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第一章
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結婚式が終わり、列席された方々へ挨拶をして周る。
ルーシェはサイラスの半歩後ろに付き従う。
お客さまの相手をスマートにこなすサイラスに、ルーシェは尊敬と憧れの気持ちを強くしていった。
ルーシェはただただサイラスに付いていくだけだったけど、これからこの人と恋に落ちるのかもしれない、と思うとこの時間がとても幸福に満ちたものに感じていた。
その背中を見ているだけで、自分はこの人の妻になったのだという実感が、胸の奥で静かに広がっていった。
ひと通り挨拶をすませると、サイラスが言う。
「あとは私が残るから君は先に帰るように」
ルーシェは、従者に案内され馬車に乗る。
ヴァルフォード公爵家の家紋の入った深い藍色の車体で、扉や車体の回りには金色の縁どりがあり、分厚い扉から中に入り、布張りの座席に座ると深く沈み込んだ。
――これがサイラス様の家、これから僕が属する場所。
ルーシェは、伯爵家の荷馬車とは違う、音や匂いや揺れに胸の奥がじんわり温かくなるのを感じていた。
窓の外を流れていく街並みは、どこか遠く、もう戻ることのない場所のように思えた。
程なくして、馬車はサイラスの屋敷に到着した。
すぐに使用人たちが控えめに頭を下げた。
「奥様、湯浴みのご用意が整っております。どうぞこちらへ」
促されるまま、ルーシェは屋敷の奥へと案内される。
重厚な扉の向こうにあったのは、想像をはるかに超える広さの浴室だった。
——湯浴み。
伯爵家では入ることはなく、学園の寮には湯を流せるようにはなっていても浴槽はなく、実際に入るのは初めてだった。
ルーシェはどうすればいいのかわからず、その場に立ち尽くしてしまう。
けれど戸惑う間もなく、侍女たちが手際よく近づいてきた。
「まあ……お肌がとてもお綺麗ですね」
「さすが伯爵家のご出身。奥様はお美しい」
柔らかな声でそう言われながら、次々と衣服を解かれていく。
布が肩から落ちるたび、胸の奥がきゅっと縮こまった。
——見られている。
そう思った瞬間、顔が熱くなる。
けれど拒む言葉は、喉の奥に引っかかったまま出てこなかった。
白い指先が、慣れた手つきで身体を洗い、湯へと導く。
浴槽は広く、香油を含んだ湯はなめらかで、甘い香りが立ちのぼっていた。
侍女の手が指の間を丁寧にほぐす。
くすぐったくて、思わず肩が揺れる。
「力を抜いてくださいね、奥様」
その声はあくまで穏やかで、親切だった。
——大切に、されている。
そう思った途端、胸の奥がじんわりと温かくなる。
湯の熱だけではない、身体の芯から滲み出すような感覚。
初めての湯浴みは、怖いほど心地よかった。
長く冷えきっていたものが、溶かされていくみたいで。
湯から上がると、今度は用意されていた夜着を着せられる。
薄く、柔らかく、レースが多くて、肌を覆っているとは言い難い。
「よくお似合いです、奥様」
そう言われ、鏡を見ると、そこには自分でも知らない表情の自分が映っていた。
頬は赤く、瞳は潤んでいる。
——少し、暑い。
でもそれは、緊張と期待のせいだと思った。
まさかそれが、始まりの合図だなんて、気づきもしないまま。
扉の向こうで、足音が止まった。
ルーシェは、思わず背筋を伸ばす。
大きな寝台の縁に腰かけたまま、指先をぎゅっと握りしめた。
——来る。
胸が高鳴る。
身体の奥が、さっきからずっと熱い。
湯浴みの余韻だと思い込もうとしても、鼓動がやけに早い。
静かに、扉が開いた。
入ってきたのは、礼拝堂で誓いを交わしたばかりの男、サイラス・ヴァルフォード。
