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第2章:泥を啜る夜
第5話:灰色の夜明け
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夜明け前の最も深い闇が、廃屋の周囲を支配していた。
微睡みの中にいたベルフェが、鋭く目を開ける。隣で眠るエルリエルの身体を抱き寄せたまま、彼は枕元に置いた剣の柄に手をかけた。
「……鼠どもが、しつこい真似を」
森の木々を揺らす風の音に混じり、天界の武具が擦れ合う「清廉すぎる音」が聞こえてくる。前回の追っ手は偵察に過ぎなかったが、今度は本気でエルリエルを消しに来たようだ。
「……ん、ベルフェ……?」
物音に気づいたエルリエルが身を起こす。薄布一枚を纏っただけの白い肌には、昨夜の激しい情事の痕跡が色濃く残っていた。
「そこにいろ。……今度は、一匹も逃がさねえ」
ベルフェはそう吐き捨てると、まだ癒えきらぬ黒い翼を広げて立ち上がった。だが、その足取りには微かな揺らぎがある。前回の戦闘と、昨夜の無理が、彼の身体を確実に蝕んでいた。
「待って、ベルフェ! その怪我で……!」
エルリエルの制止を振り切り、ベルフェは外へと飛び出した。
直後、廃屋の外で爆発的な光の波動が巻き起こる。
「いたぞ、堕天使と大罪人だ! ――神の名の下に、浄化せよ!」
かつての同胞たちの冷酷な叫び。
エルリエルは廃屋の隙間から外を見た。そこには、数十人の天使たちに包囲されながら、満身創痍で剣を振るうベルフェの姿があった。
「は……っ、浄化だと? 笑わせるな。……この男を地獄に引きずり込んだのは俺だ。天界(あっち)へは、指一本触れさせねえ!」
ベルフェの黒い翼が、白銀の光に焼かれ、千切れて舞う。
それを見た瞬間、エルリエルの中で、何かが決壊した。
(私は……いつまで、守られているつもりだ)
かつて、ベルフェを逃がすために翼を焼いた。
けれど今は、彼と共に生きるために、何をすべきか。
「聖人」という偽りの光はもういらない。彼を、そして自分自身を縛る「正当性」もいらない。
エルリエルは裸足のまま、外へと駆け出した。
「やめろ――ッ!!」
エルリエルの叫びと共に、彼の身体から「光」が溢れ出した。
だが、それは以前のような冷たく鋭い白銀の光ではない。ベルフェの闇を、血の匂いを、そしてこの泥濘の地をすべて受け入れた、温かくも禍々しい「灰色の光」だった。
「エルリエル……!? あんた、その力……」
驚愕するベルフェを背に、エルリエルは天使たちの前に立ちはだかった。
「戻れ、天の使いたち。……私はもう、お前たちの知る『聖人』ではない。この男と共に地獄へ堕ちると決めた、ただのエルリエルだ」
エルリエルの放つ灰色の波動が、天界の包囲網を力強く押し戻していく。
翼はなくとも、その背中にはベルフェの闇と共鳴する、強固な意志の輝きがあった。
呆然とする天使たちがたじろぐ中、エルリエルは膝をついたベルフェの元へ歩み寄り、その泥に汚れた手を、自らの手でしっかりと握りしめた。
「ベルフェ……。籠に閉じ込めるんだろう? だったら、こんなところで死ぬことは許さない」
ベルフェは吐血しながらも、信じられないものを見るようにエルリエルを見上げ、やがて野性的な笑みを浮かべた。
「……はは、……全くだ。あんたを『可愛がる』のは、俺の特権だからな……っ」
二人の手が、血と灰色の光の中で固く結ばれる。
それは、天界という楽園を完全に捨て去り、二人だけの泥濘の中で生きていくための、真の契約の瞬間だった。
微睡みの中にいたベルフェが、鋭く目を開ける。隣で眠るエルリエルの身体を抱き寄せたまま、彼は枕元に置いた剣の柄に手をかけた。
「……鼠どもが、しつこい真似を」
森の木々を揺らす風の音に混じり、天界の武具が擦れ合う「清廉すぎる音」が聞こえてくる。前回の追っ手は偵察に過ぎなかったが、今度は本気でエルリエルを消しに来たようだ。
「……ん、ベルフェ……?」
物音に気づいたエルリエルが身を起こす。薄布一枚を纏っただけの白い肌には、昨夜の激しい情事の痕跡が色濃く残っていた。
「そこにいろ。……今度は、一匹も逃がさねえ」
ベルフェはそう吐き捨てると、まだ癒えきらぬ黒い翼を広げて立ち上がった。だが、その足取りには微かな揺らぎがある。前回の戦闘と、昨夜の無理が、彼の身体を確実に蝕んでいた。
「待って、ベルフェ! その怪我で……!」
エルリエルの制止を振り切り、ベルフェは外へと飛び出した。
直後、廃屋の外で爆発的な光の波動が巻き起こる。
「いたぞ、堕天使と大罪人だ! ――神の名の下に、浄化せよ!」
かつての同胞たちの冷酷な叫び。
エルリエルは廃屋の隙間から外を見た。そこには、数十人の天使たちに包囲されながら、満身創痍で剣を振るうベルフェの姿があった。
「は……っ、浄化だと? 笑わせるな。……この男を地獄に引きずり込んだのは俺だ。天界(あっち)へは、指一本触れさせねえ!」
ベルフェの黒い翼が、白銀の光に焼かれ、千切れて舞う。
それを見た瞬間、エルリエルの中で、何かが決壊した。
(私は……いつまで、守られているつもりだ)
かつて、ベルフェを逃がすために翼を焼いた。
けれど今は、彼と共に生きるために、何をすべきか。
「聖人」という偽りの光はもういらない。彼を、そして自分自身を縛る「正当性」もいらない。
エルリエルは裸足のまま、外へと駆け出した。
「やめろ――ッ!!」
エルリエルの叫びと共に、彼の身体から「光」が溢れ出した。
だが、それは以前のような冷たく鋭い白銀の光ではない。ベルフェの闇を、血の匂いを、そしてこの泥濘の地をすべて受け入れた、温かくも禍々しい「灰色の光」だった。
「エルリエル……!? あんた、その力……」
驚愕するベルフェを背に、エルリエルは天使たちの前に立ちはだかった。
「戻れ、天の使いたち。……私はもう、お前たちの知る『聖人』ではない。この男と共に地獄へ堕ちると決めた、ただのエルリエルだ」
エルリエルの放つ灰色の波動が、天界の包囲網を力強く押し戻していく。
翼はなくとも、その背中にはベルフェの闇と共鳴する、強固な意志の輝きがあった。
呆然とする天使たちがたじろぐ中、エルリエルは膝をついたベルフェの元へ歩み寄り、その泥に汚れた手を、自らの手でしっかりと握りしめた。
「ベルフェ……。籠に閉じ込めるんだろう? だったら、こんなところで死ぬことは許さない」
ベルフェは吐血しながらも、信じられないものを見るようにエルリエルを見上げ、やがて野性的な笑みを浮かべた。
「……はは、……全くだ。あんたを『可愛がる』のは、俺の特権だからな……っ」
二人の手が、血と灰色の光の中で固く結ばれる。
それは、天界という楽園を完全に捨て去り、二人だけの泥濘の中で生きていくための、真の契約の瞬間だった。
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