勇者のいない世界で

玄城 克博

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epilogue

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 夢を見ていた、気がする。悲しくて辛い、でも少しだけ楽しい夢。

 内容はよく思い出せないけど、きっとそうだったのだろうと思うくらいに私のテスト用紙は涙で濡れていた。

「……うっわぁ、これはひどい」

 書き終わってたのに。書けるとこだけは書き終わってたのに。ピンポイントで私の書いたところが濡れてふにゃふにゃになっていた。辛うじて読み取れるのは『佐久間 謳歌』と書いた名前欄だけだけど、これじゃあ名前を書いた意味があるのかも微妙だった。

「はい、そこまで。ペンと紙置いて。一番後ろのやつから回収して」

 そうこうしている内に、チャイムの音が今日最後のテストを終わらせてしまう。

「謳歌、どんくらいできた?」

 覗き込むように、というか机に寄っ掛かったままで私のテストをガン見してくるのはもちろん隣の席の宗耶。

「ねぇ、なんでいつも由実じゃなくって私に聞くの?」

「そりゃお前、自分よりできてるやつよりできてないやつに聞くだろ普通は」

「いつもながら性格がひん曲がってるね!」

 昔からの幼馴染の宗耶は、基本的に性格が良くないと思う。

 昔はちっちゃくてかわいかった気がするけど、口に出すとお前は今もちっちゃくてかわいいけどな、って馬鹿にされるから言わない。自意識過剰じゃなくて、一回本当に言われたし。

「……ところで、テストに涎垂らすのは止めた方がいいぞ。坂本が変態だったら今頃はあいつの口の中だ」

「そういう問題なの!? というか見てたの!? そもそも、あれは涙だから!」

 宗耶が変な事言うから、思わず大声でツッコミを入れてしまう。私が少しバカな子だと思われてるのは、こういう事が積み重なってなんだと思う。つまり宗耶が悪い。あと由実が頭良すぎるのも悪い。

「……泣いてた、のか?」

 私のそんな怒りをちゃんとわかってるのか、宗耶はなんだか真剣な目で私を見てきた。

「えっ、と、宗耶、近いよ、みんなの前だよぉ」

 だけど私は、ここでおふざけに逃げちゃう。だって恥ずかしいもん。

「宗耶?」

 そしたら、宗耶の前の席の由実が睨んできて、それでここはおしまい。

「……いや、何でもない。謳歌の首元のキスマークが気になって」

「そんなの無いでしょうが!」

 だけど、今日の宗耶はなんだか少しだけいつもと様子が違ったかもしれない。




 夢を見ていた、のだろう。理不尽でどうしようもない、自分の意志ではどうにもならない悲しみと怒りに満ちた夢。

 夢を逐一覚えていられるわけでもないが、おそらくそうだったのだろうと思うくらいに私の両の顎は強く噛み締められていた。

「……何をやっているんだ?」

 あるいは、それは目を開けて最初に飛び込んで来た光景のせいである可能性も高いが。

「あんっ、ちょっと先輩、なんでここの青まで手を伸ばすんですか!」

「あんまりエロい声出さないでくれ。謳歌の頭が今まさに足の間、というか股にあるんだ」

「あーっ、もう無理、会長、早く次回して!」

 今まさに目の前、いつもならそこにあるはずの机を退かして作られた空間で行われていたのは、幼馴染二人と後輩一人が折り重なるように体を重ねる行為だった。

「あれ、起きた? おはよう、由実」

「おはよう、春。とりあえずこの状況について説明してほしいんだが」

「えーっと、それはまぁ、見ての通りというか……」

 私がそう尋ねると、友人は困ったように笑ってみせる。

「ツイスターゲーム、由実ちゃんは知らない?」

 かと思えば、手元でルーレットを回しながら会長がこちらへと首を伸ばしてきた。

「いや、知ってはいますけど。何故今、ここでそれをやっているんですか?」

「なんでって聞かれると難しいけど……まぁ、あえて一つあげるなら暇だったからかな」

 あまり答えになっていない答えを口にして笑う会長を怒鳴りつけるわけにもいかず、行き場の無い感情を持て余したまま、絡まり合う三人に視線を移す。生徒会室は前から割りと騒がしい場所ではあったが、謳歌が転校してきてからは前にも増して混沌と化してきているような気がする。