軍装でも婚礼の衣装でもはなく、室内着に身を包んだ姿は、昼間よりもいくらか柔らかく見えた。
けれど、その足が一歩踏み入れた瞬間——
「……っ」
サイラスが、息を詰める。
反射的に、口元を手で押さえた。
眉がわずかに寄り、鋭い眼差しが部屋を見渡す。
——甘い。
濃く、熱を帯びたオメガの香り。
「……君」
低い声で呼ばれて、ルーシェはびくりと肩を震わせた。
「サ、イラス、さ、ま……?」
名を呼ぶだけで、胸がきゅっと締めつけられる。
顔が熱い。
恥ずかしさなのか、期待なのか、自分でもわからない。
サイラスは短く息を吐き、懐から錠剤を取り出した。
慣れた動作で中身を煽る。
抑制剤。
「……ヒートか?」
その問いに、ルーシェは慌てて首を振った。
「い、いえ……そんな、はずは……」
「……そうか」
けれど否定とは裏腹に、香りは強まるばかりだった。
頬は紅潮し、視線は定まらない。
サイラスは一瞬、迷うように視線を伏せたあと、言った。
「……時間をかける余裕はない」
それは、優しい言葉ではなかった。
けれど拒絶でもない。
――義務。
そう言い切るには、彼の声音はどこか硬く、張りつめていた。
ルーシェは、小さく息を呑んで、うなずく。
「……はい」
それが、妻としての返事だと思った。
サイラスが近づく。
視界いっぱいに広がる、冷たいはずの灰色の瞳。
その距離に、ルーシェの身体が熱を帯びていく。
——これが、始まり。
そう思った瞬間、意識は甘い熱に溶かされていった。
♢(サイラス)
どれほど時間が経ったのか、わからない。
サイラスは、ベッドの傍らで息を整えながら、ルーシェを見下ろしていた。
小さな身体は深い眠りに落ち、規則正しく胸が上下している。
その項に残る、かすかな痕。
——しまった。
理性を取り戻した今、それがどれほど取り返しのつかない行為か、嫌というほどわかっていた。
サイラスは、唇を強く引き結ぶ。
「……」
何も言わず、身支度を整え、サイラスは、部屋を出た。
ルーシェはサイラスの半歩後ろに付き従う。
お客さまの相手をスマートにこなすサイラスに、ルーシェは尊敬と憧れの気持ちを強くしていった。
ルーシェはただただサイラスに付いていくだけだったけど、これからこの人と恋に落ちるのかもしれない、と思うとこの時間がとても幸福に満ちたものに感じていた。
その背中を見ているだけで、自分はこの人の妻になったのだという実感が、胸の奥で静かに広がっていった。
ひと通り挨拶をすませると、サイラスが言う。
「あとは私が残るから君は先に帰るように」
ルーシェは、従者に案内され馬車に乗る。
ヴァルフォード公爵家の家紋の入った深い藍色の車体で、扉や車体の回りには金色の縁どりがあり、分厚い扉から中に入り、布張りの座席に座ると深く沈み込んだ。
――これがサイラス様の家、これから僕が属する場所。
ルーシェは、伯爵家の荷馬車とは違う、音や匂いや揺れに胸の奥がじんわり温かくなるのを感じていた。
窓の外を流れていく街並みは、どこか遠く、もう戻ることのない場所のように思えた。
程なくして、馬車はサイラスの屋敷に到着した。
すぐに使用人たちが控えめに頭を下げた。
「奥様、湯浴みのご用意が整っております。どうぞこちらへ」
促されるまま、ルーシェは屋敷の奥へと案内される。
重厚な扉の向こうにあったのは、想像をはるかに超える広さの浴室だった。
——湯浴み。
伯爵家では入ることはなく、学園の寮には湯を流せるようにはなっていても浴槽はなく、実際に入るのは初めてだった。
ルーシェはどうすればいいのかわからず、その場に立ち尽くしてしまう。
けれど戸惑う間もなく、侍女たちが手際よく近づいてきた。
「まあ……お肌がとてもお綺麗ですね」
「さすが伯爵家のご出身。奥様はお美しい」
