これから夫は聖女様を愛する予定です

mokumoku

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1巻

1-3

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 するとバルディオスは足を止めて、レアセルの腰をぐいと自分の方に引くと「……君も来い」と呆れたように言った。 

「……かしこまりました」 
(え、私も一緒に⁉ でもそうよね、殿下一人では体調を崩したら困るもの。一応私が婚約者なのだし、一緒に行く権利がある……! え? どこに行くの? キャーやだやだ! 夢みたい!)


 レアセルは浮かれる心を押し殺し、バルディオスが進むままについて行く。 
 バルディオスは庭に向かっているようで、レアセルはソワソワしてしまった。 

(えー! パーティーを抜けて二人で庭に行くなんて、まるで恋仲みたいじゃない⁉ なーんて、ふふふ! 調子に乗っちゃ駄目よ、レアセル! 不幸が訪れる!)


 庭に出ると、月明かりのみだったパーティー前とは違い、足元をあかりがゆらゆらと照らしている。

(キレイ……) 

 レアセルが足元をうっとりと眺めていると「バルディオス様……?」という美しい声が聞こえた。
 レアセルが顔を上げると、そこには一人で庭に立つソフィアがいた。
 その瞬間、レアセルはバルディオスの謎の行動の意味を理解した。 

(あー! 殿下はソフィア様に会いにきたのね! だから顔が赤かったのだわ!) 

 レアセルはさりげなくバルディオスの手の中から抜け出し、前へ出る。 

「ソフィア様、ご機嫌麗しゅう」 
「……あら……?」

 挨拶をするレアセルを、ソフィアは不思議そうな目で見た。 
 その雰囲気に気付いたレアセルは顔から火が出そうになった。 

(キャー恥ずかしい! 私のようなちっぽけな存在……ソフィア様に認識されているわけないのに……! 自己紹介してからご挨拶をすればよかった! また失敗だわ!)


「私、レアセル・アルヴェスティアと申します」 

 レアセルは内心猛省しつつ、頭を下げて自己紹介をする。 

「アルヴェスティア……ああ、侯爵家の……はじめまして。あなたも大変ね」

 ソフィアは少し考えるような動作をした後、パッと花のような笑顔を見せた。 

「お恥ずかしながら……」 

 レアセルはソフィアが自分を思いやるような言葉を言ってくれたので、喜びに震えそうになる。 

(ソ、ソ……ソフィア様が私を心配してくださったわ! た、大変! こんなことある?) 

 レアセルは感動に目が潤んできたので、慌てて扇子を広げた。 
 心を落ち着かせようとうつむいていると、バルディオスがレアセルの存在を隠すように前に出る。

「……何をしている」 

 バルディオスはソフィアに向き合うと、低い声を出した。 

(こんな美女が一人でお庭にいらっしゃるなんて……殿下もご心配されて当然だわ……) 

 向かい合う二人は月の光に照らされて……いつもよりさらに美しい。 
 レアセルはそんな二人の邪魔をしないように、庭からそっと抜け出す。 

(今夜はなんていいものを見せていただいたのかしら! 本当はずっと見ていたいけど……そんなことしたら二人の時間の邪魔よね……!)


 レアセルはルンルンとした足取りで庭を後にした。 

(あー、やっぱりイケメンには美女よね……見てるだけで癒されちゃうもの……) 

 レアセルは王宮の廊下を優雅に歩きながら、そっと両手で自分の頬に触れた。すると、忘れていた左手の小指のことを嫌でも思い出してしまう。


(私の小指……一生返ってこないのかしら……) 

 レアセルは、小指などなくても生活に支障はないと思っていた。 
 人差し指や親指がなくなるのは困るが、小指はほとんど生活に使っていない、と。 
 でもいざなくなると、とても不便だ。物が持ちづらかったり、触りづらかったりするのだ。 

(実際に経験してみなければわからないことだわ……) 

