文字の大きさ
大
中
小
1 / 17
1巻
1-1
プロローグ
それは、地方の都市開発事業の式典でのこと。ホテルのガーデンパーティの会場で、事件は起きた。
雲ひとつない美しい青空の下、庭園の隅には秋バラが咲き誇るアーチが並んでいる。バラにうっとりと見惚れていて、そこに潜んでいる人影に気が付くのに遅れた、その直後のことだ。
太陽の光を反射した白刃が目の前に迫ってくる。
悠梨は咄嗟に動けなかった。危ない、と声を出すことも。
横から伸びてきた大きな手に手首を掴まれ、引っ張られる。悠梨の身体は、大きな背中に庇われた。
「社長っ……!」
自身が勤める会社の社長である、砥上の背に守られて、状況はよく見えなかった。
耳をつんざくような悲鳴が上がり、嫌な予感にどっと心臓が大きく跳ねる。
一度は警備員に止められた男だったが、制止を振り切ってふたたび砥上に突き進んでくる。
まるでスローモーションやコマ送りの画像を見ているようだった。心臓が止まりそうになる。
けれど次の瞬間には、砥上は自分の手で男の手首を掴んで取り押さえていた。
「砥上社長、お怪我は⁉」
パーティを主催する取引先の役員が砥上に駆け寄ってきたときには、すでに犯人を警備員に引き渡した後だった。
「ええ、私は問題ありませんが……」
砥上は苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、すぐに悠梨を振り向いた。
「朝羽、平気か」
声をかけられた途端、足元がよろめいた。砥上の両手が伸びてきて、悠梨の肩を掴む。その腕に支えられて立っているような状態だった。
「はい、大丈夫で……」
返事をする声がまともに出なかった。小刻みに手が震えているのがわかる。
刃物を持って人が襲ってくるなんて初めての経験で、これが恐怖だと理解する前に身体が震えて力が入らなかった。
「よ、よかったです、社長が、ご無事で……」
会場は騒めいている。ガーデンパーティは間違いなく中止になるだろう。
この後は警察が来て、おそらく聴取などに協力しなければならない。
秘書の悠梨にできることは、この後の砥上のスケジュールを急ぎ調整することと、それから。
頭だけはしっかりと働いている。だが、身体と口が上手く動かない。仕事用のタブレットをバッグから取り出してスケジュールの確認をしようとしたが、手に力が入らず操作が進まない。
震える悠梨の手を、砥上の大きな手が包み込んだ。
「焦らなくていい。まずは落ち着け」
砥上の手の温もりが、悠梨を温める。身体に随分と力が入っていたことに気が付いた。ふるっと身体が大きく震えて、それから徐々におさまってくる。
「大丈夫だ」
もう片方の手で安心させるように悠梨の肩を一度ぐっと掴み、強張りが解けた様子を確認すると、砥上はふたたび主催者と話を始めた。
悠梨も状況を把握するため、深呼吸をしながら砥上たちの会話に聞き入る。どうやら、都市開発の反対派に恨みを買ってしまったらしい。
主催者が事後処理のために離れていくと、砥上は忌々しげに舌打ちをした。
事業の中心となっている建設会社の対応が、地元からの反発に追いつけていなかった。開発事業のため、土地の持ち主ひとりひとりに対し、砥上はしっかりと心を砕いたはずだ。なのに、結局はその人たちから直接恨みを買うのは不動産売買に関わった砥上になる。
「……静観するつもりだったが、そうもいかなくなったな」
「理解が得られなければ、また同じことが起こるかもしれません。社長が直接交渉の場に出られて穏便に進める方が、双方のためかもしれませんね」
反対派にも、それだけの思いがある。もしかすると、砥上や悠梨が把握していた以上に傲慢に抑えつけた部分もあったのかもしれない。
地元の関係者対応を引き受けていた建設会社は、最近代替わりしたばかりのまだ若い社長の陣頭指揮だった。
「これだから二代目のボンボンは。なあ?」
砥上は冗談っぽく笑って、悠梨に同意を求めて来た。
「……社長だってボンボンではないですか?」
「言ったな。俺はそこまでボンボンではないつもりだが」
軽口を叩きながら、少しずつ気持ちが落ち着いてくる。砥上がわざとそうしてくれているのだと、悠梨にはわかった。
薄れていく恐怖の代わりに、トクントクンと刻まれる甘い鼓動。
好きになってはいけない人だ。何より、悠梨は欠片も相手にされる可能性がない。
