今日も都には雨が降る

歩夢

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 惣菜パンを食べるだけの、黙々とした時間が流れていた。アンナの方を見ると、草食の小動物のように胸の前でパンを捧げるように持ち、細々と食べ進めている。美味しいのだろうか。私にはまだ、このパンの味の良さが良く分からない。いつも雨の湿度で湿っていて、ふやけている。

 カップを持って、コーヒーがもう無いことに気づく。パンを食べ終わらないうちに飲み切ってしまった。私の失態だ。

 入れ直そうかと思って立ち上がりかけた時、アンナが言った。

「今日も、打ち合わせ?」

 私は何とはなしに頷く。「そうだよ」

 アンナはパンで顔を隠すようにしながら、私の方を上目遣いに見つめてきている。

「じゃあ、私は行けないね」

 私は少しの時間沈黙して、辺りを見回してから、答える。

「じゃあ、留守番頼んでもいいかな」

 アンナは首を振った。「遊びに行くの?」

 彼女は更に首を振る。私は言った。

「そっか」

 沈黙。互いに何も喋らない。私はシャワーがまだだった事を思い出して、改めて席を立とうとした。その時を見計らったように、再び彼女の声がした。

「私、誰かの役に立ちたいんだ」

 私は暫く沈黙して、彼女の言葉を黙って聞いていた。どういう意味の言葉なのか。それを聞いても良いのか。

 私は悩んだ末に、「そっか」とだけ言った。彼女は何も言わなかった。私は風呂場へと向かった。


 服を着替え、靴を履く。銃とナイフが差さっている事を確認して、ドアノブに手をかけた。彼女はまだ部屋の中にいた。玄関に立って、何か言いたげなもの悲しい表情でこちらを見てきている。

 私は彼女が何かを言う前に扉を開け、外へと出た。

 出てすぐに見える傘立てには、緑色のカビがびっしりと生えている。湿度対策を怠っているせいでもあるが、そもそもこの都の物ではないせいかもしれない。私は自分の分の青い傘を掴み、引き抜いた。アンナのは緑色だった。

 地上に降りて、傘を差し歩き始める。雨が布の上に落ちて、石が散らばるような細かな音を立てていく。私は自分がその音を心地良いと感じているのか分からないまま、いつも歩くのだった。

 歩いていくと、雨の曇ったような白い底の中に、暖かな光が見え始める。例の店だ。

 水滴の浮いた窓ガラス越しに、丁寧に作られたのが分かる柔らかそうな様々な種類のパンが陳列棚に置かれていた。女店主はカウンターの近くで、一人の客と話をしていて、朗らかな笑い声を上げていた。

 私がここに来た手の時、何故かは分からないが、私の事を余所者と見抜いた女店主が、水やら料理器具やらそれこそ大事なパンやらを私に向かって投げつけてきて、本当に困った記憶がある。困ったと言うよりも、単純に傷ついた。後から知ったのは、私が銃を使うから、銃を使う人間はこの都では蛇蝎の如く嫌われる。それは雨の音を乱すからだと、パブの老人から聞かされた。老人は澄んだ子供のような瞳で、私に言うのだった。

「お前さんは、雨の音と一緒に生まれてくると言うことがどういうことか分からんだろう?」

「だからそんな音ばかり出す武器なんぞ使うんだ。悪いことは言わんから、この都から早く出ていったほうがいい。いや、曖昧な言い方はやめよう。早く出ていけ、いますぐに」

 私はその言葉を聞きながら、かつての師匠が言っていた言葉を思い出していた。

 この都の素晴らしさを語る、師匠の曇りのない笑顔と共に。

 パン屋を過ぎると、雨教会の沈んだ建物が目に入る。馴染みの建物だ。いつも横を通るから、多分信者達にも顔を覚えられている筈だった。私は雨のことは嫌いではないが、信仰するほどではない。窓から、彼らの視線が見える気がした。私はその前も足早に通り過ぎ、やがて拠点のあるうらぶれた街区へと来た。