 レアセルはそれに加えて……ぽっかりと胸に穴が空いたような……なんだか寂しいような、忘れ物をしてしまったような……そんな感情に時折悩まされていた。


 レアセルは偽物の小指をふにふに触ると、聖堂に向かって足を進めた。 

(一人出産しないと小指は返してもらえない……わかってはいるけど、ハードルが高いわ……) 

 レアセルはため息をつきそうになるのを我慢しながら、コツコツとヒールの音を立てて廊下を歩く。
 王宮の隣にある聖堂は、国民ならば誰もが自由に訪れることができる。だが、こうして王宮の中からのルートを知っているのは限られた者だけだ。


 そこにレアセルの小指は保管されている。 
 廊下を進むと徐々に人気ひとけがなくなっていく。最初の頃は多少すれ違っていた使用人たちにもほぼ会わなくなってきた。 
 廊下の端に着くと、少しだけ空気が変わる。レアセルは自身の背丈の半分くらいの小さなドアの前に立ち、首から下げた鍵を胸元から取り出した。


 ガチャ……と鍵がゆっくり開く音がしてレアセルは扉をそっと開ける。 
 その中に身を小さくして入ると、真っ白くて広い空間の中にポツリと立つ管理人がレアセルを迎えた。
 管理人は男性なのか女性なのか……よくわからないが、とにかく美しく、長くてきれいな銀髪を背中あたりまで伸ばした背の高い人物だ。


「いらっしゃい」 
「あ、すみません……小指が見たくなって」 

 レアセルが管理人にそう告げると、すでに木製のテーブルの上にレアセルの小指が入った瓶が置かれていて、管理人は手でそれを指し示した。まるでレアセルが来ることを知っていたかのようだ。

「会いにきたのかい?」 

 管理人はふわりとオレンジの香りを漂わせながらレアセルに尋ねた。 
 レアセルはなんだか無性に悲しい気分になって、ポロポロと涙をこぼしながらコクリと頷いた。 

「……私、小指があっても……他の男性に身体を開いたりしません」 

 レアセルは小指を眺めながらポツリと言った。管理人から渡されたハンカチで目元を拭う。 

「君はそうだろうね」 

 管理人はコポコポとお湯を沸かしながらコーヒー豆をく。そしていたコーヒーをフィルターに入れると、そこにお湯を回しかけた。 
 ふわりと部屋にいい香りが広がり、レアセルはそれを吸い込むように深呼吸をする。少しずつ落ちるコーヒーをぼんやり眺めた。

(いい匂い。心が落ち着くわ……) 
「それでも、小指がないから身の潔白が証明できるじゃないか。小指があったら面倒なことも多いものだよ? はい、どうぞ」 

 管理人は小さなカップの中ほどまで入ったコーヒーをレアセルに渡すと、ミルクカップからミルクを注ぐ。 
 トロリとレアセルが知るミルクより濃厚な……まるで生クリームのような液体が注がれていくのを眺めながら、レアセルは(美味しそう)とぼんやり思っていた。


「砂糖を入れる?」 
「……はい」 

 管理人がカラカラと角砂糖の入ったガラス瓶を振るのを見て、レアセルはうつむいた。 
 管理人がどこからともなく持ってきてくれた椅子に腰を下ろし、コーヒーに砂糖をポチャ、ポチャ……と落としていると背後のドアがガチャガチャと少し乱暴に音を立てた。


 ここの鍵を持っているのは、管理人とレアセル、そしてバルディオスだけだ。 
 レアセルは慌てて姿勢を正し、ドアに目をやる。思った通り、小さなドアに身体を押し込むようにしてバルディオスが入ってきた。 
 彼は小さいドアをくぐったせいだろうか……息を荒らげている。 

「殿下……! 大丈夫でございますか?」 
(キャー! 殿下とこんなところで会えるなんて、ラッキーすぎる……! ソフィア様との逢引あいびきが終わったから私に会いにきてくれたのかしら? なんちゃって、そんなわけないない! だってここに私がいるなんて誰も知らないもの! 偶然だわ) 