わかっているのに砥上の人柄に惹かれ続けたこの一年の、これがトドメだと悠梨は自覚してしまった。
悠梨の手の震えがおさまるまで、砥上はずっとその手を握ってくれていた。
第一章 まずは、指先
三年前のことだ。朝羽悠梨は、自分が社長秘書に取り立てられたときのことをよく覚えている。大学を卒業してから大手不動産会社に就職して、総務課に二年勤め、三年目の春。
秘書室に異動になったばかりのその日、遠目か社内報でしか見たことがなかった砥上社長の前に通された。
以前から、社内の女性社員が社長の姿を見て、まるで芸能人に会ったように騒いでいたのを悠梨は知っている。悠梨自身、社内報の写真を見たときは確かにモデルみたいだと思った。
けれども、相手は社長、しかも日本有数の不動産会社の社長なのだ。それこそ芸能人並みに遠い存在で、当然『かっこいい』と眺める以上の感情は持てるわけがない。
遠くで見かけては眼福、眼福と拝んでいたその人物を、いざ目の前にして悠梨は圧倒された。
まず驚くほどに砥上は背が高い。彫りが深い目鼻立ちと切れ長の目の形に、黒い瞳と黒髪は一見硬く冷たい印象を抱かせる。それを口元に穏やかに浮かぶ笑みが和らげて、優しい雰囲気を漂わせている。柔らかなライトグレーのスーツがよく似合っていた。
社長の横には前任の秘書が立っていて、こちらもすらりと背が高い。眼鏡をかけた綺麗な女性で、赤い口紅が華やかに、それでいて上品に見せていた。幼い顔立ちがコンプレックスの悠梨では、こうはいかない。唇ばかりが目立って見えて恥ずかしく、絶対に使わない色だ。
ふたりの立ち姿は絵に描いたようにバランスが取れていた。花に例えるなら、黒と赤のバラだ。
こんなふたりと雑草のような自分がなぜ、向き合わなければいけないのか。
冷や汗をかきながら背筋を伸ばして立っている悠梨の耳に、心地よい低音ボイスが響く。
「なるほど。適任だ」
「そうでしょう?」
砥上の言葉に、女性が笑いを含みながらも凛とした声で答えた。
「え……あの?」
意味がわからず首を傾げる悠梨を見て、砥上の黒い瞳が細められる。柔らかな微笑みなのに、どことなく意地悪な印象を受け、悠梨はつい眉を顰めてしまった。
――あ。しまった。
正直に感情が顔に出てしまうのは、おそらく秘書としてはいただけない。しかも相手は社長なのだと、気付いて表情を取り繕ったがもう遅い。
咎められることはなかったが、砥上は小さく噴き出した。
「食指が動きそうにない。仕事に集中できそうだ」
一瞬、何を言われたのかわからず、固まった。悠梨の頭の中を、砥上社長の放った言葉が二度、三度とリピートされる。
それから、意味を理解してじわじわと顔が熱くなった。
――ど、どういう意味よーっ? 子供っぽいって言いたいの⁉
握りしめた拳をぷるぷると震わせたが、実際わかりやすく感情を表に出してしまったのは悠梨だから、返す言葉が見つからない。いや、それよりも、だ。
入社して間もない頃に小耳に挟んだ噂を思い出す。女癖が悪いとは聞いていたが、どうやら真実だったようだ。『食指が動くタイプの秘書』では困るということは、そういう意味だろう。
そして仕事に集中できるように選んだ秘書が悠梨ということは、つまり悠梨は社長のタイプではないという意味だ。
なんだそれは。別に手を出されたいなんてことを望んではいないのに、なぜか悔しい。一方的に「残念な女」認定されたような気がする。失礼な。
砥上の隣には、口元を押さえて美しく微笑む赤いバラこと、前任秘書の貝原が立っていた。
モデルのようなスタイルの彼女に比べ、確かに悠梨は小柄で童顔だ。その上、着やせするせいか、多少はある胸もスーツに身を包むとすっかり隠されてしまう。染めてもいない焦げ茶色の髪をひとつにまとめ、前髪を横に流すだけという飾り気のない髪型で、いまだに新入社員か就活中の大学生に見られることがあった。
――彼女とは、仕事に集中できなかったってこと? こんなフェロモン駄々洩れ美人と比べないでほしい。
ひくっと頬が引きつる。屈辱感と敗北感に同時に打ちひしがれながらも、悠梨は持ち前の反骨精神でどうにか顔を俯かせずに踏みとどまった。
「ご希望に添えますように、業務に邁進させていただく所存です。社長のお人柄が『仕事しか興味のない堅物』と新たな噂になりますように」
――仕事するのに、社長のタイプかどうかは関係ないですよね!
