白羽の檻、黒翼の導き

篠雨

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第3章:沈黙の揺り籠

第1話:綻びの夜

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霧に閉ざされた館の夜は、あまりにも静かだった。

暖炉の火が爆ぜる音だけが響く部屋で、エルリエルはベルフェの額に濡れた布を当てていた。天界との戦いで受けた深い傷、そして無理な強行軍が重なり、ベルフェは激しい熱に浮かされていた。

「……はぁ、……っ、……くそ、……っ」

荒い呼吸を繰り返すベルフェの表情は、いつもの傲岸不遜なものではない。苦悶に歪み、何かから逃れるように顔を背けている。

エルリエルが布を替えようと手を伸ばした、その時だった。

「……ベルフェ、しっかりして。水を持ってくる」

エルリエルが身を起こそうとしたその時、ベルフェの大きな手が、縋り付くような勢いでエルの手首を掴んだ。

「……行くな、……っ。……また、そうやって……俺を置いていくのか……!」

その声には、復讐を誓う男の猛々しさは微塵もなかった。

「……は、……っ、……逃がさねえぞ……聖人様……」

うなされながら漏れたのは、謝罪でも後悔でもなく、ただひたすらにエルを縛り付けようとする「執着」の言葉だった。

あの日、慈悲を装って自分を天界から突き落としたエルへの、積年の恨み。

「生きていろ」という言葉が救いだと分かっていても、独り残された地獄で彼が味わい続けたのは、死よりも深い「孤独」だった。

「……どこへも行かない。ここにいるよ」

エルリエルは、ベルフェの腕の中で静かに答える。自分を「弄ぶ」と言い放った男の熱に浮かされた声を、彼は淡々と受け止めていた。

だが、ベルフェのうわごとは続いた。

「……あんたの『正しさ』なんて……反吐が出る。……俺を……、……あんなところに、……一人で、置いたくせに……。……今更、……綺麗な顔して、俺に触るな……っ」

ベルフェは目を開けないまま、吐き捨てるように言葉を零す。

それは、感謝の裏側にべったりと張り付いた、生々しく黒い「恨み」だった。

助けられたからこそ、憎まずにはいられない。自分を救った男が、自分の手の届かない「高潔な聖人」であり続けた時間が、ベルフェの心を誰よりも傷つけていたのだ。

「……恨んで、いたんだな。私を」

エルリエルは、掴まれた手首に走る痛みを、静かに受け入れた。

自分を「弄ぶ」と言い放った男の、これが本音。

自分を救うための復讐だと思っていた。けれど、ベルフェの心に深く刻まれていたのは、救済などではなく、ただ一人の男としてエルリエルに寄り添いたかったという、叶わぬ渇望の成れの果てだった。

「……ああ、そうだ。……絶対に、許さねえ……。……一生、俺の隣で……あの時の俺と同じ……絶望を、味わえ……っ」

ベルフェが薄く目を開ける。

熱で濁った瞳が、目の前のエルリエルを捉えた。

彼は自分が何を口にしたかも自覚していないまま、目の前の「獲物」を離さないよう、エルの腕を自分の方へと力任せに引き寄せた。

「……逃がさねえぞ、エルリエル。……あんたのその心も……身体も、全部、俺が……」

言葉は途切れ、ベルフェは再び深い眠りの淵へと落ちていった。

けれど、エルリエルの手首を掴む指先は、夜が明けるまで一度も緩むことはなかった。
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