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第六十三話 果心居士
しおりを挟む周囲が女だらけの中に爺が一人。
この場に集いし全員が忍び。
白巴蛇の孤軍奮闘にて、かなり敵勢の数は減らしたものの、それでもまだ三十を超える。
しかも全員が鬼退治にやってきた手練れのクノイチにつき、実際の脅威度はそれほど下がっておらず、少しばかりマシになった程度のこと。
いきなりの加勢に一群が乱れていたのも、わずかなこと。
すでに落ち着きをとり戻しており、包囲網を再構築。新たに加わった白髭の老人の様子を注意深く伺っている。
「やれやれ、女どもからの視線が熱いわい。できればもう二十年ばかし前に味わいたかったがな。それにしても白巴蛇よ、いかに得意の術が封じられたとて、おぬしには他にも幻惑などの手札があろうに、なぜ使わぬ?」
「なぜだと? ちっ、決まっておろうが、目が多すぎるのだ。四方を騙したところで、八方から見破られる。表をいくら欺こうとも、裏からのぞかれたら種が丸見えじゃ。これではいかな奇術とて台無しよ」
つまり五人六人であれば一度に全員、幻惑の術に捉えることも可能だが、それが数十ともなればさすがに無理だということ。
だが白巴蛇のこの言い分に「ふむ」と顎髭をいじりながら首をひねる甚内老人。
「なるほど、ぬしの幻惑術は個で力を発揮するものか。どれ、ではここはひとつワシが頑張るとしようかの。ゆえに後の始末の方は頼むぞ」
「頼むぞって、いったい何を……」
ちらりととなりにいた老人に目をやった白巴蛇は、途中で口をつぐんだ。
田所甚内の瞳に異様な輝きを見たから。
空気中に気配が溶けていく。存在感が希薄となって、微かながらにあった体臭も消える。次に呼吸も心の臓の音も失せた。輪郭がぼやける。水に墨を一滴おとしたかのように、ふわりと広がり老爺が薄まっていく。
じきにすぐそばにいるはずなのに視界にその姿が映らなくなった。感知できない。完全に景色と同化してしまった。
薄い霞が発生する。ほんとうにごく薄い。あまりの薄さに目を凝らしてもよくわからないほどに微細なもの。
これを前にして咄嗟に己の鼻や口を庇ったのは、白巴蛇の忍びとしての勘。本能が吸ってはいけない、危険だと断じたのだ。
その反応が正しかったことはすぐに証明された。
対峙していたクノイチの集団の様子がおかしくなる。
すぐ隣にいる者を斬りつける者、仲間の背中に刃を振り下ろす者、奇声を発し暴れて刀を振り回す者もいれば、滅多やたらに手裏剣を周囲に投げつける者まで……、みな気が触れたように挙動がおかしくなる。
彼女たちは見せられていたのだ。
甚内の幻術によって自分に襲いかかる敵の姿を、我が身を這う毒蛇の姿を。
統制のとれていた集団が一気に瓦解。仲間同士で斬りつけ合う修羅地獄が出現。
なんとも浅ましい光景に白巴蛇も唖然とする。
これは同化などという生ぬるい現象ではない。まるで甚内自らが世界そのものと化して、その中にとり込んだ者たちを悪夢へと引きずりこんでいるようではないか!
伝説とうたわれる幻術の達人、果心居士。
その真骨頂を前にして白巴蛇は遅まきながら、あることを悟る。
己の幻惑術を個とするのならば、彼の幻術は対集団でこそ威力を発揮する広域の技。
各々への技のかかりはいささか浅いが、その分だけ一度に大勢の人間を誑かせる。
見せる幻術の程度を落とせば、その分だけより広く範囲が拡大。
例えば鼠一匹を見せるだけならば、それこそ百や二百、下手をすれば千もの数の人の目を欺けるかもしれぬ。
白巴蛇は戦慄を禁じ得ない。肌が粟立つのを抑えられない。
過去に二度対峙して、どちらでも勝利をおさめたものの、それは実力ではなくて、ただの相性ゆえのことでしかなかったのだ。
思考に囚われてやや呆けている白巴蛇の耳元で声がする。
「ほれ、これで更に半分ほどになったであろう。残りも手負いゆえに、早々に片をつけよ」
囁かれた甚内の声に、はっとなる白巴蛇。
倒れたクノイチの手より刀を奪い、すぐさま手近な者から始末していく。
正気を失い悪夢を彷徨う相手を狩るのは造作もない。
手慣れた様子にて首筋の動脈だけを狙い、切っ先を走らせる。さすがにこの数の首をまともに刎ねるのは、いささか骨が折れるがゆえに。
じきに立っているのが白巴蛇だけになったところで、消えていたはずの気配が濃くなり薄霧も晴れ、果心居士こと田所甚内がふたたび石橋の上に姿をあらわす。
しかし老人、肩でぜえぜえと息をして、脂汗びっしょり、前かがみの姿勢にて、どうにか踏ん張っているようなありさま。
「はぁ、はぁ、はぁ、さすがに濁流下りのあとの夜駆けに続いての徹夜明けに、これはちときつい」
そう言って、「おえっ」とえづく姿は草臥れた老人そのもの。
だが果たしてそれが嘘か誠かはわからない。
どうにも喰えない果心居士に険しい目を向けずにはいられない白巴蛇。
「そんなにバテたのならば、その辺のまだ温かい女御の体から精気でも吸えばよかろう」
この言い草には甚内の方が絶句。老体を労わるどころか、よもや死体を抱けと言われるとは思いもよらなかった。
「精を吸えだと? 無茶をいうでないわ。おぬしと違ってそんな器用な真似が出来るものか。なにより男は出すばかりなんじゃ。これ以上、絞られたら、死んでしまうわ」
老人の抗議は右から左へと受け流し、白巴蛇は早や浜へと向けて歩きだす。
本当ならばすぐに駆けていきたいところではあったが、彼女とてここまでの戦いでかなり疲弊していたのである。それでも懸命に鈍牛のところへと向かおうとする女の背に、甚内も続く。
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