勇者のいない世界で

玄城 克博

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Ⅰ Brave

1-1 日常

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 夢を見ていた、かもしれない。

 頭に靄のかかったような感覚は寝起きに感じるものとしては珍しく、それでいて不快ではない。夢を見ていたのだとすれば、きっとそれは悪夢の類ではなかったのだろう。

 それに比べ、目の前に広がる現実はおおよそ考え得る中で最悪に近かった。

 眠りから覚めると同時に頭から落ちた一枚の紙は、いわゆるテスト用紙。教室の時計に目をやると、すでに期末テストの制限時間の四分の三ほどが終了している。寝起きの頭が正確に物事を把握できているなら、昼休みに寝ていた俺はテストが開始したにも関わらずそのまま睡眠を続け、そして今に至るといったところか。

 クラスメイトはともかく、せめて教師はテスト開始前に一言くらい掛けるべきではないだろうか。怒りを込めた視線を向けるも、担任の木村は一切気にした様子を見せない。もしくはただ気付いていないだけかもしれないが。

 だがどちらにせよ、それならそれで構わない。残りの十分と少し、満点を狙うのは不可能だろうが、赤点を免れるくらいならなんとでもなる。幸運にも、クラスで一番勉強のできる幼馴染が前の席に腰掛けているのだから、後は体力の問題だ。

 もう一度目を閉じ、ゆっくりと開いた後、ペンを右手に掴む。テスト終了のチャイムが鳴るまでの間、俺の右手が動きを止める事は無かった。


「……あー、疲れた」

 テストが終わったと同時、目を閉じて机に倒れ込む。目を開けるのがひたすら億劫ではあるが、せっかく苦労して書いたテストの用紙が回収されないなんて事になったらたまったものではない。俺のクラスメイトが薄情な事は、つい先程思い知らされたばかりだ。

 暗闇の中で眼球を二、三度回し、なんとか重い瞼を開ける。後ろから来た佐藤にテストを手渡す寸前、ぎりぎりのタイミングで名前欄を書き間違えていた事に気付いた。

「ちょっと待った、名前書き忘れてたわ」

 気付かれぬよう名前欄の『白樺 由実』を消し、自分の名である『遊馬 宗耶』を書く。跡が若干残っているような気もするが、まさか全く別人の名が書いてあったと疑われる事はないだろう。

 待たせていた佐藤に用紙を渡すと、ちょうどこちらを向いていた由実と目が合った。

「…………」

 ちょうど、というよりは必然だったのだろう。由実の視線にはあからさまな抗議の色が込められていた。

 しばし由実と視線を重ねていると、程無くして教師から解散の声があがる。

 慌しく動き出した周囲に合わせ、俺も鞄を掴んで起き上がる事にする。どうも、少しばかり疲れた。早く帰って夢の続きでも見よう。

「……うっ」

 席を立ち、教室の外への一歩を踏み出すも、掴まれた左手が付いて来ない。

「えっと、流石に教室で手を繋ぐのは恥ずかしいんですけど」

「まぁ、そう言うな。私だって少しは恥ずかしいんだから」

 案の定、手を掴んでいたのは由実。そのまま俺の指に由実の指が絡み、いわゆる恋人繋ぎというやつに移行する。

 かわいいというイメージの薄い由実ではあるが、決して顔の造形が悪いわけではない。

 藍に近い長い黒髪は一辺の乱れもなく背まで伸び、アーモンド型の大きな目にまっすぐ通った鼻、小さく整った口に整然と並んだ歯と、およそ凡百のかわいいでは相手にならないほどにその造形は整っている。ただ、毅然とした態度と整い過ぎた顔立ちから、かわいい、よりは格好いい、あるいは美人と評される事が多くはあるが。

 とかく、そんな美人な少女と手を絡ませた俺は、当然のように前後左右から嫉妬と羨望の視線を受ける。

 これが恋人繋ぎでなく、ただ拘束のために指を絡め取られているだけなのだとわかっている俺からすれば堪ったものではないが、そんな事を説明したところで誰一人として納得するはずもない。このまま勘違いの敵意が強さを増していけば、いずれはテストの開始時に起こしてもらえないだけでは済まなくなるだろう。

「わかった。手を繋ぐのはいいから、とりあえず場所を変えよう」

「そうか、宗耶はそんなに私と二人きりになりたいのか。少し嬉しいな」

 恥じらうような笑みに、俺すらも一瞬だけ見惚れかける。ならば当然、それに触発された周囲の男連中の敵意の目は、もはや口と同等にその感情を物語るまでになっていた。

「……死ね」

 右隣の席の高橋に至っては口に出していた。

 だが、待ってほしい。隣の席の癖にテストの開始時に声すら掛けなかった高橋は、むしろ俺に怒られて然るべきではないだろうか。抗議の意を込めて睨むも、高橋の視線に込められた怒りは俺の比ではなく、すぐに目を逸らす。まずい、この場は危険だ。逃げよう。

「そんなに強引に引っ張らなくても、どこにでも着いていくのに」

 いちいち余計な言葉を挟む由実は、間違いなくこの状況を楽しんでいる。俺の指は挟まれて痛い。

 嫉妬と羨望、あるいは殺意の視線を背に、俺は由実を連れて教室を出た。
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