 レアセルはバルディオスが立ち上がるのを補助するように支える。顔を真っ赤に染めた彼は首元を緩めながら「……こんなところにいたのか」と低い声で言った。


 なんだかその声に怒りを感じたレアセルは「申し訳ございません。急に小指が見たくなりまして」と言い訳をする。 

(もしかして殿下……一人きりになりたくてこちらに来たのかしら? 邪魔してしまったかもしれないわ) 
「……ふん」 

 バルディオスはレアセルの回答に鼻を鳴らすと、そっぽを向いた。 

「殿下も飲まれます?」 

 管理人はにこにこ笑いながらコーヒーの入ったカップを掲げた。 

「……いらぬ」 

 バルディオスは首を横に振ると、管理人の前に立った。

ねやの準備段階に入りたい。許諾書をもらえないか」
ねやの準備?)

 レアセルは内心首を傾げた。けれど、バルディオスの邪魔になってはいけないという気持ちが先立って、口に出すのは控えた。それよりも今は早くコーヒーを飲んで退散しよう、とカップに口をつける。

「……ほう」 

 管理人はにこにこ笑いながら感心したような声を上げ、懐から一枚の紙を取り出した。 
 バルディオスはそれを奪い取るようにして受け取ると、管理人が差し出した羽根ペンでガリガリと何やら記入を終える。そして咳払いを複数回繰り返した。


(殿下が咳をしてらっしゃる……これはもしかすると、一度殿下の身体に入ったなんらかのものが私の体内に入るチャンスかもしれないわ……)


 レアセルがバルディオスの飛沫を感じるために精神を統一していると、羽根ペンを投げやりな動作で渡された。 

「……ふん、君も書け」 

 レアセルは「何を……?」と首を傾げる。 
 バルディオスはそっぽを向きながら「……ねやの……練習をする。必要だから署名しろ」と吐き捨てるように言った。 

ねや? 私と殿下が?) 

 レアセルは頭をぐるぐるさせるが、いずれにせよ拒否権などない。

(……えー! 練習? 本当に愛した方とするための練習かしら……⁉ わ、私でいいの? 熟練の女性じゃなくて……初心者の私でいいのかしら⁉ あ、お相手が乙女の場合、私で慣れておいた方がいいということ? 聖女様のためかしら? それともソフィア様? どうしよう! 光栄だわ! もしかしたらこれで子どもができるかも! 小指が戻ってくるかも……!)


 レアセルは口から垂れそうになる唾液をゴクリと飲み下すと、丁寧に署名をした。 

「儀式の際に上手くいかんと困るからな」 
「左様でございますか」 

 レアセルは荒い呼気が漏れ出さないように気を付けながら返事をする。

(儀式? この練習は儀式のためなのね! そ、そんなことより……い、いつ? いつ練習とやらが行われるのかしら? まさか今? ああ! もう少し念入りに洗っておけばよかった! どこをとは言わないけれど……! もう少し強めに洗っておくべきだったわ……!)


「……なんとも急なので驚きました」 

 管理人は署名された書類をバルディオスから受け取ると、光るポストのような箱の中に投函とうかんしながらそう言った。 

「……いつでもいいはずだ」 
「まあ、そうですが。あーあ、冷めてしまった」

 管理人は先ほど淹れたコーヒーを一口飲んだ後、バルディオスをからかうように笑った。 
 なんだかいつもより機嫌のよさそうなバルディオスの様子に、レアセルもニッコリ笑う。 

(ソフィア様との逢引あいびきが上手くいったのかしら。やはり私……席を外してよかった) 