社長を見据えて目でそう訴えつつにっこり笑ったそのとき、砥上の目が少しだけ、面白いものを見つけたかのように輝いた。
怒るか泣いて逃げるとでも思われていたのだろうか。おあいにく様だ。女遊びなんてする暇がないくらい、仕事を詰め込んでやる。
笑顔の裏でそう悪態を吐いているのを知ってか知らずか、砥上は一歩悠梨に近づく。何が可笑しいのか楽しそうに笑って、悠梨に右手を差し出した。
「お手柔らかにお願いするよ」
美しい微笑みにぞくりと背筋を這うものがある。これ以上侮られてなるものかと、どうにかそれは押し隠し、しっかりと砥上の手を握り返した。
それから一か月の引継ぎ期間、悠梨は貝原から仕事を教わり、正式に砥上社長の秘書となった。
貝原の、最後の出勤日。彼女とふたりで取ったランチの場で、悠梨は冗談交じりに初日のことを口にした。自分が選ばれた理由が『社長の食指が動かないタイプだから』というのはいくらなんでもあんまりだ、と。せめて一言、文句くらいは言ってもいいはずだ。
すると、貝原はきょとんと目を見開いたあと、お腹を抱えて笑いだした。
「違うわよ、あれは半分冗談!」
「半分……」
つまり、残り半分は本気だということでは、という突っこみはひとまず呑み込む。
「ちゃんとあなたの能力を見て決めさせてもらったわ。去年、新事業のレセプションパーティがあったでしょう。あのときのあなたの仕事ぶりを見ていたの」
「はい、もちろん覚えてますが……」
悠梨は首を傾げた。パーティでは、その日の会場の料理や飲み物の手配を担当していた。当日ももちろん会場に控えていたが、所詮裏方だ。目立ったことはしていないはずだった。
「細やかに、速やかに、さりげなく、的確な対応を。それができなければ秘書ではないの。あのときの朝羽さん、多少焦りは見えたけど細やかな気遣いがちゃんとできて、しかも出しゃばることなく裏方に徹してた。秘書に向いてると思ったのよ」
貝原の言葉に悠梨はぱちぱちと瞬きをしたあと、徐々に綻ぶ唇を咄嗟に噛みしめた。
気付いてくれる人がいたことが、嬉しかった。
本当に大変な一日だった。初めての経験だったのに、招待客の中に重い食物アレルギーの者がいたり、手配していたものが事故で遅れたりと突発事項が複数あり、その場で即座に対応を考えなければいけないことが続いた。
頭の中はパニックに陥りながらも、どうにかそれは顔には出さずにいられたはずだ。その場を乗り切ったときは心の底からホッとしたのだが……その出来事が、今回の抜擢に関わっていたとはまったく気付いてなかった。
自分の仕事ぶりを誰かが、ましてや社長秘書が見ていたとは思いもよらなかったし、それどころか、直属の上司からも労いの言葉もなかったのだ。
「……恐れ入ります」
気恥ずかしい気持ちで目礼する。
「ですが、それだけで選んでいただけたというのも何か……理由が弱い気もするんですが」
「まあね。ほかにも候補はいたけれど……資質の問題よ。教えたらある程度誰にもできることと、そうでないことがあるのよ」
「そうなんでしょうか……頑張りますが、もちろん」
悠梨にはいまいち実感が湧かないことだったが、つまり貝原の目から見て秘書としての資質があると判断された、ということだ。
それならば、自分はできることを精一杯やるしかない。それに、社長のタイプではないからという理由だけで抜擢されたわけではないということが知れたのはよかった。
「後はお願いね。分刻みのスケジュール管理の上、色々と手のかかる人だけれど……上司として信頼できる人よ」
そう言って話を締めくくる気配だったのだが、貝原は思い出したように追加事項を口にする。
「あ、あと、あの見た目だけれど、くれぐれも職場恋愛なんて夢は見ないように。上司と部下で恋愛なんて、面倒くさいことしか待ってないから」
