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番外編:あなたがいなければ4
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【高見真琴】
◇
はっきりとした記憶があるのは、破水した辺りまでだ。
ぱしゃんと身体の中で水が弾けた感覚がして、これが破水なのかとすぐにわかったけれど、水が抜けだす感覚とぎゅううっとお腹を思い切り絞られるような痛みに混乱して、泣きながら陽介さんにしがみついた。
「破水、したっ!」
すぐに助産師を呼んでくれて、LDRへ移される。
そこからは、痛みと疲労と恐怖の繰り返し。
朦朧とした意識の中で、何度か言葉を交わしたり水を飲ましてくれたりしたことはぼんやりと、そんなことがあったかな、という程度だ。
真っ白い世界の中で、意識が行ったり来たり揺れながら、僕は少し後悔していた。
あの時陽介さんが買ってきてくれた焼肉弁当
ちゃんと最後まで残さずに食べれば良かった。
空腹を感じる余裕もないし、そんなに食べたいわけじゃないけど、もう何の力も残ってなくてカラッカラだった。
痛みが襲うタイミングで、助産師が何かを言ってて、多分いきんでとか言われてるんだろうけど……もう力が入らなくて、ただ苦しい痛みが身体を通過していくだけ。
「真琴さん!!」
やけに悲痛な声で名前を呼ばれて、弾かれたように目を開けた。
息が荒くて苦しい。
喉に入り込む空気が冷たい。
天井が見えた。
随分長いこと目を閉じたままだった、そんな気がする。
いつの間にか鼻にエアチューブをつけられていて、心臓がばくばく激しく鳴っていて。
「高見さん! 気が付いた?!」
さっきは確かに、陽介さんの声だったんだけど、今は助産師の声か主治医の声か聞き取りにくくてよくわからない。
けど、こくこくと頷いた。
いろんなことを言われたけれど、ちょうどまた陣痛が襲ってきてそれどころじゃなくなった。
ただ説明されてわかったのは、今頑張らなければ赤ちゃんが出てこれない、ということだ。
何度か陣痛を越えて、また気を失いそうになったけど今度はすぐに次の痛みで目が覚めた。
いきまなければ、という意識が働いたのだと思う。
最後に痛みの種類が変わった。
腰の骨が軋んで、叫びそうな痛みだったけど。
赤ちゃんが出て来ているのが感覚で伝わったから耐えられた。
するといきなり痛みから解放されて、全身の力が抜ける。
「生まれましたよ! 元気な女の子ですよ」
助産師のその声も、酷くほっとしたようなものだった。
女の子。
女の子か、なんだかそんな気はしてた。
泣き声が小さいような気がするけれど、大丈夫だろうか。
陽介さんは、どこだろう。
そんなことを考えながら、また意識は沈んだ。
後から聞いた話だと、出産の間僕は意識が朦朧としながらも陽介さんとの受け答えはしっかりしていたらしい。
それがいきなり、糸が切れたように反応がなくなったため脳出血や体内での大量出血が疑われ、一時騒然となっていたとのことで。
それを聞けば、納得もできるが。
そんなこととは露知らず、次に声をかけられて目を開けた時、赤ん坊ではなく陽介さんの泣き顔がかじりつかんばかりに目の前にあって
「え、よ、陽介さん?」
「真琴さん……良かった、良かった」
ぼたぼたぼた、と涙が落ちてくる。
一体何事か、と驚いた。
「申し訳なかったです。処置でバタバタしていて、ご主人様に説明するのが遅れてしまって」
事の流れを聞き、ぐったりと僕の頭近くで項垂れる陽介さんの姿に納得した。