 その時、瓶のなかの小指がゆら、と揺れたような気がしてレアセルは顔を近付けた。
 けれど……(そんなわけないわ)と苦笑する。血の通っていない小指が動くわけがない。
 なんだか小指を見ていると悲しい気持ちになってきたので、レアセルは目を逸らす。 
「私……そろそろ会場に戻らせていただきます」と頭を下げてレアセルは小さな扉をくぐった。 
 そっと確かめるように左手小指があるべきところに触れたが、そこには綿が詰まっているだけだった。それでもぼんやりとレアセルはそこに触れ続けた。


 なんだか……忘れた気持ちがあるような気がする。 

「……ま、待て」 

 レアセルはその声に我に返り、声の方を振り返った。バルディオスが小さな扉から身を屈めて出てくる。 

「殿下!」 

 レアセルは慌てて扉に駆け寄ると、バルディオスが扉をくぐる手伝いをするように手を引く。 
 レアセルに助けられながら扉から出たバルディオスは立ち上がると、髪を手でで付けた。彼は窓の外を眺めながら「…ふん」と鼻を鳴らす。 
 レアセルはホコリが付いたであろうバルディオスのズボンをパタパタと手で叩いた。 
 王太子ともあろう人がズボンにホコリを付けていたら大変だ。それに…… 

「……そんなことせんでいい」 
「失礼いたしました」 
(くっ……私のよこしまな気持ちが漏れ出しているせいで……! 殿下に少しでも触れたいという邪悪な心がバレているわ……! このままでは不幸が訪れる……!) 

 反省したレアセルは立ち上がり、バルディオスの横に立つ。彼が肘を差し出してきたので手を添えると、二人はゆっくりと歩き出した。


「終わりのワルツがもう始まっていた」

 バルディオスがポツリと言う。 

「……まあ、それは急がなくてはなりませんわね」

 王が最後の挨拶をする時、王太子とその婚約者が不在だなんてことはあってはならないだろう。

(もう少し時間を気にして行動するべきだった……! あ……もしかしてそれで殿下は私を捜しにきてくださったのでは? キャー! もー! やだやだ!)


「父上は気まぐれだ。気にしなくていい」 
「……左様でございますか」 

 レアセルはバルディオスにすがりつきたくなるような心地をグッと耐えた。 

(不安……不安でたまらない! これの正解はなんなの⁉ 本当に私たちはいなくても大丈夫なのかしら……!) 

 バルディオスの言った通り、廊下には終わりのワルツの音楽が会場からかすかに漏れ聞こえている。

(ああ……! せめて曲が終わる前に入りたい!) 

 そうは言ってもバルディオスも急いでいるようで、二人はかなり早足で会場の扉を開けた。 
 ちょうどその時、別れのワルツの演奏が終わる。 

(……ま、間に合った……) 

 レアセルは肩で息をしながら前を向き、安堵で肩の力を抜く。思わずバルディオスを見上げると、彼は愕然がくぜんとしていた。 

(……なんで⁉) 

 その様子を不思議に感じたレアセルが再び会場に目を向けると、ソフィアが男性と向かい合ってお辞儀をしているのが見えた。 

(……あら……ソフィア様……) 

 レアセルはバルディオスがそれを見てショックを受けているのだと思い、気の毒に感じて少しだけ腕に添える手に力を込めた。 
 するとバルディオスは勢いよくレアセルの腰を抱いたので、そっと寄り添うような形を取る。 
 バルディオスがソフィアに当てつけたい気分になったのだとしたら、協力してあげたいからだ。 

(でも……ソフィア様も仕方がなかったのだと思うけど……) 

 いくら二人が想いあっていたとしても、決まった相手のいない女性がダンスに誘われては、断るわけにいかないのではないだろうか?


 レアセルはバルディオスを慰めようと彼を見上げた。「きっとソフィア様は断りきれなかったのだ」と言ってあげようとしたのだ。 
 するとバルディオスもレアセルを見ていて、レアセルの瞳は揺れた。 
 今まで目が合ったことなど……あっただろうか? 
 レアセルが動揺している間に、バルディオスは素早い動きでレアセルの頬に口づけ、再び前を向いた。

(……え?) 