「ご心配なく、ありえません」
いや本当に、ありえない。わざわざそんな忠告があるくらいだ、前例でもあったのかもしれないが悠梨には不要だ。あんな失礼な初対面で恋になど発展するものか。
「そうかしら」と貝原は意味ありげに笑う。悠梨は「そうです」と少々ムキになって返事をした。
自分が『社長の食指が動かない』タイプであるなら、悠梨にしたって社長は決して好きな男性のタイプには当たらない。
自分は真面目に仕事がしたい、それだけだ。社長の好みの女性である必要はまったくない。
仕事で認めさせればいいのだと、反骨精神に火が点いたのだった。
そして三年が経過した現在。二十七歳になってもいまだ童顔の悠梨は、当初の誓いどおり社長の毒牙にかかることなく、固く貞操を守っている。もちろん、狙われてすらいないのだが。
コンコンとドアをノックする。この向こうは、砥上の自宅の寝室だ。
「社長、起きてください。社長!」
十センチほどの隙間だけドアを開けると、砥上の微かな唸り声が聞こえた。
「あと一時間半で会議の時間です。早く身支度を整えてください」
声だけかけて中には入らず、キッチンでコーヒーメーカーにスイッチを入れる。その間に砥上は顔を洗いスーツに着替えてから、リビングに入ってくる。
朝が弱い砥上のために、起こしに来たついでに朝食を準備するのがすっかり日課になっていた。
ダイニングテーブルの上には、サンドイッチの包みを置いてある。悠梨がここに来る途中に、パン屋で買っておいたものだ。ブラックコーヒーを注いだカップをその横に並べたところで、砥上の少し掠れた低い声を聞く。
「おはよう」
髪を整え、ぴしっとスーツを着こなした砥上がダイニングに姿を見せた。装いには隙がないが、まだ眠いのだろう。だるそうに眉根を寄せ、片手でゆったりと前髪をかきあげるさまは、壮絶に色っぽい。
「おはようございます。もうあまり時間がありませんので、お早く」
「ああ、わかってる。今日の予定は?」
くあ、と欠伸を噛み殺して砥上は目尻に涙を滲ませる。仕事モードにまだ入りきれない彼の素顔は、ちょいちょいと悠梨の母性本能を刺激するのだが……三年も経てば素知らぬフリをするのも上手くなった。
いつもの場所に座った社長に一礼する。テーブルの隅に置いていた仕事用のタブレットを手に取ると、今日一日のスケジュールと連絡事項を順に読み上げていった。
最初は、秘書といえどもここまで踏み込んではいなかった。朝、自宅まで起こしに行くなんていくらなんでも秘書の仕事ではないはずだ。
しかし、放っておくと砥上は会社に顔を出すのがいつもスケジュールギリギリで、顔色も悪い。寝不足が慢性化して朝起きるのが極端に苦手らしい。
深夜に時差のある海外の取引先と、電話連絡やネット会議に対応しているためだ。もちろん、それだけが理由でもないだろうと悠梨は思っているが。
過密スケジュールの合間を縫ってその時々の恋人と逢瀬はしているようだったが、悠梨が朝に起こしに来て女性と鉢合わせたことは今のところない。
最初、砥上の寝不足は女性と遊んでばかりいるからだと思い込んでいた。秘書として独り立ちしてすぐに気が付いたけれど、まだよく知らないうちは偉そうなことを言ってしまっていた。
『夜遊んでばかりいないでちゃんと寝てください! お仕事で疲れているんですから!』
『朝羽は知らないのかな。肌で癒されることもあるんだよ?』
『セクハラで訴えますよ』
このときに、砥上がちゃんと教えてくれたらよかったのに。
いや、秘書なんだからもっと早く気付くべきだったのか、と後悔した。
朝出勤すると、前日は保留だった案件が動き出していたり、社長の裁可待ちが減っていたりすることが続き、それで砥上が自宅で仕事をしていることに気付いた。秘書として引継ぎを終えてからひと月も経過してしまっていた頃だった。
