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第三十五話 クノイチと老怪
しおりを挟む鈍牛と段蔵が湯船にて、のんびりと裸の付き合いをしていた頃。
お良はひそかに目を覚ます。
気づけば見知らぬ屋敷内にて、我が身にはあきらかに玄人の手によって傷の手当がなされている。七菜の姿はすぐとなりの寝床の中にあった。よほど疲れているらしく、ぐっすりと寝入っている。
愛用の二本の小太刀と忍び道具が入った小袋は、枕元に置かれてあった。
すぐに五感を研ぎ澄まし周囲の気配を探り、様子を伺う。
これはいわば忍びの習性みたいなもの。
床を伝うかすかな振動、遠くに聞こえる音から、相当数の人が勤めていることが判明。ただし歩き方や動きから、どうやら訓練を積んだ者ではなくて、ただの奉公人たちのようだ。
当面の危険はないようだが、さりとて油断はしない。
ふいに、襖の向こうに気配があらわれて、お良は瞼を閉じてまだ目を覚ましていないふりをするが。
「とっくに気がついておるのだろう。にしても女狐が狸寝入りとは、これは愉快」
くつくつ笑ったのは白髭の老爺。この屋敷の主人である田所甚内であった。
すぐに観念して目をあけたお良。部屋に入ってきた老人をひと目みて、なにやら得たいの知れない悪寒に襲われる。商家の隠居風ではあるが、どうにも掴みどころがない人物。すぐそばにいるというのに、存在が希薄。霞か陽炎のようにて、まるで斬れる気がしない。
「はぁー」寝たままタメ息をついたお良。「ったく次から次へと、どうしてこうも化け物ばかりが寄って来るのやら。いちど清水に厄払いにでも行こうかしらね」
「ふふふ、また、心にもないことを。忍びが神仏を頼みにするなんぞ、聞いたこともない」
「ということは、まさかあんたも?」
「そういうことじゃ。とはいえお主とはちがって、個人でやってる趣味みたいなものじゃがな」
きったはったが日常茶飯事の忍び働きを、たんなる趣味と言い切る老人の言い草。
これにはお良も思わず顔をしかめてしまう。
「これこれそんな顔をするでない。せっかくの別嬪さんが台無しじゃ。機嫌を損ねたのならばあやまろう」ペロリと頭を下げてみせた好々爺。
田所甚内と名乗ったのちに、彼は「ちとたずねたいことがある」と言い出した。
「お主の目からみて、あの子をどうおもう?」
あの子とは、もちろん鈍牛のこと。
どうと言われてもと、お良、しばし黙り込む。
はじめはただの体の大きなガキだと思っていた。けれどもいちおうは忍びの家系だと聞いておどろき、その力の強さにおどろき、安土に行く目的を聞いておどろきこそしたものの、忍者としての実力はからっきしの隙だらけ。
当人の性格も温厚にておっとり。とても忍び働きが出来るような人間じゃあない。
だから優しくて力持ちの、気のいい青年にて、素直過ぎて誰かに騙されやしないかと、気を揉ませる男だと思っていた。
だけれども甲賀の六道左馬之助に襲われて、窮地のおりに駆けつけてくれたときに見せた身体能力は、あきらかにおかしかった。
人体をたやすく壊し、蔵の厚い土壁をも一撃にて粉砕する必殺のクサリ分銅を、苦もなく受け止めるなんて、とても人間技じゃない。
いや、相手は名うての化け物にて、それをも超えている時点で完全に別の領域に足を踏み入れている。
なにより、あのとき見せたふしぎな瞳……。
考えに沈んだお良の沈黙。
それこそが鈍牛のことを何よりも雄弁に物語っていた。
「わしは、いささか芝生仁胡という男に興味がある。とはいえ、その身をどうこうしようとは考えておらんよ。利用する気も毛頭ない。あくまで知りたいと思っておるだけじゃ」
「興味、知りたい? いったい何を」
「ざんばら髪の下にある瞳のこと、それから生まれなんぞについても、かな」
田所甚内が鈍牛の瞳について口にしたとたんに、お良の身が固くなる。
それを見た老爺、「どうやら間近で見たようだな。あの力の片鱗を。その辺のことについてもおいおいたずねたいところじゃが、そろそろアヤツらが風呂からあがってくるだろうし、またの機会としようかの」
老爺は横になっているお良に「なぁに、案ずるな。悪いようにはせぬから。ワシを信じよ。どのみちそのザマではろくに動けまい。いまはとりあえずしっかり休んで回復に専念せよ」と言って話を打ち切り、部屋を出ていった。
謎の多い老人を前にして、知らず知らずのうちに緊張していたのか、ふと、全身が弛緩するのをお良は感じる。とたんにどっと疲れも押し寄せてきた。
やや呆けたようなありさまにて、ぼんやりと天井を見つめながら「あの爺さんも立派に化け物だねえ。でも、だとしたら鈍牛も……」
ついそんなことをつぶやくも、若者の顔を思い浮かべると、恐れよりもまず愉快な気持ちが先に立ち、自然にくすりと笑みが零れてしまう。
そのとき、すぐ隣で寝ていた七菜が「うー、鈍牛さん、ああん、そこはダメだってばぁ」との寝言を口にした。
はてさて、いったいどんな夢を見ているのやら。
すっかり気が抜けてしまったお良は、自分だけが真面目に考えているのが馬鹿らしくなり、そのまま目を閉じた。
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