 頬に当たったふにゃりとした感覚がまだ残っているような気がする。 

(……夢……?) 

 予想もしなかったバルディオスの行動を確かめようとレアセルが頬に手を当てると、確かに手のひらの熱を感じた。ないはずの小指がトクトクと脈打っているかのようだ。


(夢じゃない……?) 

 レアセルが混乱している間に、少し眠たそうな王が閉会宣言をした。
 恐らく睡眠をとりたくなったのであろうが、レアセルはそれどころではない。 

(キャー! ラ、ラッキー! バルディオス様からく、く、口づけをされちゃった……! ソフィア様への当てつけだとしても最高! 生きててよかった……! 神様ありがとうございます! もう一生ほっぺは洗わなーい! なんて、それは無理よね、やだー! もー! し・あ・わ・せ!)


 レアセルは扇子をそっと開いてニヤニヤの止まらない口元を隠した。
 さらにバルディオスがギュッとレアセルを抱き寄せてきたので、レアセルはそのまま身を任せる。

「……ふん」 

 バルディオスが鼻を鳴らしている。 

(あー! 殿下が鼻を鳴らしてるわ! 呆れているのかしら……ちょっと近寄りすぎちゃった? でもでも! 今は気付かないふりをしちゃいましょ! ああ……幸せすぎて怖い……せめて視界からのご褒美は遮断しておきましょう……)


 レアセルはそっと目を閉じる。あまり幸せが重なるといけない気がしたからだ。 
 こんなに幸せな状況で、さらにバルディオスの素敵な姿を目から取り入れたら罰が当たる可能性すらある。 

「……おい」 
「は!」 

 レアセルはバルディオスの声にはっとして目を開ける。辺りはすでに解散ムードで、目を閉じていたせいで、時を駆けてしまったようだ。


「……帰るぞ」 

 バルディオスが呆れたようにそう呟くのを聞いて、レアセルは頬を赤くした。こんな姿を見たらさらに呆れられてしまうのでは? とうつむく。


「……はい」 

 バルディオスはうつむいたままのレアセルを連れて、目をショボショボさせた王に挨拶を終えた。

(今日はとても楽しかったわ……) 

 レアセルが余韻に浸っていると、バルディオスが足を止める。 

「……バルディオス様」 

 その時、ソフィアがバルディオスに声をかけた。気付けば、だいぶ人の姿はまばらになっていた。

(いつの間にこんなに人がいなくなったのかしら。私が調子に乗ってるところを見られちゃった……? でも……そのおかげでソフィア様が声をかけてきたのかもしれない)


 バルディオスがレアセルを利用した当てつけが功を奏したのか、ソフィア自らバルディオスに歩み寄ってきたようだ――とレアセルは思った。


 喜ばしいはずなのに、レアセルの胸にはモヤモヤとしたものが広がっていく。 
 そして先ほどの調子乗り具合を思い出すと、穴を掘って生き埋めになりたくなってきた。 

(ああ……さっきまでは多幸感で頭がおかしくなっていたに違いないわ……今は後悔の念が押し寄せてきている……なんであんなに調子に乗ってしまったのかしら! もう二度としないので、神様どうか私に不幸を与えないでくださいまし)


 人生というのは一割の幸せと九割の不幸で成り立っているものなのだ。 

(今日だけでもう一生分の幸せを手に入れてしまったかもしれない……すなわちそれは今後私に不幸しか訪れない、ということなのでは?)


 レアセルは目の前に美男美女がいるという恵まれた状況に恐れおののき、さらにもう一歩後ろに下がろうとしたが、レアセルの腰をバルディオスが抱き寄せてきた。 

(キャー! 何これ! ま、まさか……殿下、私のことを! ……ふふふ、なんてね……はっ!) 

