高槻鈍牛

月芝

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第三十八話 急変

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 田所甚内こと果心居士の山科の屋敷に滞在すること、早や三日。
 日頃から鍛えているクノイチだけあって、お良の回復も順調にて、介添えの七菜の手を借りずとも、すでに動けるまでになっていた。
 なお、果心居士は鈍牛たちに自分の正体をまだ明かしてはいない。
 あくまで親切で物好きな老爺を装っている。加藤段蔵も彼が雇っている警護の者ということにしておいた。
 対する鈍牛もまた、自分が信長の首を抱えていることを誰にも話してはいない。知っているのは愛猫の茶トラの小梅だけ。
 事態が大きく動いたのは、この日の夕刻。
 屋敷へと届いたのは田所甚内の手の者よりの一報。
 文に素早く目を通した田所甚内は、すぐさま鈍牛たちを一室に集める。
 鈍牛こと芝生仁胡、七菜、お良、加藤段蔵らを前にして、老爺は開口一番にこう言った。

「羽柴がくる」

 中国にて備中高松の城を攻めていたはずの羽柴秀吉が、毛利家との講和をまとめ、軍勢を引き連れて、猛然と駆け戻ってきている。
 目的はもちろん主君の仇討ちだ。

「いくらなんでも速すぎだろう。それに大半が徒歩の兵のはずなのに、ありえねえ」

 そう口にしたのは加藤段蔵。
 二万近い数の軍団を従えての行軍行動。五十里(約二百キロメートル)にも及ぶ移動距離を考えれば、どう少なく見積もってもひと月近くはかかってもおかしくない。
 それとて天候に恵まれ、途中で何も問題が起こらなければの話だ。
 だが実際にはそんなことあり得ない。遠征とはそういうものなのだ。
 たしかに段蔵の言う通りにて、かつて聞いたこともないほどの行軍速度に、クノイチのお良も驚くも、それとは別に彼女はある疑念を抱いていた。
 それは情報の伝達があまりにも速いということ。
 ざっと逆算すれば、おそらく秀吉の耳に主君の訃報が届いたのは、本能寺の変が起こってから、あまり時を置いていないはず。それに秀吉からの出征要請を受けて、信長は安土を発ったはず。すべては偶然なのか、それとも……。
 ありえない報せをまえにして、鈍牛はじつはそれほど驚いてはいない。
 彼はほんの少しの間だけではあったが世話になった上役の者から、羽柴家の石田三成という人物が、小荷駄部隊の格を二つも三つも跳ね上げたほどの切れ者だと聞かされていたからである。
 だからそんな人物がついていれば、さもありなんとひとりごちていた。
 城の下働きに過ぎなかった七菜には、そのへんがよくわかっておらず、しょせんは雲の上の連中がやることにて、自分には関係ないと猫の小梅を膝の上にのせてじゃれている。
 四者四様の態度にて、七菜と小梅を置いておいて話をすすめる田所甚内たち。

「で、おそらくは数日中に羽柴と明智がやりあうことになる。そこで問題となるのが場所なのだが」ここで少し言い淀んだ甚内。ようやく口にした戦場となりそうな地域は、京の手前辺り。
 そこには高槻もいささか被っており、これに鈍牛、おおいに血相をかえた。

「えぇっ! なら、すぐに戻らないと里のみんなが」あわてる鈍牛、いまにも立ち上がって駆けだしそうなのを「落ち着け」と甚内たしなめる。

「帰るとて街道沿いはダメじゃ。それどころか都近郊の主だったところには、すべて明智の兵が関所を設けておる。そんなところにのこのこ出かけてみよ。仁胡の風体では行く先々にて足止めをくらって、きっといつもより、よほど時間がかかるぞ」

 ざんばら髪の六尺越えの容姿にて、番の者に不審がられて身柄を拘束されると言われて、身におぼえのある鈍牛、「そんなぁ」とすっかり困り顔。

 そこで甚内が提案したのは川下り。
 自分の持ち船にて宇治から淀の流れへと出れば、順調に進めば一日あれば高槻までたどり着ける。仇討ちだ、謀反だのとやかましい陸路をいくより、よほど早く安全にいけるはず。
 これに鈍牛がよろこんだのは言うまでもなかった。
 と、ここで問題となったのが七菜とお良のこと。
 どうするとたずねられて、七菜は「絶対について行く」と即座に明言するも、お良は逡巡した。
 主を持つ忍びである以上は、いちど都にいる主人のところへ報告に戻るべきかと思案。でも鈍牛たちのことも気にかかるし。
 すると、ここで口を挟んだのが加藤段蔵。

「お良どのは、おおかた自分の役目について悩んでおるのだろうが、安土はあのざまにて一連のことなんぞ、とっくに雇い主の耳に届いておるわ。それどころか大方、あのどさくさで死んだと思われておるやもしれぬ。しょせん忍びなんぞは消耗品。遅かれ早かれ使い潰されて捨てられる身ならば、いっそこのまま足抜けするか、姿をくらますがよほどいい。さいわい信長公の後釜をめぐって、しばらく世が荒れそうだし、こんな機会、めったにないぞ」

 役目を捨てる? 以前のお良であれば、まるで聞く耳を持たなかったことであろう。しかしいまの自分にはそれが出来ない。
 原因なんてわかり切っている。
 ちらりと見れば、大きな体でおろおろしている鈍牛と、猫と戯れている七菜の姿。
 ここで放り出すには、かなり不安な二人。
 というのは、たぶん自分で自分についた言い訳。
 はぁ、とタメ息をついたお良「わかったよ。わたしもついて行く。とりあえず鈍牛の故郷に行ってから、今後の身のふり方は考えるとするよ」

 お良が観念したところで「では早速出発するぞ」と田所甚内。
 かくして女二人に男三人と猫一匹は、急遽、山科の屋敷を発つこととなった。


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