助産師がいるからか泣き縋ったのは一度だけだったが、ぎゅっと握って離さない手がまだ僅かに震えていた。
「赤ちゃんの準備が出来ましたらお連れしますので、もう暫くおまちくださいね」
助産師が少しその場を離れる旨を告げた。
後の処置も済んで足も楽にすることができたが、僕はまだ分娩台の上だ。
このままもう暫く回復を待ってから病室に移るのだという。
しん、と静まり返った部屋で、ずず、と陽介さんが鼻をすする。
「もう、泣かないで」
分娩中に使用した、散々僕の汗を吸ったタオルで申し訳ないが、今はそれしかない。
差し出すと、陽介さんはそれを目に当てて一層前屈みになり「うぅぅぅっ」と唸るような泣き声を上げた。
さっき生まれた僕らの子どもよりも大きい泣き声じゃないだろうか。
「こ、怖かった」
「はい」
「真琴さんになんかあったらって、悪い想像ばっかり浮かんで。真琴さんか赤ちゃんかって言われたらどうしようって」
どうやら陽介さんは、テレビドラマにあるような命の選択を迫られる事態を想像してしまっていたらしい。
「すみません、たくさん心配をかけてしまって」
貴方にそんな選択をさせずに済んで良かったと思う。
「赤ちゃん、お連れしましたよ」
助産師が、白い布に包まれた赤ん坊を連れてきた。
横抱きされたその小さな存在は、まだここからは見えなくて。
「お父さんから抱っこされますか」
「えっ、えっ」
陽介さんが、涙を拭いながら慌てて立ち上がった。
助産師に抱かれた赤ん坊の余りの小ささに、陽介さんは戸惑ったのか手を出しかけて結局止まる。
「や、やっぱり頑張ったのは真琴さんだし、真琴さんから」
「いいですよ、泣くほど心配したんだから陽介さんから」
「や、でも」
「助産師さんが困ってらっしゃるから、ほら」
動揺して、僕と赤ん坊とを何度も交互に見た後。
陽介さんは、両手をごしごしと自分のシャツで拭いてから、意を決したように差し伸べる。
身体をがっちがっちにしながら、助産師の手から赤ん坊を受け取ると、陽介さんは大きく目を見開いてじっと手の中の存在を見つめた。
「貴方が抱っこすると、尚更小さく見えますね」
「ほんと、ちっさい……ふわふわする」
ぎし、ぎし、とまるでおもちゃのロボットみたいに不自然な動きで、僕のところに近づくと、腰を屈める。
僕は少し身体を起こして、その腕の中を覗き込んだ。
「ほんとだ、ちっさい」
「めちゃあったかいっす……あ、口開けた」
「女の子だって」
「ん、色白できっと真琴さんみたいに別嬪さんだ」
「髪は真っ黒だ……陽介さんの髪ですね」
顔立ちは、まだよくわからない。
けれど、生まれたばかりにしてはとても綺麗な肌の色をしていて、髪質は陽介さんと同じ艶やかな黒髪だった。
「……ありがとう、ございます。真琴さん」
「うん?」
「俺の子だ……」
「……うん……ちょっ、涙! 涙!」
またぼたぼたと、今度は赤ん坊の上に涙を落とすものだから、僕は慌ててタオルを陽介さんに顔に押し付けた。
「もう! いい加減泣きすぎです」
「だって……良かった、ふたりとも無事で、良かった……もう、こんな怖いのはたくさんっす……」
この数十時間で、今は僕よりも憔悴して見える彼は、もうこんな怖い思いはしたくない、という。
けれど。
「そんなこと、言わないで」
心配をかけたのは申し訳ないけれど、もうこれきりがいいみたいなことを言わないで欲しい。
小さな子の頬を指で擽ると、まるで吸い付くみたいに口を開いて寄せてくる。
こんなに愛おしいのに。
寂しいことを言わないで。
「大丈夫、何度でもちゃんと産んでみせますから」
くぁ、と小さなあくびをして、まだぎこちない動作で身じろぎをする。