「せんぱぁい、そこぉ、らめれすってぇ」

「藍沢さん、そんな声を出されても俺にはどうしようもないです。謳歌さんも早くそこから腕を退けてください」

「無理、もう無理、倒れる、倒れるからね! 行くよ!」

 回を重ねるごとに少しづつひどい状態になっていた三人の内、もっとも体勢的に無理が生じていた謳歌の悲鳴と共に、三人は折り重なって倒れていった。

「えへへ、せんぱいの顔、こんなに近くにある」

「藍沢、なんかお前キャラ変わってない? これからずっとそれで行くの?」

「むぅ、なんで私は宗耶のお腹の下なの、雛ちゃんのとこが良かった」

 もう絡み合う必要も無いのに、三人の体勢は倒れた後こそが何というかこう、いかがわしい感じになっていて。

「ツイスターゲームは百歩譲っていいとしても、終わったならさっさと立て!」

 嫉妬とか、おそらくそういう感情を乗せて私は叫ぶ。

「いや、立ちたいんだけど。三つから成る理由でそれはなかなか簡単じゃなくてだな」

 折り重なった中で、宗耶の動きは何だか遅い。後輩と幼馴染の体に触れられるのがそんなに嬉しいのだろうか。私に言ってくれればいつでも――

「次は由実先輩も一緒にやりませんか? 先輩が本能を剥き出しにしてきて面白いですよ」

「や、やるわけないだろう!」

 偶然だろうが、心を読んだかのような藍沢の言葉に肩が跳ねる。

「もう、由実は堅いなぁ。それじゃあ、次も宗耶は私がもらっちゃおうかな」

 そして、何故なのだろう。冗談めかしたそんな謳歌の言葉に、嫉妬だとかそんなものではない複雑な、それでいて違和感のない感情が顔を出した気がした。




 夢を見ているのではないか。時々、そう思う事がある。

 由実と謳歌と、あの頃のように三人でいられる時間は、まさに夢にまで見たもので、だけど今ではそれが俺達の日常になっているから。

 少し前までの、由実が謳歌に殺意を抱き、謳歌もまた殺されようとしていた状況から見れば、今この時は夢でしかあり得ないほどに幸せだったから。

 そして何より、今ある日常は俺が頭の中に描いたものをそのまま現実に作り出したものなのではないかとどこかで疑ってしまうから。

「……っ」

 ほんのわずかに、言い知れぬ痛みを胸に感じる。

 あの夜、最終的に『ゲーム』に幕を引いたのは俺だった。勝者は謳歌、だがすでに謳歌には世界征服なんてものを成し遂げる気も、その力もない。

 それらは、全て俺が奪った。

 俺はあの夜の当事者全員、謳歌と由実、生徒会の全員と椿に魔眼で催眠を掛けた。内容は、魔王事件と『ゲーム』についての記憶の消去。勇奈についての記憶を弄るのは避けたかったが、勇奈を生き返らせる事ができない以上、その死因についても単なる交通事故という事にせざるを得なかった。

 だが、言ってしまえばそれだけで幼馴染の軋轢は解消され、理想の日々が訪れた。体力的な面で言えば僻地に飛ばされていた奥光学園と千雅高校の校舎を元の位置に戻すなどといった雑事も重労働ではあったが、それらは所詮は後に引き摺るような問題ではない。

 問題は、やはり他でもない催眠にあった。

 そうしようと思えば、いつでも由実に催眠をかける事はできた。謳歌にだって試す事くらいできたかもしれない。それなのに、実際に行うどころか思いつく事すらしなかったのは、二人だけは駒にしてしまいたくなかったからなのだろう。俺の思い通りに動く二人ではなく、そのままの由実と謳歌を和解させ、共に過ごしたかった。