 中に入ると、開口一番、耳障りな声が飛んできた。

「おせーんだよ、痩せぎす。もう皆集まってんだよ。皆に謝れよ」

 私はリーダーのカエデの姿を目で探し、それから謝った。「すみませんカエデさん、寝坊してしまって」

 カエデは鷹揚な微笑みを浮かべながら、頷いて言った。

「いや、気にすることはない。時間は丁度だ。さあ、座りたまえ」

 私が隊員達の座るソファの辺りまで来ると、ヘンリエッタの不平が更に飛んで来るが、私を含め他の隊員達も皆無視している。彼女の悪態はいつものことだ。

 皆が座り、静まると、カエデが話し始めた。

「皆、集まってくれてありがとう。この間の任務は成功に終わったが、それも皆のおかげだ。改めて礼を言いたい。ありがとう」

 隊員は誰も何も言わず、無言で頭を傾けるカエデの様子を見つめている。それよりも困った事態が既に起こっているのは、皆知っていた。

 カエデが顔を上げて、そのことを議題に上げた。

「先日、鷹派の議員が一人死んだ。周知の通り、我々が起こした訳ではない。事故か、第三者による手のものなのか、それも分からない。だが、この件が起こったことによって、私達は急遽動かざるを得ない状況になった。依頼主が、特別な依頼を寄越してきた。

 内容は情報の詐取と標的の暗殺。あくまで自殺に見せかけて殺すようにと言っている。そして今回は、今言った通り、爆弾も、音の鳴る物も使えない。密かに事を進めなければならない。それが何を意味するのか、君達に理解できるだろうか?」

 ヘンリエッタが手を挙げた。「具体的には、何をするんですか?」

 カエデが彼女の方を見て答える。

「実際、中々骨のある任務だ。潜入任務だよ。雨転祭に合わせて行われるダンスパーティに出席する標的と接触し、その携帯から情報を抜き出す。サイバー班と薬物班がその辺りは対応できるだろうが、問題は誰が潜入するかだ。予め言っておくが、君はダメだ、ヘンリエッタ」

「何故ですか」

 カエデは無表情に答える。「君は似たような任務で失敗しているだろう。目標を脚で締め落としてしまった。幾ら君の体が肉感的で魅力的であったとはいえ、もう少し粘って欲しかった。おかげで事後処理は大変なものになった。忘れたとは言わせないよ」

「……すみません」

「で、だ」と彼女は振り返り、何故か私の方を見た。そして信じられない言葉を口にした。

「ねえ、リリィ。アンナを見かけなかったかい?」その言葉で、部屋は一気に総毛だった。互いの顔を見合い、囁きを交わし合っている者もいる。カエデが話している時にはあり得ない光景だった。案の定、彼女は手を合わし、皆を静める。

「異論があるのは認めよう。だが、今回の任務。情報の抜き出しに加え、暗殺だが、標的はそう簡単な人間ではない。人一倍疑心暗鬼であり、頭も切れる。見た目に騙されない先入観に乱されない目の持ち主が必要だ。そして、殺気も悟られてはいけない。ここにいるメンバーは皆、全員が一度は手を血に染めた事がある、そういう匂いがある人間達だ。自覚があるだろう。

 だが、彼女は違う。補給班としてずっと、陰で我々のことを支えてきてくれた、その実績がある。そして、何よりも、誰からも愛されるという特別な資質を兼ね備えている。実際、彼女はこの都で特別な扱いを受けている。補給が常にスムーズに行われるのも、彼女の素質あってのことだ。いいかね、はっきり言おう。

 私は、今回の任務で、アンナを中心に据えようと考えている。彼女の行動をサポートする為に、皆は全力を尽くしてほしい。今の所、話は以上だ。詳しい話はまた後日伝えることになるだろうと思う。では解散」

 話が終わると、皆がざわめきながらお互いを見合い、話を交わしていた。その内容は基本的には否定的なものであり、この部隊が発足して以来始めての失敗に終わることを言外に匂わせている者たちも少なくなかった。私は密かに立ち上がると、彼らの事を避けるようにしながら、出口の近くのカウンターの前まで歩いて行った。カウンターの前には、匿名的な顔つきをした男のバーテンダーが、暇そうな顔でコップを磨いていた。一瞬、男と私は目線を交わした。だが、それだけだった。私は他の隊員達よりも早く、外へと出ていた。


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