眠いのかな。
目が開かないかな。
まだ余り見えてないかもしれないけど、目を合わせてみたい。
僕が赤ん坊の僅かな仕草に夢中になっている間、陽介さんは何も言わなくて、ずず、とまた鼻を啜った音が聞こえて顔を上げた。
彼は泣きはらした目で、眉を八の字にして、赤ん坊ではなく僕をじっと見ていた。
「陽介さん?」
「真琴さんは、怖くないんすか。一番大変な思いしたのは真琴さんなのに」
「……そう、ですね」
問われて、この数十時間の陣痛のことを思い出す。
確かに苦しかった、としか言えないけれど、次の痛みが来るのが怖くて怖くて仕方なかったけれど。
「辛かったけど、この子の顔見たら、なんだかすごくすっきりしてしまいました。いいじゃないですか、大変だったけど無事に生まれてくれました」
この瞬間があるのなら、別にいいじゃないかと思えてしまった。
真一文字に結ばれた陽介さんの唇が、涙を堪えて震えた。
で、結局だばっと溢れて落ちる。
「もう、いい加減に泣き止まないと子供に笑われますよ」
「うっ……はい」
「名前、決めないといけないですね」
「……ほんとだ」
「ゆっくり、二人で決めましょう」
ね、と宥めるように彼を見上げた。
すると、胸が苦しくなりそうなほど、縋るような瞳で見つめられながら、距離が縮まり目尻にキスが落ちてくる。
「愛してます」
「……うん、僕も」
「幸せですね」
「ん、幸せですね」
あなたといると
ふわりふわりと、たくさんの幸せが生まれてくる。
これからもきっと、ずっと。
あなたさえ、いてくれるなら。
◇◆◇◇◆
「こら! 陽菜! 颯太も一緒に連れてってあげて」
「えーっ、だって颯太すぐ泣くし走るの遅いし」
「陽菜よりいっこ下なんだから当たり前でしょう?」
七歳になった長女の陽菜は、とんでもなくお転婆だった。
一人目は女の子が育てやすい、と昔の人はよく言ったようだけど、陽菜に関しては全く当てはまらない。
「ママー! 透子ちゃんと遊んでくる!」
「遠くに行っちゃダメだよ、そこの公園だけ!」
「はあい!」
翔子さんが娘の透子ちゃんを連れて近くに引っ越してきてからというもの、陽菜は透子ちゃんにべったりだ。
子どもの少ない地域で育ったから、自分で誘いに出て遊びに行ける距離に同じ年の友達ができたことが、嬉しかったようだった。
一つ下の颯太は穏やかで、陽菜と透子ちゃんについていきたがるのだが何せ陽菜の方が遊び方が乱暴だ。
しょっちゅう泣かされて帰ってくる。
かといって、こうしておいて行かれても泣くのだけど。
「颯太、ママと悠太と遊ぼうか」
「やだー! 悠太ちっちゃいもん、お姉ちゃんと遊ぶ!」
どっと疲れる。
子どもというのは、自分より年上の子と遊ぶ方が楽しいらしい。
つまり、常に下の子の片思いだ。
「よーっしゃ。颯太、パパとボール蹴りに行くか」
欠伸をしながら陽介さんが寝室から出て来て、途端にぴたりと颯太は泣き止んだ。
「行く! やったあ!」
「ちょっと待っててな、すぐ着替えるからな」
「陽介さん。昨日遅かったんだからもう少し寝ててもいいのに」
「大丈夫っすよ。颯太と悠太連れて公園行って、陽菜の様子も見てきます。だから真琴さんはちょっと休んで」
ね。
と、意味ありげに僕のお腹を見てくしゃりと笑う。
先日、四人目の妊娠がわかったばかりだった。
悠太と少し年が開いて出来たから、僕も陽介さんも驚いたけれど。
陽性反応を見て、二人で顔を見合わせて微笑んだ。
「なんとかなりますか」
「なんとかなりますよ」
ふわり、ふわり。
今もずっと。
幸せが、生まれている。
END.
