ロマンティックにささやいて

桜木小鳥

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1巻

1-3

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 大きなため息をついたその時、なにやら気配を感じてふと顔を上げると、前から藤崎くんが歩いてくるのが見えた。途端、自分の心臓の音がどきんと大きく響いた。

「三浦主任」

 藤崎くんはふわりと笑うとわたしの前で立ち止まった。
 その笑顔は反則だってば。

「お疲れさまです」
「……お疲れさま」
「突然ですけど、甘いものお好きですか?」
「……え?」

 藤崎くんはスーツのポケットを探ると、中から一粒のチョコレートを取り出した。

「これ、さっき外回りの時にもらったんですけど、よかったらどうぞ」

 はいっと言われて反射的に出してしまったわたしの手のひらに、銀色の包み紙に包まれたそれを載せた。

「……あ、ありがとう」
「いえ、最近お疲れのようですから。じゃあ……」

 藤崎くんはまたにこりと笑って歩き出した。
 ドキドキと自分の心臓が鳴っている。たかだか通りすがりにチョコレート一つもらっただけでこれだ。そっと振り返って彼の後ろ姿を眺めながら、もらったチョコレートの包み紙を開いて口の中に放り込んだ。
 お馴染なじみの味のはずのそれが、すばらしく美味しく感じられたのは何故だろう。中身のなくなった包み紙を丁寧にたたんでお財布の中にしまった。
 馬鹿馬鹿しいけど記念に取っておこう。
 お見合い相手が彼だったらいいのにと不毛にも思ってしまった。そんなのことを考えても仕方がないのはわかっている。でも、もう少しくらい夢を見ていてもいいわよね。
 頭の中の佐久間さんを藤崎くんに置き換えたら、何故かしっくりくるように思えたのはきっと妄想のなせるわざだ。頭の中でリンゴンリンゴンと鐘が鳴り響いている。
 その馬鹿馬鹿しい妄想に一人ニヤケながら、わたしは休憩室へと向かった。


 木曜日は雨だった。お昼休みに食堂に行くと、雨のせいかいつもよりも混んでいる。少しうんざりしたけれど、それでもいつもの隅っこの席は空いていたのでランチプレートを持ってそこへ座った。
 文庫本とお財布を横に置いて、割り箸をパキンと二つに割った時、向かい側に同じランチプレートがコトリと置かれた。

「ここ、いいですか?」

 聞き覚えのある声にパッと顔を上げると、目の前に藤崎くんが立っていた。

「……ど、どうぞ」

 わたしがそう言うのと同時に藤崎くんは目の前の席に座り、長い指で割り箸を二つに割って美味しそうに食べ始めた。思いがけない藤崎くんの出現にしばらく固まってしまったけど、気を取り直してわたしも食べることにした。もちろん、緊張しまくっていることは言うまでもない。
 珍しく一人なのね? とかそんな言葉をかけることもできず、ちらちら見てしまう。たまたま空いていたからここに座ったんだろうけど、こんなことは初めてだったので、雨の日万歳!! と思わずにはいられなかった。
 やっぱり格好いい男の子は格好いい。たとえ自分が結婚したとしても、彼に彼女がいても、見る分には問題ないじゃない。
 そうよ、寛美が浅倉さんを追いかけているのと同じことだわ。ただの目の保養よ。今、藤崎くんとわたしの距離はプレート二つ分だけど、実際の距離はもっともっと遠いんだから。

「今日は混んでますね」

 あらかた食べ終えて人心地がついたのか、藤崎くんがポツリと言った。

「……そうね。雨だから、きっと外へ行くのが面倒なのね。……雨の日は営業も大変でしょう?」
「……そうですね。でもぼくは雨は嫌いじゃないですよ」

 藤崎くんがニコリと笑った。
 素敵な笑顔だなぁ。いちいち言うこともさわやかだし。

「元気ないですね?」
「え……そう?」

 思いがけずそう言われて驚いてしまう。

「最近ずっと、眉間にしわを寄せてますよ」

 藤崎くんはそう言うと、腕を伸ばして人差し指でわたしの眉間をそっとなぞった。

「……なっ……」

 指はすぐに離れてしまったけど、その感触に思わず固まってしまった。初めて触れられた彼の指はなめらかで、そして温かかった。
 びっくりして固まったままのわたしに藤崎くんが少しだけ眉を寄せる。