夜遊びしているのだと誤解していた申し訳なさで、情けない顔をして謝る悠梨に、砥上が言った。
『だったら、君が起こしに来てくれない?』
意地悪な顔をするでもなく、軽く笑って流すような軽口だったが、それは落ち込む悠梨を気遣ったものだと伝わってくる。
『かしこまりました』
一も二もなく頷いた。本当は冗談のつもりだったのか、砥上はぽかんと驚いた顔をしていたが。
昼間の仕事量を知っている悠梨からしたら、笑いごとではない。過労で倒れられては困るのだ。本当なら、夜は早めに帰って寝る、これが一番だ。しかし砥上の立場上、そうはいかないことが多い。
朝の寝起き問題をサポートしつつ、こまめに休息できるようわざと予定の合間に微妙なインターバルを置き、休める場所がないときはホテルを手配するなどして、休息時間を作るようにした。以降、悠梨にとって最重要事項は、砥上の目の下のクマが少しでも改善されているかどうか、これに尽きるようになる。
「……今日の予定は以上です。変更なしでよろしいですか?」
「ああ、それでいい」
連絡事項を伝え終えると、タブレットをバッグにしまった。砥上はサンドイッチを平らげ、コーヒーカップを口元に運び香りを楽しんでいる。
「社長、あと十五分ですよ」
「十五分もある。君も少し座ってコーヒーでも飲まないか。就業時間外の、しかも自宅でこんな風にひとり座っていると、暴君にでもなったような気になる」
「……あながち間違ってもいないと思いますが。たまに独裁的ですよね?」
「独裁と暴君は違うし、聞き捨てならないな。俺はそんなに横暴か?」
軽口を叩いてから、お言葉に甘えて悠梨はキッチンに向かった。自分のコーヒーを淹れて戻り、砥上の向かいの椅子に着く。
沈黙の中、ほんの少しの居心地の悪さに広々としたリビングルームを見回す。ベランダの幅いっぱいにある大きな窓からは、秋らしく薄い色の青空が広がっていた。
テレビもつけない静かな朝。この時間を砥上と一緒に過ごすのは、自分にとってはちょっとしたご褒美のようなものだ。
コーヒーカップを持ち上げ口を付けると、さりげなく砥上へ視線を向ける。無表情だと冷たく見えるほどに整った顔立ちに、つい見惚れてしまう。
砥上は今年で三十二歳になるが、世界中の大企業と渡り合う堂々とした様は、同年代の男性とは比べられないほどの存在感があった。
社会に出て働き出してからまだ数年、しかも男性への免疫があまりない悠梨が、敬意から憧れへと感情を変化させていくには十分な要素が、彼には備わっている。
その上、砥上は悠梨がまだ慣れない頃、それとわからないようにいつも手助けしてくれた。取引先への対応など、さりげなくヒントを会話の中に織り交ぜて、だ。
最初は膨大な仕事量についていくのに必死になるばかりで、まったくわかっていなかった。気付いてしまえば、仕事のできない自分の不甲斐なさで頭がいっぱいになる。気遣いの細やかさ、さりげなさを買われて砥上の秘書に取り立てられたはずなのに、これでは逆だ。砥上に気遣われることで、教えられている。
落ち込む悠梨にまたさりげなく、言葉をくれたのも三年前の砥上だった。
『人というのは、自分に余裕があるからこそ、心配りや優しさを他人に向けられるもんだ。無理があれば互いに苦しい』
『……はい?』
仕事を終えて執務室から退室する前に、砥上から突然振られた会話だった。最初は意味がわからず戸惑ったが、続いた言葉にはっとした。
『最初は余裕がなくて当たり前だ。無理するよりはじっくり仕事に慣れてくれた方が助かる』
気付かれている。焦っていることにも、落ち込んでいることにも。
――この人には、かなわない。