※※※※
あとがき
※※※※
長く長くお付き合いくださった方、ありがとうございます。
本編と未来の番外編、これにて完結です。
かなり古い作品なのですが、こうして移していてあまりの長さにびっくりしました。
実は他にもいっぱい番外編があったりします。
また機会がありましたらぼちぼちと移してまいりますので、気になったかたはまたよしなに……。
ありがとうございました。
砂原雑音
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はっきりとした記憶があるのは、破水した辺りまでだ。
ぱしゃんと身体の中で水が弾けた感覚がして、これが破水なのかとすぐにわかったけれど、水が抜けだす感覚とぎゅううっとお腹を思い切り絞られるような痛みに混乱して、泣きながら陽介さんにしがみついた。
「破水、したっ!」
すぐに助産師を呼んでくれて、LDRへ移される。
そこからは、痛みと疲労と恐怖の繰り返し。
朦朧とした意識の中で、何度か言葉を交わしたり水を飲ましてくれたりしたことはぼんやりと、そんなことがあったかな、という程度だ。
真っ白い世界の中で、意識が行ったり来たり揺れながら、僕は少し後悔していた。
あの時陽介さんが買ってきてくれた焼肉弁当
ちゃんと最後まで残さずに食べれば良かった。
空腹を感じる余裕もないし、そんなに食べたいわけじゃないけど、もう何の力も残ってなくてカラッカラだった。
痛みが襲うタイミングで、助産師が何かを言ってて、多分いきんでとか言われてるんだろうけど……もう力が入らなくて、ただ苦しい痛みが身体を通過していくだけ。
「真琴さん!!」
やけに悲痛な声で名前を呼ばれて、弾かれたように目を開けた。
息が荒くて苦しい。
喉に入り込む空気が冷たい。
天井が見えた。
随分長いこと目を閉じたままだった、そんな気がする。
いつの間にか鼻にエアチューブをつけられていて、心臓がばくばく激しく鳴っていて。
「高見さん! 気が付いた?!」
さっきは確かに、陽介さんの声だったんだけど、今は助産師の声か主治医の声か聞き取りにくくてよくわからない。
けど、こくこくと頷いた。
いろんなことを言われたけれど、ちょうどまた陣痛が襲ってきてそれどころじゃなくなった。
ただ説明されてわかったのは、今頑張らなければ赤ちゃんが出てこれない、ということだ。
何度か陣痛を越えて、また気を失いそうになったけど今度はすぐに次の痛みで目が覚めた。
いきまなければ、という意識が働いたのだと思う。
最後に痛みの種類が変わった。
腰の骨が軋んで、叫びそうな痛みだったけど。
赤ちゃんが出て来ているのが感覚で伝わったから耐えられた。
するといきなり痛みから解放されて、全身の力が抜ける。
「生まれましたよ! 元気な女の子ですよ」
助産師のその声も、酷くほっとしたようなものだった。
女の子。
女の子か、なんだかそんな気はしてた。
泣き声が小さいような気がするけれど、大丈夫だろうか。
陽介さんは、どこだろう。
そんなことを考えながら、また意識は沈んだ。
後から聞いた話だと、出産の間僕は意識が朦朧としながらも陽介さんとの受け答えはしっかりしていたらしい。
それがいきなり、糸が切れたように反応がなくなったため脳出血や体内での大量出血が疑われ、一時騒然となっていたとのことで。
それを聞けば、納得もできるが。
そんなこととは露知らず、次に声をかけられて目を開けた時、赤ん坊ではなく陽介さんの泣き顔がかじりつかんばかりに目の前にあって
「え、よ、陽介さん?」
「真琴さん……良かった、良かった」
ぼたぼたぼた、と涙が落ちてくる。
一体何事か、と驚いた。
「申し訳なかったです。処置でバタバタしていて、ご主人様に説明するのが遅れてしまって」
事の流れを聞き、ぐったりと僕の頭近くで項垂れる陽介さんの姿に納得した。
助産師がいるからか泣き縋ったのは一度だけだったが、ぎゅっと握って離さない手がまだ僅かに震えていた。
「赤ちゃんの準備が出来ましたらお連れしますので、もう暫くおまちくださいね」
助産師が少しその場を離れる旨を告げた。
後の処置も済んで足も楽にすることができたが、僕はまだ分娩台の上だ。
このままもう暫く回復を待ってから病室に移るのだという。
しん、と静まり返った部屋で、ずず、と陽介さんが鼻をすする。
