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第三十七話 天敵
しおりを挟む話が火炎地獄下での安土に及び、加藤段蔵の口から彼が見てきたことを聞いて、ううむと唸った果心居士。
あいにくと段蔵が目撃したのは、鈍牛へと襲いかかった甲賀者が悲鳴をあげて、逃げ出すところ。燃え盛る安土の中を駆けずりまわって、ようやく見つけたときには、その場面であった。
「おそらくだが、そやつは仁胡の目をまともに見てしまったのだろう」
鈍牛の瞳に秘められた力の一端が発露したと知り、表情を曇らせる果心居士。
「例の破眸(はぼう)とかいうやつか? あやつもまた難儀なものを宿したものよ。しかしそれほど気に病むこともあるまい。ようは目を見なければいいだけのこと。姿を見られるまえに首をかき切るか、なんなら種子島でズドンとやれば、一発で片がつくのではないのか」
加藤段蔵の方は、いざともなればやりようがいくらでもあるとの余裕にて、徳利より手酌にて杯に酒を注ぐと、ウマそうにこれを飲み干す。
だが老爺は「無理じゃろう」と言下に否定。「さすがに伝承の通りの能力とは思えぬが、それでもおそらくは当たるまいよ」
その言葉に段蔵の手が止まる。
「おいおい、まさか、弾が避けて通るとでも言うつもりか」
「逆じゃ、鈍牛が弾の飛んでこないところを勝手にふらつくのだ」
「なんだい、そりゃあ?」
「一切意識することもなく、認識の外から迫る害をことごとくかわすんじゃよ。いいや、おそらく当人はかわしているつもりもないことじゃろう。あれにとっては、『ただなんとなく』の行動にすぎないはず」
ただなんとなく……。
それだけで、忍びの秘術を見破り、鍛え上げた技を打ち破り、矢どころか鉄砲の弾をもかわす。
この話には段蔵も、ううむと唸る。
せめて厳しい修行を積むなり、いくばくかの武術の心得でもあってくれれば、まだ納得もいくのだが、あいにくと鈍牛は体が大きいばかりの、まったくの素人。
体幹もぐらぐら、重心も関係なし、全身の筋肉が連動することも、鋭い感覚が働くこともない。おそらくはまともに人を殴ったこともあるまい。
なのに避けられる。まず、いかなる攻撃もろくすっぽ効果がない。
人外よ、化け物よ、と言われる忍びよりも強い門外漢。
矛盾の塊のような存在。これをまえにして、加藤段蔵は自分の忍びとしての矜持がゆらぐのを感じずにはいられない。否定うんぬんではなくて、根っこの部分をちょん切られたような感覚にて、どうにも身の内がぞわぞわする。
「やれやれ、忍びが忍びであるかぎり、どうにもならぬな。もはや天敵ではないか。これは触らぬ神に祟りなしというやつじゃあないのか」
お手上げにてムキになるだけ損と判断した段蔵。杯にてちびちびやるのがついに面倒になって、直接、徳利からグビグビ酒をあおり出す。
そんな段蔵に果心居士は言った。
「さて、今後のことじゃが、ワシは仁胡にくっついて高槻へいってみようかと思うておる」
地名を聞いて、とっさにどんな場所かを思い出していた段蔵。
忍び働きにてあちこちを駆けずりまわっていたので、たいがいのところには足を踏み入れており、地理を把握している。
「たしか京より西に向かう街道沿いの地だったな。いまはあの伴天連かぶれが治めていたか」
段蔵に伴天連かぶれと言われたのは、南蛮より渡来した宗教に深く帰依している武将、高山右近のこと。
かの神とやらは「汝の隣人を愛せよ」などと、甘っちょろいことを言っているわりには、信徒である武将は、その勇猛振りを世間に広く知られている。
あれだけザクザク人の首を狩っておいて、愛だの平和だの極楽だのとあるものか。
とかく信仰というのは、世と人心に混乱ばかりもたらすと段蔵はバッサリ切り捨てる。
「それは同感だが、ワシが気になるのは、どうしてあの土地なのかということじゃ」
「どういうことだ?」
「あそこから京には、のんびり歩いても二日もあれば女子どもの足でもたどり着ける。古来、都にはいろんな呪法が施されており、四神の守りもあり、霊的地場も富士の山に匹敵するとか。すぐそばにそんな場所があるというのに、海を渡ってきた初代が、どうしてわざわざあんな土地に腰を落ち着けたのか」
「とはいえ、あそこはただの通り道だろう。ほとんどの奴らが素通りするだけの場所だ。オレも西国へ行くのになんどか通ったが、とりたてて何もなかったぞ」
「ワシもなんども通っておる。たしかに一度も足を止めたことがない。だが……」
それ以上はまだ考えがまとまっていないのか、自分でもよくわかっていないのか、口をつぐんでしまった果心居士。
忍び語りの酒宴はここまでにて。
なお鈍牛の警護依頼は継続されることだけ話がまとまる。
追加報酬として充分な金子のほかに、興福寺の清酒を樽で二つもらい受ける約定をちゃっかりとりつけた段蔵なのであった。
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