箱庭物語

晴羽照尊

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フランス編

温故と知新

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 大丈夫ではなかった。

『これが……俺? 内から湧き上がる衝動が……抑えきれねえ! 俺――いや、俺様の、これこそが本来の姿! ニュー俺! アルティメット俺! ビバ! 俺!』

 虎のごとき、黄色と黒の縞模様。でかでかと『R』とだけ印字された、Tシャツのごとき服装。背中に生えた天使のもののような白い翼。それこそがこの『異本』、『虎天使R』だ。しかし、淑女が直近で見たものとは、現在、眼前で小躍りを始めている一枚は、似て非なるもののように見えた。

『見よ! この、肉体美! 特に意味もなくポージングを始めてしまうほどに美しい! もはやこの俺様を止められるものは、なにもないぜ!』

「いや、ちょっと待って」

 特段に意味もないのだろう。湧き上がる衝動とやらを抑えきれずにどこかへ駆け出そうとする落書きを、淑女は掴んで止めた。

『ぎゃああぁぁ! いきなり掴むやつがあるかアホンダラァ! 破れたらどうしてくれんじゃワレェ!!』

 乱暴に叫ぶが、その動きは繊細に、宙を舞う紙片のようにたおやかな動きで、Uターンして止まった。でなければ彼の言う通り、淑女に掴まれた落書きの端っこが、いまにも破けそうだったから。

 そうして向かい合って、改めて、見る。……うん、おかしい。そこに描かれている落書きが、微妙に絶妙に、おかしい。そもそも絵のタッチがやや違う。もともとは、ただ幼い子どもがたわむれに描いただけの、まさしく落書きだった。それが――基本的には踏襲されているとはいえ、どこか達観した、まるで、元来ドローイングの技術を持つ者が、あえて下手くそに描いたような、そんなわざとらしさを感じる筆致に変わっていたのである。
 そしてなにより、元の絵と、そこに描かれている内容がわずかに違う。前述の通り、基本的には『虎天使R』という、『異本』の名から推察されるとおりの姿に相違ないが、まあ、なんというか、まさしくの言っていた通り、『肉体美』が強調されていた。端的に言って、マッチョになっていた。筋肉が浮いている。もともとは特段に、肉体が引き締まっていたかのような落書きではなかったのだが(というよりそもそも、そんなものを描き込むという意識すら、作者にはなかっただろうと思われる)、新しい『虎天使R』――『ニュー・虎天使R』には、やけにしっかりと、筋肉の凹凸が描かれているのである。

 はたして、そこにそう表現されているからといって、自身が強くなったのかは、推して量ることが難しいが、どうやらやけに本人は、気に入っている様子だった。

「ていうか、どういうこと? 『異本』に手を加えたってこと? 確かにカナタが、『異本』に関する研究がどうとか、言っていた気はするけれど」

 昨夜のことを思い返す。うむ。確かにそう言っていた。『異本』に関する、すごく重要な研究。それを行うプロジェクトが進行中であると。

「まあいいや、トラちゃんに聞いても、どうせ要領を得ないし。行っていいよ」

 淑女は嘆息して、掴んでいた手を離した。

『……おまえ、無意識にときおり、失礼だよな』

 意気消沈して、我に返ったのか、落書きはうなだれた。さきほどまでのハイなテンションは鳴りを潜め、しかして用事はあったのだろう、特段に騒ぐでも急ぐでもないけれど、そのまま部屋を出て行ったのだった。

        *

(どうです? 驚いたでしょう?)

