる何かがあった。
逞しいだけなら、立派な体躯だけならば、農民や武辺者らの中にいくらでもいる。だがそれらとはまるでちがう。しいてあげれば牙と爪を持つ獣、ずんと子どもの時分に寺で見せてもらった掛け軸に描かれていた虎の姿が、とっさに鈍牛の脳裏に浮かぶ。
ではなくて、何やら見覚えがあるような、ないような……。
むむむ、と眉間にしわを寄せた鈍牛、すぐに「あぁ!」と思い出す。
「たしか安土のお城で見かけた忍びの人」
夜更けの城の中庭にて、本物そっくりな石灯篭に化けていた忍者のことを思い出した鈍牛。あの夜は他にもスゴイ忍者を遠目にだが二人も見かけたから、彼の記憶の中に深く刻まれていたのである。
しかし覚えていられたほうは、ちっともうれしくなかったらしく「ちっ」と舌打ち。
「いっそのこと忘れておればよかったものを。オレは加藤段蔵、仔細は……、まぁ、あとでよかろう。どうせ奴が話すだろうしな。それよりも、いつまでこうやって見合っておるつもりだ。オレに衆道の趣味はないぞ」
言われて、はっとする鈍牛。
大の男二人が真っ裸にて、ふんどしもとった状態であったのを思い出す。
「ほら、とっとと体を洗って湯につかるぞ、鈍牛」
「えっ、どうしてソレを」
「それはおまえが自分で考えておるより、ずっと周囲の耳目を集めているということさ」
加藤段蔵より言われて、きょとんとした表情を浮かべた鈍牛。その大きな背中を押されるようにして湯殿へと入っていく。
「にしても、どこの馬の骨かとおもえば、とんだ大天狗ではないか」段蔵ぶつくさ「やれやれ、忍びとしてだけでなく、男としても自信をなくしそうだ」
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