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第3章
名前のない気持ち
しおりを挟むあれから、部活終わりにも高良に勉強を教える日が続いた。
気づけばあっという間にテスト週間で部活は休み。
静かな放課後、机に向かっても頭に浮かぶのは、あいつのことばかりだった。
――やばい。このままじゃ俺が赤点取るんじゃないか?
キャプテンが補習で合宿不参加なんて、絶対に笑えない。俺は気合いを入れ直してシャーペンを握った。
そして、迎えたテスト最終日。
最後の科目は数学。これを乗り切れば終わりだ。
先生が時計を見ながら「では、始めてください」と告げる。
カチリと鳴る秒針の音。
――あっ、ここ。あいつが教えてくれたところだ。
『先輩! ここのマイナスかけ忘れてますよ!』
問題を解きながら、思わず口元が緩む。
なんとか最後まで書き終えたとき、胸の奥に小さな達成感が灯った。
教えてるつもりだったけど――
もしかしたら、俺のほうが教えられてたのかもしれない。
そして結果として、俺は赤点を取ることなく、なんとか乗り切った。
ふぅ、と肩の力を抜けた。部室に向かいながらもふと頭をよぎるのは高良のことだった。
......あいつ、大丈夫だったかな。
心配しながら部室の扉を開けると、眩しい笑顔が飛び込んできた。
「湊先輩! 無事、赤点回避です!」
そう言って高良が差し出した答案には、しっかりと“58点”の数字。その数字を見て俺までうれしくなっていた。
「おお、よくやったな!」
「まじか、俺より高いじゃん!」と翔が横から覗き込む。
「俺、もしかして天才なのかも」
「58点で調子乗るなよー」
俺は思わず吹き出す。
笑い声が響く部室の空気が、なんだか前よりあったかく感じた。
そんな中、陽稀が突然、青ざめた顔で地面に手をついた。
「おい、どうしたんだ?」
顔を上げた陽稀は、今にも泣きそうな声でつぶやいた。
「......だった」
「は?」
「28点だった......」
「はあ!? お前、赤点ギリギリじゃねーか!」
うちの学校は、学年平均の半分が赤点ラインだ。
陽稀は今まで一度も赤点を取ったことがなかったから、完全に油断していたらしい。
「俺だってまさか英語で取るなんて思わなかったんだよ! 日本史に力入れすぎて油断した......!」
「平均57点でアウトか。結構ギリギリだな」
そんな陽稀を励ますように、高良が拳を握った。
「陽稀先輩! 俺、先輩の分まで頑張りますから!」
「もう“無理だった”みたいに言うな!」
わちゃわちゃと賑やかな声が響く。
その光景に、思わず俺は笑ってしまった。
やっぱり、この部の雰囲気が好きだ――
部活が終わったあと、俺はひとり体育館に残ってボールを拾っていた。
家でボール触ってても、一週間も開くとさすがに感覚が狂うなぁ。
「先輩、今日も練習ですか?」
振り向くと、まだ部活着の高良がボールを抱えて立っていた。
いつの間にか、当然のように居残り組になったよなぁ。
「――高良、スパイク打ってくれよ」
そう言うと、高良は目を丸くして、大袈裟に驚いた顔をした。
「初めて湊先輩から誘われた!」
「......嫌なのかよ?」
「いいえっ! もちろん、打たせていただきます!」
いつも通りの軽口。
けど、その笑顔を見た瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
しばらく練習して、俺たちは散らばったボールを集めていた。
体育館には、ボールの転がる音と、外から吹き込む夕方の風の音だけが響く。
「そういえば、“ご褒美”とか言ってたけど。平均いくつだったんだ?」
「それが......あと二点だけ足りなくて......」
高良はがっくりと肩を落とした。
その姿を見て、思わずクスッと笑ってしまう。
「簡単なもんなら、聞いてやってもいいぞ?」
「えっ、なんでですか?」
「俺も結構、助かったしなー」
そう言いながら、俺は足元のボールを拾い上げた。
「――俺にできることならなんでもいいぞ」
そう続けた瞬間、ぽつりと高良がつぶやく。
「......そんなこと言って、いいんですか?」
「え?」
顔を上げると、高良が静かに距離を詰めてきていた。
思わず一歩下がると、背中が壁にぶつかる。
「俺が何をお願いするか......わかんないですよ?」
屈んで囁く声が、低くて、近い。
喉の奥で息が詰まる。
次の瞬間、手の中のボールが指から滑り落ち――乾いた音が、静かな体育館に響いた。
◆
結局、高良の“ご褒美”は――アイスを奢ることになった。
コンビニを出ると、夜風が少し冷たくて気持ちよかった。
街灯の光が店の前を照らしていて、俺たちは並んでガードレールに腰を掛けた。
「お前、ちゃっかり限定の高いやつ選んだな」
「それはもちろん、ご褒美なんで」
「俺の貴重なお金なんだから、味わって食えよ」
「ありがたく、いただきますね」
ぱきっと袋を開けて、高良がアイスをかじる。
その横顔を見てると、どうしても“あの瞬間”が頭をよぎる。
――『俺が何をお願いするかわかんないですよ?』
あの低い声、近すぎる距離。
思い出しただけで、心臓の奥がズキンとする。
......なのに、実際のご褒美は“アイス”。
肩の力が抜けて、俺は少しだけ笑った。
『じゃあ、アイス奢ってください』
『アイス......?』
拍子抜けの答えに、心の底からほっとしたのを覚えてる。
『なんだよ。そんなことでいいのか』
『本当は他にいっぱいあるんですけどね。無理やりは嫌なので』
そのときの高良の笑顔は、冗談に見せかけた本音みたいで、胸の奥がざわついた。
「先輩、一口ください」
不意に言われて、俺は一瞬だけ固まる。
いや、別に......他のやつらとは気にしないだろ。
そう思いながら、短く「......ん」と答えてアイスを差し出した。
その瞬間、高良の手が俺の手をグイッと引いた。
距離が一気に詰まって、目の前で――高良がパクリと一口。
「これ、久しぶりに食べると美味しいですね。
先輩、こっち食べますか?」
「俺は......大丈夫」
そう言って俯いた。
顔が赤くなってるのが、自分でもわかる。
それを見透かしたように、高良が笑って顔を覗き込んできた。
「最近、先輩が意識してくれてて嬉しいです」
「そんなんじゃねぇよ」
「えー、そんな顔じゃ、説得力ないですよ?」
高良はまた笑った。
その笑顔が、冗談に見せかけた本気で――
胸の奥で何かが静かに鳴った。
......あの時、断ったはずだった。
それでも“諦めない”って言ったあいつは、本当にその言葉を守っている。
だからきっと、俺は答えなきゃいけないだろけど......。
コンビニの白い光が、アスファルトをぼんやり照らしている。
......そもそも俺は、初恋だってまだなんだ。告白だって初めてで、どうしたらいいかわからないのに。
俺は、こいつのことをどう思ってるんだろう。
そりゃ、いい後輩だし。こいつといるとなんだか気が楽で、居心地がいい――なんて思ったりもする。
けど、「好き」かって聞かれたら、わからない。
なのに、どうしてだろう。
隣に立っているだけで、胸が変に高鳴る。
街灯の光に照らされた高良の横顔が、一瞬だけこっちを向いた。
その視線を受け止めきれなくて、俺は目をそらす。
コンビニの機械的な音がやけに響く。
この気持ちがなんなのか、まだわからない。
ただ、あの夜を境に――
俺の中で、何かが少しずつ変わっていった気がする。
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