 無音のままに、いつのまにか学者が、そこに、いた。それにびくりと、淑女は反応する。

「びっくりした……。えと、『パーシヴァル』さん? 次は、あーしの番、ですか?」

 奥の部屋でなにが行われて――なにがどうなって落書きがああなったのかは解らなかったけれど、緊張する。もとより淑女は、対人関係において耐性が高くない。それに、大切な友人テスに、あの落書きのようなが行われるかもしれない可能性を思えば、なおのことである。

 …………。しかし、淑女の質問に、学者はいつも通り、沈黙を返す。どこか呆けた顔で。だから、淑女はさらに、不安を募らせた。

「ああ……かぁいいなぁ……。あとでお茶にでもお誘いしよう」

 なにやらぶつくさ呟く。しかし結局、質問の内容とは関係なさそうで、淑女はまた、不安になるのだけれど。

「こおぅらぁ! またなにをたらたらやっとんじゃぁ! クソガキがああぁぁ!!」

 そうしていると、奥の部屋からまた、怒号が上がった。扉をバンバン叩くおまけつきである。もともと小心者の淑女は、やはりびくりと、怯える。

 学者も、みるみる顔を青ざめさせた。そして、手招きをした。

(では、次はルシアさん、お願いします)

 なにも言いはしなかったが、その手は淑女を呼んでいるようなので、彼女は――。

「ちょい待ち。すまんやけど、うち先、行かせて」

 いつのまにか淑女の背後、廊下へ通ずる扉が開かれた先に、全身を暗い服装ですっぽりと覆った、何者かが立っていた。

        *

「おじゃま~。まっちゃん、ちょいダリ……助けて~――」

 淑女の、あるいは学者の返答も聞かぬままに、その人物は奥の扉に気軽に入り、扉を閉めてしまった。

 声からして、女性である。それくらいしか淑女には判断がつかなかった。というのも、明らかにサイズが大きすぎる、袖が、当人の腕より1,5倍ほど長いパーカーを着ていて、そのフードを目深にかぶって、目元を隠していたから。さらには黒いマスクまで、面積広く顔を隠しているから、ほとんど肌の色すら見て取れなかったからだ。だから、彼女(?)のことを推し量る材料が、声くらいしかなかったのである。

 だが、少しだけ淑女は、ぞっとした。それは、見間違いだと思う。しかし、ほんのわずかにのみ覗いた、マスクとフードの間の、彼女の肌が、やけに青く見えたからだ。

 ……まあ、本当に、気のせいだとは思う。彼女の着ていたパーカーが、濃い紺色だったことや、目深にかぶったフードが影を落としていたことや、ややうつむきがちだったこと、体調が悪そうだったことも、いろいろ、そういうことが重なって、そう見えたのだろう。そもそも、本当に一瞬、そう見えただけだ。

「ふう……」

 ともあれ、淑女は、また少し、安堵する時間を与えられた。とはいえ、逆に待たされ続けると、それはそれで緊張が募り、そわそわしてしまいもするのだけれど。

 ともあれ、改めて腰を落ち着ける。座布団に座り、学者を見上げた。どうやら突然の来客である。そしてその用事というのが、今回、淑女が呼ばれた理由とは異なっているのだろう。つまるところが、『異本』に関する重要な研究、とやらとは関係がなく、差し当たって、学者の手が必要とされないことなのだと、そう思う。だからこそ彼は奥の部屋に戻るでもなく、そこに立ち尽くしているのだろうし。

「あの……お時間あるなら、お話……しませんか?」

 暇なら都合がいい。やはりこの先なにが起きるのか、聞いておきたいと淑女は思ったのだ。だが、学者がやけに神妙に呟く言葉は、

「……『モルドレッド』。どうしてここに?」

 だった。

 淑女も、WBOにおいて上位の『執行官』たちは、何人か、『アーサー王伝説』に登場する『円卓の騎士』の名をコードネームとしていることは知っていたので、おぼろげながら、『モルドレッド』とはそのうちのひとりだと、想起できた。それが、特別に上位の三人、『特級執行官』のひとりだとは知らなかったが。そしてそれが、友人である品胎――彼女らの父親を殺した、仇のひとりだとは、露ほども。

 ぶるぶる、と、淑女がそんなことを考えていると、学者が動物のように、首を振った。

(まあいいや! そんなことよりいまは、ルシアちゃんとの会話を楽しもう! ささ、なんの話をしましょうか? え、好きな女性のタイプですか? それはですね――)

 そうこうして、学者は淑女の前に、腰を下ろした。

 まあ、結局、彼はなにも語らないのだけれど。


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