そう思うと、すっと肩の力が抜けた。
『社長は気遣ってくださるじゃないですか』
『俺は余裕があるからな』
つい拗ねた口調になる悠梨を、砥上は軽く笑ってあしらう。
――本当に、かなわない。
どこまでも頼りになる上司に白旗を上げた。同時に、ぎゅっと胸の奥を掴まれたような、正体不明の感情に襲われる。
息苦しくて、心の奥が温かい、この感情はなんだろう、深く考えようとすれば嫌な予感がした。
――その予感が的中したと確信したのは、二年前だったか。いや、トドメを刺されたと言うべきかもしれない。地方の都市開発事業の式典で、砥上が刃物を持った男に襲われた。
あのとき、犯人の目は真直ぐ砥上を向いていたのに、彼は咄嗟に悠梨を背中に庇った。
結局砥上も怪我ひとつなく済んだのだが、その夜は事件で時間が押したからと、夜通し執務室に閉じ込められて仕事をさせられ、疲れ切ったところをソファで寝かされた。その間、砥上も同じ執務室で、起きて仕事をこなしてくれていたのだが。
事件直後のことだ、犯人はすぐに取り押さえられたものの、夜、ひとりになるのが怖かった。自分にではなかったとはいえ、刃物を向けられたのだ。
砥上は悠梨が怯えていることをわかっていたから、敢えて徹夜してずっと傍にいてくれたのだ。
その後、事件の原因となった反対派への対応に砥上自らが立った。さすがに、犯人を無罪放免というわけにはいかなかったが、こちらにも非があることを認めたうえで誠意を示した。景観を損ねないようにするといった開発面での条件を定め、完成するまで逐一報告すること、新しい土地でのサポートなどを申し出て解決へと導く。
砥上の人情味のある対応と語り口調は鮮やかなもので、険しい表情を浮かべていた人たちも気が付けば溜飲を下げ、その言葉に聞き入った。その背中を見つめて、零れた熱い吐息に観念した。
憧れと、尊敬と、それに確かに混じる恋慕。
落ちるべくして、落ちた恋だった。
おまけに毎日その有能ぶりを見せつけられたら、もう他の男性に目を向けられるわけもない。
かといって、悠梨が砥上から見て恋愛対象外なのは最初からわかりきっていること。決して知られないよう隠すよりほか何もできず、それを今も継続中だ。
何しろ最初に貝原からガツンと太い釘を刺されているのだ、砥上を好きになってはいけないと。『社長の食指が動かないタイプ』を秘書に宛がったのは、そういうことだ。
大体砥上は無駄に色気を振りまき過ぎだ。八つ当たり気味にそんなことを思いながらも、表情は平静を保つ。三年で身につけた技だ。このおかげで業務に支障をきたさずに済んでいる。
いっそ結婚でもしてくれたら諦めがつくだろうに、彼は恋人を作ってもそれ以上進展する様子はないまま別れてしまうのが常だった。
ため息を呑み込み、そっと砥上から視線を外した。気持ちを隠して横顔をこっそり見つめるこの時間を、どれだけ大事に思っているか砥上は気付きもしないだろう。でもそれでいい。気付かれれば、こうして朝、起こしに来ることもできなくなる。いや、秘書ですらいられなくなってしまう。
「社長、そろそろお時間です。間に合わなくなりますよ」
悠梨は腕時計で時間を確認し、腰を上げる。砥上はまだ怠そうに椅子に座ったまま軽く伸びをした。
感想 2
あなたにおすすめの小説
一夜の過ちで懐妊したら、幼なじみの冷酷皇帝に溺愛されました
由香没落貴族の娘・柳月鈴は、宮廷で医官見習いとして働いていた。
ある夜、皇帝即位の宴で酒に酔い、幼なじみだった皇帝・李景珩と再会する。
遠い存在になったはずの彼。
けれど、その夜をきっかけに月鈴の運命は大きく動き出す。
冷酷と恐れられる皇帝が、なぜか彼女だけには甘すぎて――。
合鍵を断った夜、彼は転勤を決めた
