白羽の檻、黒翼の導き

篠雨

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第1章:白銀の監獄

第3話:剥落の果て

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背中から熱を奪っていくのは、冷たい泥か、それとも流れ続ける自らの血か。

エルリエルは、下界の辺境にある湿った土の上に横たわっていた。意識は混濁し、視界は赤く滲んでいる。数時間前まで彼を支えていた、あの誇り高き六枚の翼はもうない。根元から断たれた跡が、心臓の鼓動に合わせて激しく脈打っていた。

「……は、あ……っ……」

指先一つ動かすことすらままならない。

天界から「不浄の塊」のように投げ捨てられた事実は、身体の傷以上に、彼の魂を真っ黒に焼き焦がしていた。

あれほど守り抜こうとした「正しさ」の結果が、これだ。

上層部の不正を暴こうとし、仲間のために声を上げた結果が、この泥濘(ぬかるみ)への追放。

裏切り、罵声、そして翼を捥がれる瞬間の、聴衆たちの下卑た歓声が、今も耳の奥で反響している。

(……私は、何を、間違えた……?)

答えなど、どこにもなかった。

天界にはもう味方はいない。そして地上にいるのは、彼が「正義」の名の下に裁き、追い落としてきた者たちばかりだ。

彼にとって、この冷たい地上は、復讐を誓う亡者たちが潜む墓場も同然であった。

その時、遠くからゆっくりと、土を踏みしめる靴音が聞こえてきた。

「……あァ、ひどい有様だな。あの雪のように白かった翼はどこへ行った?」

低く、心地よく響く、しかし心臓を逆撫でするような棘を含んだ男の声。

エルリエルは震える瞼をかろうじて押し上げた。

逆光の中に立つ、一人の男のシルエット。
背負っているのは、かつてのエルリエルと同じ「輝く翼」ではない。

それは夜の闇をそのまま切り取ったような、不吉で、それでいて力強い漆黒の双翼だった。

「だ……れ……だ……」

掠れた声で問う。男はエルリエルのすぐ傍まで歩み寄ると、乱暴に膝をつき、血に汚れたエルリエルの顎を細い指先で強く掬い上げた。

「俺の顔を忘れたとは言わせねえ。あんたに『規律を乱す悪だ』と断罪されて、この地べたに叩き落とされた一人だよ。……聖人様」

男の顔が、重い雲の間から差し込んだ月光に照らし出される。

整った、しかしどこか退廃的な色気を纏った相貌。その双眸に宿るのは、エルリエルをずっと縛り続けていた「敬意」などではなく、明確な愉悦と、執着の混じった憎悪だった。

「……お前……っ」

記憶の奥底、法典に背いた咎人として自分が審判を下した男の顔が、火花を散らすように繋がった。

今のエルリエルにとって、最も会いたくなかった相手――いや、あるいは。

「ようやく俺と同じ色になったな。あんたの言っていた『正しさ』が、あんたの翼を食いちぎった気分はどうだ?」

ベルフェは、皮肉げに口角を上げた。

エルリエルは、その侮辱に抗う気力さえ残っていない。されるがままに、ベルフェの指先が、エルリエルの白い頬に付着した泥をゆっくりと、愛撫するように拭っていく。

「……殺せ。お前も、私を、裁きに来たのだろう……」

エルリエルの掠れた声に、男は低く、愉しげな笑い声を漏らした。泥の中に膝をつき、血に汚れたエルリエルの顎を指先で強引に持ち上げる。

「殺す? ――は、そんな慈悲をくれてやるもんか。これは天界での『お返し』だよ、聖人様」

ベルフェは獰猛な笑みを浮かべ、エルリエルの耳元で残酷に囁いた。

「あの時、あんたは俺の翼を焼いて、この泥の中に叩き落とした。……覚えてるか? あんたに踏みにじられた俺が、どれほどあんたを恨んでいたか。ようやくあんたを、俺と同じ場所に引きずり下ろせたんだ」

冷たい言葉とは裏腹に、男がエルリエルを抱き上げる腕には、指の跡がつくほどの強い力が込められていた。まるで、二度と離さないと誓うかのように。

「逃がしてやるわけねえだろ。これからは俺だけの籠に閉じ込めて、一生かけてたっぷりと『可愛がって』やるよ」

エルリエルは、その「復讐」の宣言に絶望し、意識を失う。

だが、彼を抱きしめる男――ベルフェの瞳には、かつて自分を密かに逃がしてくれたエルリエルに対する、狂おしいほどの情愛と、今度こそ守り抜こうとする決意が滲んでいた。

(……そうだ、それでいい。あんたは俺を恨んだままでいろ。今度は俺が、地獄の果てまで付き合ってやる)

ベルフェは漆黒の翼を広げ、天界の追っ手が迫る前に、愛しい獲物を抱えて夜の闇へと消えていった。
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