「悩みごとですか?」
「……広い意味でね。人生そのものに悩んでるのよ」

 気を取り直してわざとおどけた風に言ってみた。お見合いをすることに悩んでいるなんて、口が裂けても言えない。しかもほとんど毎日あなたのことが頭から離れないのよなんて、もっと言えない。
 わたしにだって分別くらいあるんだから。妄想を口に出すような愚かなマネなんてしない。

「他人に話すだけでも気分転換にはなりますよ。一杯飲みながらどうですか? と言いたいところですけど、三浦さんは食事とかの方がいいんでしょうね」
「……は?」
「ぼくでよければ……ってことですけど」
「え……」

 穏やかに話す藤崎くんを、馬鹿みたいにポカンとした顔で見つめてしまった。
 もしかして……これって誘われてるの……? 
 途端、頭の中でポンポンポンと花が咲き出した。
 お花畑の中に目つきの悪い熊さん……もとい佐久間さんの代わりに藤崎くんが立っていた。笑顔を浮かべてそっと手を差し伸べる彼の胸の中にわたしは飛び込んでいく。
 抱きしめてくれる腕は温かくて強くて、壊れそうなくらい苦しくて、でもやめて欲しくなくて……そんな自分の想像に頭の中がとろけそうになった。
 はっ。わたしったらもうどこまで妄想してるのっ。たかだか食事に誘われただけじゃないっ。
 みるみる顔が赤くなるのを感じる。それを見て藤崎くんはまたニコリと笑う。頭の中が真っ白になってしまったわたしは、何を言っていいのかわからないまま、それでも返事をしなければと思い口を開けた。

「……あ」
「藤崎さーん、隣いいですかぁ?」

 突然の甘ったるい声に、わたしの口が開いたまま固まった。声の方向に視線だけを向けると、有田さんが小さなお弁当の包みをテーブルの上に置いたところだった。
 そのまま藤崎くんの隣にちょこんと座ると、その時に初めてわたしに気がついたように、こっちを見てにこりと笑った。

「あ、三浦主任、こんにちはぁ」
「……こんにちは」

 ようやく絞り出した声でなんとか答える。藤崎くんの顔からは笑顔が消えている。彼はぼんやりと有田さんの手元を見ていた。

「あ、ランチ美味しそうー。わたしもそうすればよかったなぁ。ついついクセでお弁当作っちゃうんですよぉ」

 有田さんはそう言いながら、可愛らしい包みを開いてさらに可愛らしいお弁当箱を取り出した。
 ……そうか、可愛い女の子は手作り弁当が基本だったわ……
 お弁当なんてほとんど作ったこともないわたしは、カラフルな彼女のお弁当をまじまじと見てしまう。可愛らしいお弁当箱もお揃いのフォークも小さくて、まるで子供用みたい。

「そうだ。藤崎さん、この前CDを探してるって言ってましたよね? この前中古ショップで偶然見つけたんですよー」

 有田さんはそう言うと、持っていた小さな巾着袋きんちゃくぶくろをごそごそ探って一枚のCDを取り出した。
 ……洋楽かしら? わたしにはちっともわからないそれを藤崎くんが小さく笑って受け取った。

「……へえ、よく見つかったね」
「ふふ、わたし結構洋楽好きだから、そういうの専門に扱ってるところ知ってるんですよ」

 得意そうに有田さんが微笑む。そんな様子も可愛らしい。

「よかったらそれ差し上げますよ」
「本当に? ありがとう。いくらだった? ちゃんと払うよ」
「いいですよぉー。中古ですから安かったですし。それより夕食をご馳走してくれる方が嬉しいなぁ」