 もちろん、俺は謳歌と由実の人格に手を加えたつもりなどないし、深層心理に何かを埋め込むなんて事もしていない。

 それでも、この状況は決して自然に生まれたものとは言い難い。俺が俺のために俺の望みを叶えただけ、そう言われたとしても否定できない。

「……やめだ、馬鹿馬鹿しい」

 生まれかけた虚しさを、言葉と共に吐き捨てる。

 二人といる時は、楽しいと感じている間は、幸せに浸っていられる内は余計な事を忘れていられる。一人の時も、何かで頭を満たしていれば無駄な事を考えずに済むはずだ。

「お前が、魔王だな」

 ちょうど良く、間違いなく俺へと投げ掛けられた問いに、顔を上げる。

 いつの間に現れたのか、目の前には夕陽を背にして一人の少年が立っていた。

 一見したところ、少年は俺よりも年下に見える。一歩後ろに控える少年少女の風貌からしても、おそらく中学生の集団といったところだろうか。

「……んー、うちのパーティーの方が顔面偏差値は上だったな」

「意味のわからない事を言うな! お前は魔王か、そうじゃないのか、答えろ!」

 どうやら怒らせてしまったみたいだ。事実なんだから仕方ないだろうに。

「そうだな、そこんとこだけど、俺も完全にはわかってないんだよな」

 俺が魔王か、そうじゃないのか。『ゲーム』的に言えば魔王は謳歌一人だけであり、俺はただの遊び人に過ぎなかったのだろうが、これは『ゲーム』とは少し違う現実だ。

 ならば、今この世界において魔王は誰なのか。

 俺にとって、由実にとって、そして謳歌自身にとって、かつて謳歌が魔王だった事に変わりはない。幼少期からなるその記憶を取り除いてしまえば、俺達は人格ごとまるっきり別のものに変わってしまうのではないか。そう思ったら、例えそこから綻びが生まれる可能性があるとしても、その記憶に手をつける事はできなかった。

 でも、幸いな事に、どうやら俺達の思い出は世界が誰を魔王と認識するのかには影響しないらしい。目の前の少年達に出会えて、俺はやっと自分の推測を確信に変えられた。

「あえて言わせてもらうなら、今は俺が一番魔王の条件を満たしてるって事なんだろうな」

 芝居掛かった動作で、ゆっくりと右手を目の前に翳す。

 魔眼。

 奇しくも俺がそう呼んでいたこの目の力は本来魔王の、謳歌の手に入れるはずだった力の一つだった。

 ずっと、疑問には思っていた。魔王事件で消失した病院、あの場で生き残ったのは俺と謳歌の二人だけだ。

 そして、それが答えだった。あの日、謳歌が魔王の力を手に入れたのと同様に、俺もまた魔王の眼を手に入れた。俺が消失に巻き込まれなかった理由、そして謳歌の力が俺に利かなかった理由は、俺もまた一部だけとは言え魔王だったからに他ならない。

「ふざけた事ばっか言ってんじゃねぇぞ!」

 だが、俺が格好付けている理由など知らないだろう少年は、怒りの声をあげながら両の足で一気に俺への距離を詰めてくる。

「なぁ、じゃあ次は俺の質問にも答えてくれないか?」

 副会長と同等、もしくはそれ以上の速度での突進は、しかし単調で雑に過ぎた。

 そう、魔王であるところのこの俺には、まるで児戯に等しい。

 謳歌の記憶を奪った瞬間、俺は魔王としての力も同時に謳歌から奪っていた。理由は例によってわからないが、結果的に狙われる対象が謳歌でなく俺に移った事、実際に自称勇者と対峙している現状を考えると、理不尽でこそあるがその点は幸運とも言えた。