 バルディオスの行動に一瞬浮かれたレアセルだったが……当てつけが続いているのだろうと気を取り直す。 

(私なんかで当てつけられるかはわかりませんが、お付き合いしましょう! ……殿下、好いた女性が他の殿方とダンスしているのを見るのはお辛いですよね……)


 自分にも小指があればな、とレアセルはぼんやり思った。 

(殿下は私が別の人と踊ったらどんな気分になられるかしら) 

 少しくらいは気にしてくれるだろうか、とレアセルは考えたけれど……バルディオスと婚約する前に誰か別の男性からお誘いがあったかと聞かれると……それは……


(ダ、ダメだわ! 小指があっても誰からも誘われない可能性があるわ!) 

 一度だけ幼馴染おさななじみの公爵家の嫡男とダンスをした経験があったが、レアセルのダンスがとても下手だったため、二度と誘われなかったのだ。レアセルは当時を思い出し、胃をキリキリさせる。 

(そもそも……私が他の男性と踊ったところで殿下は……) 

 レアセルはそんな暗い考えを振り払うように微笑んだ。

「……なんだ」 
「いえ……」 

 ソフィアは自分から話しかけたにもかかわらず、扇子を広げて口元を隠し、目を細めるだけだ。なんだか重い空気の中、レアセルはどうしたらいいのかわからなかったのでにこにこ笑い続ける。


(どうしちゃったのかしら……) 

 レアセルは二人の空気になんだか申し訳なくなってきてしまった。もしかしたら自分のせいで二人の仲は険悪になっているのかも……と思う。


(でも私は国に決められた婚約者。この婚約をなかったことにはできないのです……)

 レアセルはいたたまれない気持ちで小指に触れる。 
 これがない間はたとえ親兄弟であろうとも、異性に触れることはできない。すなわち子を作らなければ、異性と恋愛をすることはできない。


 しかし、それはレアセルにとって大した問題ではなかった。 

(恋をしてみたいかと言うと……なんだか辛そうだし、しなくてもいいかもしれない。でもこのままではお父様が亡くなる時に手を握れない……)


 レアセルはバルディオスとソフィアを交互に見た。 
 バルディオスは表情の変化はないが、なんだか怒っているような……そんな雰囲気を醸し出している。ソフィアはにこやかだが、苛立いらだちを隠せていない。
 そして、今気付いた、というようにわざとらしくレアセルを見た。上から下までジロリとレアセルに視線を送った後、「えっと……」と呟いた。


 それを見たレアセルは慌てて会釈をする。 

「ソフィア様、私、レアセル・アルヴェスティアですわ」 
(先ほども名乗ったばかりなのに、ソフィア様は人の名前を覚えるのが苦手なのかしら) 

 バルディオスはレアセルの腰をさらに抱き寄せると「どういうつもりだ」とソフィアに向かって言った。レアセルはハラハラしながらバルディオスを見上げる。


「どういうつもりだ、とは? ふふふ……」 
「考えたらわかるだろう」 
「……さあ……私勘が鈍くて……ハッキリ教えてくださいませ」 

 ソフィアは扇子で口元を隠し、ゆったりとバルディオスに微笑んだ。バルディオスはレアセルをチラリと見た後「く……今ここでは……」と戸惑っている。


「……まあ、アルヴェスティア家のご令嬢の前では言えないのですか? どんなお話なのかしら?」 
(え! 私に気を使ってくださっているの⁉ 殿下が……? キャー! なんて優しいのかしら!私なんて私なんて空気のように扱っていただいてかまわないのにぃ! ああ、素敵!)


 レアセルが心の中でもだえていると、ソフィアがこちらを見た。微笑みは崩れ、顔をわなわなと震わせている。 

「いつでも余裕そうににこにこして……さぞかし私が愚かで面白いのでしょうね!」

 ソフィアは涙声でそう吐き捨てると、その場からいなくなってしまった。 

「……え?」 

 レアセルはソフィアの行動に呆気にとられ、口をポカンと開けた。 

「あいつめ……」 

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