 有田さんの甘えるような笑顔に、さっきまで浮かれてた気分が一気に沈んだ。
 二人は趣味まで同じなんだ……。わたしは音楽なんてほとんど聞かない。
 どうせわたしなんて少女趣味なロマンス小説を読んで、朝から晩まで……というか夢の中まで妄想するような女よ。
 途端に自分が惨めになった。食事の誘いにさえ満足に答えられない自分に。
 藤崎くんの答えを聞きたくなかった。耐えられなくなったわたしは、財布と文庫本を掴んで立ち上がった。

「ごめんなさい。わたし、もう行くわね」

 藤崎くんがパッと顔を上げた。ぱっちりと大きく開けた瞳は子犬みたいで少しドキドキしたけれど、そのままトレーを片手に持って足早にそこを後にした。
 可愛らしい彼女を見るたび、自分との差をありありと実感してしまう。〝彼女にあってわたしにはないもの〟は多すぎて数える気にもなれない。
 ホント、不公平だわ。現実では夢も見させてくれない。
 いいことと嫌なことって交互に起こるものなのね。
 混み合う食堂を出た途端、わたしはがっくりと肩を落とした。



   6


 学校の門を出た途端、知らない声に呼び止められた。
 振り返ると、そこには目も覚めるような美少女が立っていた。

『彼に本気にならない方がいいわよ』
『……え?』

 容姿とは裏腹な、びっくりするくらい冷たい声と眼差しに思わずからだが震えた。

『だって、彼はわたしと婚約してるんだもの。たとえ今あなたと親しかったとしても、いずれはわたしと結婚することになるんだから。だからあなたも、さっさとあきらめた方が身のためよ』

〝彼〟が誰のことをさしているのかがわかった瞬間、背筋をサーッと冷たい何かが流れる。

『……それに、あなたにもちゃんと婚約者がいるじゃないの』

 美少女の口元が綺麗なカーブを描いた。
 ふいに気配を感じて振り返ると、すぐ後ろに大柄な男が立っていた。

『……だ、だれ?』

 顔を見ようと見上げても、霧がかかったかのようにぼやけていてよく見えない。

『お似合いよ。あなたたち』

 楽しげな美少女の声。
 振り返ると彼女はいつの間にか〝彼〟と腕を組んでいて、そばに停まっていた黒い高級車に乗り込むところだった。

『待って……っ』

 追いかけようとするわたしの腕を後ろにいた男がさっと掴んで引き止める。

『や、放してっ』

 男の力は強くて、何度振りほどこうとしてもビクともしない。
 二人が乗った車の扉がバタンと音をたてて閉まり、同時にスモークガラスが静かに下りた。

『それではごきげんよう。おーほっほっほっ……』

 美少女が綺麗な笑顔を浮かべて高らかに笑うと、車は静かに発進した。

『酷いっ、どうして邪魔するのっ?』

 勢いよく振り返り、腕を掴んだまま放さない男の顔を見上げた。
 そこにあったのは、哀れみと怒りをごちゃ混ぜにしたような厳しい目。

『……諦めることも大事なことだ』

 低い声で呟くその男の顔は、佐久間さんによく似ていた。


 ジリリリリ……!!
 目覚ましの音でガバッと飛び起き、反射的に手を伸ばしてそれを止めた。
 嫌な汗がたらりと流れる。淡い桃色のカーテンからもれるやわらかな日差しとは対照的に、頭の中ではどんよりとした重い何かが漂っていた。