「お前が、勇者なのか?」

 身体を振るだけで打撃を躱し、蹴りで会話の距離を稼ぐ。

「っ、ああ、そうだ! 俺が勇者――」

「いや、残念だけどそれは違うんだな」

 少年の叫びに言葉を被せ、頭上に掲げた右手で指を鳴らす。……ここで上手く鳴らない辺り、まだまだ魔王と呼ぶには情けない限りだ。

「紹介しようか、こいつが今一番勇者に近い少女、椿優奈だ」

 だが、一番の目的、意識を引きつける事には成功したので、ひとまず及第点としよう。

「い、いつの間にっ……」

 少年達の背後、俺と真逆の位置から襲い掛かった椿は、すでに俺の目の前の少年以外を気絶させ、最後の少年の首元にも手刀を添えていた。

「まぁ、本物の勇者はもうこの世界にはいないんだけどな」




 夢を見ていた、そうだと思っていた。目を覚ました時、そこは病院のベッドの上で、お母さんが泣きながら何度もよかった、よかった、って言って抱きついてきて。

 お医者さんが言うには、私は事故に遭って一週間寝込んでいたらしい。一週間前の記憶も、それより前の記憶もちゃんとあって、お医者さんの話もなんとなくだけど理解できた気がして、だから私の頭の中にある数日間の事はきっと夢なんだと思った。

 なのに、ちょうど丸々休んでいた試験の追試を受けに高校に、千賀高校に行った帰りに、とっても仲が良さそうに肩を並べて歩く三人を見つけた時はすごく驚いた。

『なんだ、その、そっちのクレープも結構美味しそうだな』

 姿勢が良くって女の私から見ても格好良い、ちょっと口調の堅い女の子は、少しもじもじしながら右を歩く男の子に話しかけていて。

『一口もーらい! ……んー、やっぱりツナクレープとチョコバナナは合わないかー』

 小さくってかわいい、でも少しだけ変わった雰囲気のある女の子は、左を歩く男の子のクレープに食いしん坊な子犬みたいに大きな口を開けてかぶりついて。

『ああ、美味いぞ。口の中にツナが入ってなければだけど』

 そんな二人の女の子に挟まれてるのに、浮かれるでもなくどちらかと言えば面倒そうな顔で歩いて、それでもなんだか素敵に見える男の子と目が合った気がして。

『由実、謳歌に喰われた分そっちのクレープくれ。俺ツナ無理だから』

『あ、ああ、構わないが。そうなると、私は謳歌のクレープをもらう事になるな』

『うー、まずい思いして更に私のクレープまで持っていかれるなんて』

 でも、男の子は私に声をかけたりはしないでそのまま通り過ぎちゃって。

 そもそもあの三人がどうしてあんなに自然にいられるのかも不思議だったから。ただ夢の登場人物に似てる三人にたまたま会っただけだって、あの時はそう自分を納得させた。



「――まぁ、本物の勇者はもうこの世界にはいないんだけどな」

 それなのに、そう思い込んでしばらく経った今になって目の前で繰り広げられた、それどころか私が繰り広げていた現実離れした戦いは、どう考えても夢だと思っていたあの時の続きでしかなかったから。

「なんて、少し格好付け過ぎたかな。まぁ、誰も聞いてないしいいか」

 これが、あの時の三人の姿が、宗耶さんの望んだ『ゲーム』の終わりなんだと、夢だと思っていたあの日々の終わりまでを見届けた私にはわかってしまった。

「失敗したな、椿がまだ俺を助けに来るとは。結局、その辺りは謳歌にも聞きそびれてたか。とは言え、まさか今さら聞くわけにもいかないし」

 クリスマスイブから数えると、もう二ヶ月くらいぶりになるんだろうか。ひさしぶりに私の名前を呼んだ宗耶さんが、ゆっくりと近づいて来る。

「まぁ、なんとかやってみるか。謳歌にできて今の俺にできないわけもないし」

 まばたきを一つ、そして宗耶さんは私の目を覗き込む。

「本当に、最初から最後まで迷惑を掛けたな。償いにもならないだろうけど、せめてこれからは普段通りの日常を過ごしてくれ」

 なぜだろう、その時、宗耶さんの目がとても寂しそうに見えてしまったから。

「……本当ですよ。携帯の連絡先まで消す事ないじゃないですか」

「椿? な、なんで……」

「なんで、ですか。……そうですね、宗耶さんに会いたかったから、じゃダメですか?」

 気付いたら私は、驚きに目を見開いた宗耶さんへとゆっくり微笑みかけていた。
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