柔らかな声でそう言われながら、次々と衣服を解かれていく。
布が肩から落ちるたび、胸の奥がきゅっと縮こまった。
——見られている。
そう思った瞬間、顔が熱くなる。
けれど拒む言葉は、喉の奥に引っかかったまま出てこなかった。
白い指先が、慣れた手つきで身体を洗い、湯へと導く。
浴槽は広く、香油を含んだ湯はなめらかで、甘い香りが立ちのぼっていた。
侍女の手が指の間を丁寧にほぐす。
くすぐったくて、思わず肩が揺れる。
「力を抜いてくださいね、奥様」
その声はあくまで穏やかで、親切だった。
——大切に、されている。
そう思った途端、胸の奥がじんわりと温かくなる。
湯の熱だけではない、身体の芯から滲み出すような感覚。
初めての湯浴みは、怖いほど心地よかった。
長く冷えきっていたものが、溶かされていくみたいで。
湯から上がると、今度は用意されていた夜着を着せられる。
薄く、柔らかく、レースが多くて、肌を覆っているとは言い難い。
「よくお似合いです、奥様」
そう言われ、鏡を見ると、そこには自分でも知らない表情の自分が映っていた。
頬は赤く、瞳は潤んでいる。
——少し、暑い。
でもそれは、緊張と期待のせいだと思った。
まさかそれが、始まりの合図だなんて、気づきもしないまま。
扉の向こうで、足音が止まった。
ルーシェは、思わず背筋を伸ばす。
大きな寝台の縁に腰かけたまま、指先をぎゅっと握りしめた。
——来る。
胸が高鳴る。
身体の奥が、さっきからずっと熱い。
湯浴みの余韻だと思い込もうとしても、鼓動がやけに早い。
静かに、扉が開いた。
入ってきたのは、礼拝堂で誓いを交わしたばかりの男、サイラス・ヴァルフォード。
軍装でも婚礼の衣装でもはなく、室内着に身を包んだ姿は、昼間よりもいくらか柔らかく見えた。
けれど、その足が一歩踏み入れた瞬間——
「……っ」
サイラスが、息を詰める。
反射的に、口元を手で押さえた。
眉がわずかに寄り、鋭い眼差しが部屋を見渡す。
——甘い。
濃く、熱を帯びたオメガの香り。
「……君」
低い声で呼ばれて、ルーシェはびくりと肩を震わせた。
「サ、イラス、さ、ま……?」
名を呼ぶだけで、胸がきゅっと締めつけられる。
顔が熱い。
恥ずかしさなのか、期待なのか、自分でもわからない。
サイラスは短く息を吐き、懐から錠剤を取り出した。
慣れた動作で中身を煽る。
抑制剤。
「……ヒートか?」
その問いに、ルーシェは慌てて首を振った。
「い、いえ……そんな、はずは……」
「……そうか」
けれど否定とは裏腹に、香りは強まるばかりだった。
頬は紅潮し、視線は定まらない。
サイラスは一瞬、迷うように視線を伏せたあと、言った。
「……時間をかける余裕はない」
それは、優しい言葉ではなかった。
けれど拒絶でもない。
――義務。
そう言い切るには、彼の声音はどこか硬く、張りつめていた。
ルーシェは、小さく息を呑んで、うなずく。
「……はい」
それが、妻としての返事だと思った。
サイラスが近づく。
視界いっぱいに広がる、冷たいはずの灰色の瞳。
その距離に、ルーシェの身体が熱を帯びていく。
——これが、始まり。
そう思った瞬間、意識は甘い熱に溶かされていった。
♢(サイラス)
どれほど時間が経ったのか、わからない。
サイラスは、ベッドの傍らで息を整えながら、ルーシェを見下ろしていた。
小さな身体は深い眠りに落ち、規則正しく胸が上下している。
その項に残る、かすかな痕。
——しまった。
理性を取り戻した今、それがどれほど取り返しのつかない行為か、嫌というほどわかっていた。
サイラスは、唇を強く引き結ぶ。
「……」
何も言わず、身支度を整え、サイラスは、部屋を出た。
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