「い、嫌な夢見たわぁ……」

 思わず声に出る。頭の中にはまだ意地悪な美少女の高笑いが残っていた。それと佐久間さんによく似た男の声も。
 何を暗示しているのかなんて考えるまでもない。車の中に消えていった〝彼〟の姿は藤崎くんだったもの。
 ちくしょうめ、佐久間さんっ(……いや、実際には佐久間さんじゃないんだけどさ)。あなたに言われなくてもわかってますよーだっ。
 最初から期待なんてしてないじゃない。ほんのちょっと憧れてて、ほんのちょっとささやかな夢を見てただけじゃない。それすらもう無意味なことだって、昨日たっぷりと現実を味わったわよ。
 ええ、もういいわよ。これまでだっていろいろ諦めてきたことはあるんだもの。今更一つ二つ増えたところでどうってことないわ……多分。
 ベッドから降りて立ち上がると、目の前に淡い色のフォーマルスーツが見えた。昨夜、帰りにクリーニング店から取ってきたものだ。いつもの自分の服とは明らかに違う色合い。見せかけの戦闘服。
 お見合いは明日。自分の人生が変わってしまうかもしれない日。そう思うと、わけのわからない感情が込み上げてくる。
 怒りなのか悲しみなのか、それとも戸惑いなのか。
 混ぜこぜになった感情をどうやって抑えればいいのか。わたしは家を出るギリギリまでそのスーツをじっと見つめていた。


「昨日にもましてすごい顔してるわよ」

 自分の席に着くなり、先に来ていた寛美がそう言った。

「……人生の分岐点になるかもしれない日が明日に迫ってるからよ」

 どちらかというとお見合いよりも別のことで落ち込んでいるのだけど、それを正直に言うのもどうかと思ったのでそう答えた。

「そんなに悩むことないんじゃない? 気に入らなきゃ断ればいいんだし」

 わたしの言葉に寛美は呆れたように肩をすくめる。

「ねぇ、じゃあさ、今日飲みに行かない?」
「……なんでそうなるのよ」

 じろりと睨むと、彼女はにっこりと笑った。

「ちょうど飲み会があるのよ。気分転換にちょっと飲んでさ、一晩ぐっすり寝れば、明日のことだってそんなに考えなくてもすむでしょ。愚痴くらい聞いてあげるからさ」

 お酒の力を借りれば、このむしゃくしゃした感情をどうにかできるだろうか。そんな考えが頭の中をよぎる。

「……そうねぇ……」
「じゃあ、決まりね。定時に仕事終わらせてね」
「えっ……ちょ……」

 ぽつりと言っただけなのに、寛美はさっさとそう言い放つと席を立って出ていってしまった。

「……まだ行くって言ってないのに……」

 見えない寛美の背中に向かってわたしは小声で呟いた。でも、かなり強引ではあるけど、それが彼女なりの慰め方なのはわかっている。
 そうよ、家で一人で悶々もんもんとして過ごすよりも、ドンちゃん騒ぎに紛れてる方がきっと気分転換になるわ。
 ええい、いいわ。ちくしょうっ。飲んで忘れてやるっ。
 藤崎くんのことも有田さんのことも、お酒の力で全部どこかに吹き飛んじゃえばいいのよ。そして明日は堂々と佐久間さんとお見合いしてやるっ。


 ……なんて思ったのに、どうしているのよ? 藤崎くん。
 午後七時頃から始まった飲み会は会社近くの居酒屋の座敷を借り切って行われた。上座に座っている藤崎くんは、照れたような笑顔を浮かべて上司の平沢課長からお酒を注がれていた。同じテーブルには有田さんもいて、嬉しそうに笑っている。
 今日の飲み会は藤崎くんが大口の顧客の営業に成功したお祝いだった。
 彼が主役の飲み会だなんて……。知ってたら絶対来なかったのに。それを言わなかった寛美に文句の一つも言ってやろうと思ったのに、当の彼女は平沢課長の隣に例の浅倉課長を見つけて、すっ飛んでいったまま帰ってこない。
 もうっ、愚痴聞いてくれるって言ったくせに。そりゃあ確かに浅倉課長が飲み会に出るのも珍しいんだろうけど。所詮しょせん女の友情なんてこの程度なんだろうか……
 始まってから一時間ほど経つと、藤崎くんの祝勝会はすでにもうただの飲み会に変わっていて、みんなそれぞれのテーブルで適当に飲んで盛り上がっていた。
 わたしは一番入り口に近い端っこのテーブルにずっと座っている。同じテーブルには何故かちょっとお年を召した男性社員しかいない。藤崎くんたちの方をなるべく見ないようにして、彼らのつまらない話に適当に相槌を打っていた。
 時々聞こえてくる有田さんの笑い声が耳につく。そんな自分にうんざりしながら一時間をやり過ごしたけど、そろそろ限界が近い。
 未だに乾杯のために注がれたビールをちびちびと飲んでいる。当たり前だけどちっとも美味しくない。グラスのビールは五センチほどしか減っていなくて、炭酸の泡ももう消えていた。
 同じテーブルの男性社員の方々は食べることより飲むことに忙しく、おつまみ系以外はほとんど手を付けないので、わたしは飲まない分ひたすら食べていた。
 酔って嫌なことを全部忘れようと思ったのに、お酒はまったく美味しくないし、〝嫌なこと〟の元凶はすぐ近くで楽しそうに飲み食いしている。これだったら家で小説を読み漁っていた方がまだよかったかもしれない。衝動で行動するとろくなことがないって、この前の母親との電話で身に沁みたはずなのに。
 ……もう帰ろうかしら。幸い入り口に近い場所に座っているから、そっと出ていってもわからないだろう。あー、でもまだお金払ってないわ……。寛美に声をかけた方がいいだろうか。
 そう思って部屋の中を見回そうとしたその時、

