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第三十六話 忍び語り
しおりを挟む風呂をあがった鈍牛と加藤段蔵らは、用意されてあった真新しい浴衣に袖をとおし、旬の素材がふんだんに使われた豪華な膳をふるまわれて、腹をおおいに満たす。
すっかりいい心持ちになった鈍牛。うつらうつらと舟を漕ぎ出したので、あてがった寝室へと案内させて休ませると、あとに残ったのは田所甚内こと果心居士と加藤段蔵の二人きり。
ここから先は大人の時間だとばかりに、話しは一献傾けながらとなった。
「鈍牛が何も言わぬということは、その姿がおぬしの素か」との加藤段蔵の言葉には「はてさて」とあいまいな笑みを浮かべた果心居士。
真偽のほどはていよく誤魔化されて、段蔵はフンと鼻を鳴らす。
「まぁ、いいさ。それよりもぬしの星読みが本当に当たったな。しっかし、あの第六天魔王が死ぬとはなぁ。存外、あっけないものよ」
しみじみそう語った段蔵。
彼にとっては裏切られたとはいえ、かつて世話になった古巣の武田家を滅ぼしてくれた相手。甲斐の虎をもついには上回るほどの覇を日ノ本に唱えた男。
その最期がまさかの腹心からの謀反とは、なんとも戦国の世らしい。
「とりあえず、魔王よ。おつかれ」
澄んだ酒の注がれた杯を掲げた段蔵。
これに果心居士もならい、二人して不世出の英雄の死を悼む。
グイとひと息に呑み干した段蔵、「うまいな、これ」と言った。
「なにせ興福寺の清酒だからな。京の知り合いから特別に回してもらったのよ」
「ほぅ、これが。まえまえから話には聞いていたが、白酒とはまたちがった旨味があるなぁ。じつに甘露甘露」
興福寺の清酒といえば、たびたび権力者に献上されるほどの、特別な品。
一般に出回ることはほとんどなく、かなり地位の高い者でもそうそう飲めるものではない。
それが詰まった徳利を前にして、死者への鎮魂や感傷なんぞ、酒といっしょに呑み込んで、あっさりと忘れてしまう段蔵の姿に、おもわず果心居士も苦笑い。
しばし心地よいほろ酔いに身をゆだねつつ、男たちは互いの近況なんぞをつらつら語り合う。
「その信長殿なのだがなぁ……。なにやら奇妙な話が出回っておる」
杯を重ねるうちに、果心居士がぽつり。
「奇妙な話?」
なんとも意味深な物言いにつき、気になった段蔵。おもわず首を亀のようにのばし、前のめりとなる。
話によると、あれほど鮮やかな手並みを見せた明智光秀。都での動きも迅速にて密、それこそ水も漏らさぬほどの包囲殲滅戦をやってのけた。
だというのに、肝心の信長の首をとり損ねたという。これは命という意味ではなくて、文字通り首から上の部分のこと。
「よもやそれで、じつは生きておるのかもとか。ばかばかしい」
体も炎のせいで跡形もなく消え失せており、首も見当たらない。だから生存説が市井にてまことしやかに流れているんだとか。
いかにも大衆が好みそうな無責任な噂である。英雄が非業の死を遂げると、決まってどこぞよりこの手の話がわいて出るもの。だから段蔵は一笑にふした。
「わしとて信じてはおらぬよ。信長は本能寺で死んだ。それは間違いない。だが首がないことで、またぞろ騒ぎ出している連中がいる」
確かな証が欲しいと考える者、民草の無責任な噂に怯える者、亡き主君を慕う者、英霊にあやかりたいと願う者、下種な好事家……。
それらが忍びを雇って駄目もとにて、首の行方を密かに探っているとのこと。
これには「ご苦労なことだな」と段蔵、あまり興味なさげにて「しかしなぜそこで好事家などという輩までもが絡んでくる?」と首をかしげる。
「かつて信長公が浅井長政の髑髏を盃にしたであろう。アレと似たようなことを考えている物好きがいるらしい」
「それは、また、なんとも、いい趣味をしておる」
金持ちの暇人の考えることはわからん。心底呆れたとばかりに段蔵は肩をすくめてみせる。
加藤段蔵も果心居士も、よもや信長の首が、同じ屋敷内にて眠っている鈍牛の枕元にあろうとは夢にもおもわない。
この話は早々に打ち切って、段蔵はずっと気になっていた疑問を口にする。
「それにしても、どうして安土を焼いたんだ? アレほどの華の都を、なんともったいない」
これには果心居士「うむ、それはおそらく、勝ち過ぎたせいであろうの」とこたえた。
集めた情報によれば、反織田の勢力は浅井や朝倉家が敗れたあとでも、水面下ではずっとくすぶっていたという。
なにせ織田信長という男は、あちらこちらにて恨みを盛大に買いまくっていた。
政治、宗教、経済……、ありとあらゆる分野にちょっかいを出しては既得権益を侵したもので、それはもう方々から嫌われており、彼を殺したいと思っていた輩は枚挙にいとまがない。
一つ一つは本当に小さな火種。だがそれもより集まれば、条件次第では山火事のようにはげしく燃え広がることもある。
今回がそれであったのだ。
しかしこの度の謀反に直接間接的に加担した者らも、よもやこれほど鮮やかに明智光秀が勝ちをおさめるとは思いもよらなかった。
天運もあったのだろうが、必要最小限の労力と時間にて、信長を害することから安土の地の制圧まで、そのすべてを滞りなく済ませてしまった。
織田の権勢、財、地盤、その他の遺産が丸ごとそっくり、きれいなまま残されている状況。
それが意味することは、ただ一つ。
第二の魔王となりうる存在の誕生。
明智光秀という男の人となりを考えれば、それはありえない。
だがそのありえないことが、ままにして起こるのが人の世にて。そして人の心もまた移ろいやすい。
裏でこそこそと動いていた連中は、己の抱える闇と業が深いがゆえに、どうにも彼を信じきれなかった。
これが安土が火炎地獄となった第一の理由。
第二の理由は、京の都の矜持にある。
あのままいけば、遅かれ早かれ政治や経済の中心は安土へと移行していた。都の地位は安土にとって代わられていたであろう。事実、日ノ本の中心は安土と、周囲にはばかることなく公言していた者も少なくはなかった。これにどうしても我慢ならない連中がいたのである。
第三の理由は、商人たち。こちらは至極単純な動機。
大きな都が燃えて灰になる。復興するにしろ、新たに違う場所に町を造るにしろ、城を建てるにしろ、そこには莫大な物と人と金の流れが生まれる。つまり商人どもからすれば、ほどほどに馬鹿な侍たちが争ってくれている世の中の方が、よほど実入りいいのだ。
これらの理由に、あとは微細な私怨などが加わった結果が、あの阿鼻叫喚の地獄絵図。
これらの話を聞いた加藤段蔵がもらした感想は「くだらねえ」のひと言だけであった。
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