ちょこまろ合鍵を差し出された夜、私は笑って断った。
「重くない?」
本当は嬉しかった。
彼の生活に入れることが、泣きたいほど嬉しかった。
けれど、愛されるほど怖くなる。
大事にされるほど、失う日のことを考えてしまう。
だから私は、平気なふりをした。
重くない女のふりをした。
寂しいとも、会いたいとも言えなかった。
その三日後。
私は彼の転勤を、本人ではなく職場の人から聞く。
大阪へ行く彼。
受け取れなかった合鍵。
言えなかった本音。
このまま物分かりのいい顔で見送れば、きっと彼は本当に遠くなる。
「行かないで」とは言えない。
でも、「別れたくない」は、言わなきゃいけない。
愛されるのが怖かった大人の女性が、
差し出された鍵と想いを、もう一度受け取るまでの
切なくて温かい、すれ違い再生ラブストーリー。
三年前、私は婚約者を捨てた
ちょこまろ三年前、私は婚約者を捨てた。
嫌いになったわけではない。
他に好きな人ができたわけでもない。
ただ、彼の母に言われたのだ。
「あなたは、怜司を幸せにできますか」
その一言に答えられなかった美桜は、医師である婚約者・怜司の未来を壊すことが怖くなり、理由も告げずに東京を離れた。
誰も知らない海沿いの街で、ひとり静かに暮らす三年間。
忘れたかった。
でも、怜司の番号だけは消せなかった。
そしてある夜、かけるつもりのなかった電話が、三年ぶりに彼へつながってしまう。
愛していたから逃げた女と、置き去りにされても待ち続けた男。
発車ベルに消したはずのさよならが、もう一度、二人の時間を動かしはじめる。
切なくて、静かで、やさしい再会の恋愛短編。
好きな人ができたと言ったら幼馴染みの態度が豹変しました。
束原ミヤコ侯爵家の令嬢フィリアには、五つ年上の幼馴染がいる。
ルシウスは公爵家の長男であり、聖騎士団の騎士団長でもある。
昔からフィリアの騎士として振る舞ってくれていたルシウスと、ごく自然に婚約者になっていた。
しかし、ある日の夜会で、「ルシウス様はわがままな妹と結婚をしなければならず、可哀想」という噂話を聞いてしまう。
自分のせいでルシウスは想い人と添い遂げられないのだと気づいたフィリアは、ルシウスに告げる。
「私、好きな人ができました」
だから、あなたとは結婚できないのだという嘘を──。
年下で可愛い旦那様は、実は独占欲強めでした
由香政略結婚で嫁いだ相手は――
年下で、可愛くて、なぜか距離が近すぎる旦那様でした。
「ねえ、奥さん。もうちょっと近く来て?」
人懐っこく甘えてくるくせに、他の男が話しかけただけで不機嫌になる彼。
最初は“かわいい弟みたい”と思っていたのに――
「俺、もう子供じゃないよ。……ちゃんと男として見て」
不意に見せる大人の顔と、独占欲に心が揺れていく。
これは、年下旦那様にじわじわ包囲されて、気づいたら溺愛されていた話。
極道シングルファザーの甘く危険な独占愛
夏目萌保育士として穏やかに暮らしていた吾妻 羽衣子は、音信不通だった兄との再会をきっかけに借金を背負わされてしまう。
取り立てに現れたのは、羽衣子に懐いている園児・京極 希海の父親であり極道の男・京極 昴。
高額で払えないと嘆く羽衣子に昴が提示した条件は――借金の肩代わりと引き換えに住み込みの家政婦兼シッターとして働くこと。
同居生活の中、どこかよそよそしいながらも見え隠れする昴の優しさに羽衣子の心は次第に揺らいでいき気持ちを自覚してしまうけれど、その気持ちはなかなか伝えられない。
ただ、シングルファザーの彼にはある秘密があって……
訳あり極道シングルファザーと真面目で子供好きな保育士が織り成すラブストーリー。
※あくまでもフィクションです。設定等受け入れられない場合はすみません。
※他サイト様にも掲載中