「こんばんは」

 頭の上から声が降ってきて、藤崎くんが隣に座った。

「……」

 一瞬言葉をなくしたわたしに、藤崎くんが例の人懐っこい笑顔を向ける。

「珍しいですね、三浦さんがいるなんて」
「……あの、えーと……おめでとう。……あなたのためのお祝いだったのね」
「知らなかったんですか?」

 藤崎くんがほんの少しだけ眉を寄せた。
 やっぱり正直に言うのはよくなかったかしら……

「ええ……ごめんなさい。ただの飲み会だと思ってて……」

 そんなわたしの言葉に藤崎くんはふっと微笑んだ。

「ただの飲み会みたいなもんですよ。皆飲むための大義名分が欲しいだけで。……お酒は苦手って言ってませんでした?」
「ええ、だから減ってないでしょ」

 わたしはぬるくなったグラスを持ち上げた。

「え? これ一杯目?」

 びっくりしている彼に渋々頷くと、藤崎くんはふふっと笑ってから手を伸ばしてメニューを広げた。

「三浦さんにはもっとジュースっぽい方がいいんじゃないですか。ビールって苦いし、甘いやつなら飲みやすいですよ」

 いや、もう帰るから……と言おうとしたけれど、藤崎くんは近くにいた店員さんを呼んでさっさと注文してしまった。

「三浦さんが参加するのって、ホント珍しいですね」
「……まあね、たまには」
「こういうのもいい気晴らしになるでしょう?」
「……そうね」

 元凶がそばにいなければね。心の中でそう呟く。
 お酒を飲んで忘れようとしたのは彼のことなのに、思いがけず近くにいるのでものすごく落ち着かない。崩していた脚をもじもじと戻して座り直すと、すぐ近くに藤崎くんの視線を感じてさらに脈拍が上がった。
 ちらりと見ると、相変わらずニコニコとしている。あんなに忘れようと思ったのに、彼の顔を見ると決意が揺るぎそうになる。
 そんな風に笑いかけないで欲しい。そう思うのにもっと見たいと思う自分もいて、本当にどうしたらいいのかわからない。
 その時テーブルに藤崎くんが頼んだ飲み物が置かれた。

「はい、お疲れさまです」

 グラスを合わせようとする藤崎くんの手を一瞬止めて言い直す。

「契約おめでとう」
「……ありがとうございます」

 藤崎くんは照れたように笑うと、小さな音を立ててグラスを合わせた。彼が頼んでくれたお酒は薄紫色で、飲むと葡萄ぶどうの味がした。

「……美味しい……」
「ほとんどジュースみたいなものだから飲みやすいでしょう。三浦さんにはそういう方が似合いますよ」

 その言葉に後押しされるように、さらにぐいっと飲んだ。喉が渇いていたのもあって、グラスの中身はあっという間に半分以下まで減る。それと同時に胃から胸に向かってざわざわと熱くなってきた。ジュースみたいだけど、アルコールはしっかりと入っているのだろう。

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