「もう、泣かないで」
分娩中に使用した、散々僕の汗を吸ったタオルで申し訳ないが、今はそれしかない。
差し出すと、陽介さんはそれを目に当てて一層前屈みになり「うぅぅぅっ」と唸るような泣き声を上げた。
さっき生まれた僕らの子どもよりも大きい泣き声じゃないだろうか。
「こ、怖かった」
「はい」
「真琴さんになんかあったらって、悪い想像ばっかり浮かんで。真琴さんか赤ちゃんかって言われたらどうしようって」
どうやら陽介さんは、テレビドラマにあるような命の選択を迫られる事態を想像してしまっていたらしい。
「すみません、たくさん心配をかけてしまって」
貴方にそんな選択をさせずに済んで良かったと思う。
「赤ちゃん、お連れしましたよ」
助産師が、白い布に包まれた赤ん坊を連れてきた。
横抱きされたその小さな存在は、まだここからは見えなくて。
「お父さんから抱っこされますか」
「えっ、えっ」
陽介さんが、涙を拭いながら慌てて立ち上がった。
助産師に抱かれた赤ん坊の余りの小ささに、陽介さんは戸惑ったのか手を出しかけて結局止まる。
「や、やっぱり頑張ったのは真琴さんだし、真琴さんから」
「いいですよ、泣くほど心配したんだから陽介さんから」
「や、でも」
「助産師さんが困ってらっしゃるから、ほら」
動揺して、僕と赤ん坊とを何度も交互に見た後。
陽介さんは、両手をごしごしと自分のシャツで拭いてから、意を決したように差し伸べる。
身体をがっちがっちにしながら、助産師の手から赤ん坊を受け取ると、陽介さんは大きく目を見開いてじっと手の中の存在を見つめた。
「貴方が抱っこすると、尚更小さく見えますね」
「ほんと、ちっさい……ふわふわする」
ぎし、ぎし、とまるでおもちゃのロボットみたいに不自然な動きで、僕のところに近づくと、腰を屈める。
僕は少し身体を起こして、その腕の中を覗き込んだ。
「ほんとだ、ちっさい」
「めちゃあったかいっす……あ、口開けた」
「女の子だって」
「ん、色白できっと真琴さんみたいに別嬪さんだ」
「髪は真っ黒だ……陽介さんの髪ですね」
顔立ちは、まだよくわからない。
けれど、生まれたばかりにしてはとても綺麗な肌の色をしていて、髪質は陽介さんと同じ艶やかな黒髪だった。
「……ありがとう、ございます。真琴さん」
「うん?」
「俺の子だ……」
「……うん……ちょっ、涙! 涙!」
またぼたぼたと、今度は赤ん坊の上に涙を落とすものだから、僕は慌ててタオルを陽介さんに顔に押し付けた。
「もう! いい加減泣きすぎです」
「だって……良かった、ふたりとも無事で、良かった……もう、こんな怖いのはたくさんっす……」
この数十時間で、今は僕よりも憔悴して見える彼は、もうこんな怖い思いはしたくない、という。
けれど。
「そんなこと、言わないで」
心配をかけたのは申し訳ないけれど、もうこれきりがいいみたいなことを言わないで欲しい。
小さな子の頬を指で擽ると、まるで吸い付くみたいに口を開いて寄せてくる。
こんなに愛おしいのに。
寂しいことを言わないで。
「大丈夫、何度でもちゃんと産んでみせますから」
くぁ、と小さなあくびをして、まだぎこちない動作で身じろぎをする。
眠いのかな。
目が開かないかな。
まだ余り見えてないかもしれないけど、目を合わせてみたい。
僕が赤ん坊の僅かな仕草に夢中になっている間、陽介さんは何も言わなくて、ずず、とまた鼻を啜った音が聞こえて顔を上げた。
彼は泣きはらした目で、眉を八の字にして、赤ん坊ではなく僕をじっと見ていた。
「陽介さん?」
「真琴さんは、怖くないんすか。一番大変な思いしたのは真琴さんなのに」
「……そう、ですね」
問われて、この数十時間の陣痛のことを思い出す。
確かに苦しかった、としか言えないけれど、次の痛みが来るのが怖くて怖くて仕方なかったけれど。
「辛かったけど、この子の顔見たら、なんだかすごくすっきりしてしまいました。いいじゃないですか、大変だったけど無事に生まれてくれました」
この瞬間があるのなら、別にいいじゃないかと思えてしまった。
真一文字に結ばれた陽介さんの唇が、涙を堪えて震えた。
で、結局だばっと溢れて落ちる。
「もう、いい加減に泣き止まないと子供に笑われますよ」
「うっ……はい」
「名前、決めないといけないですね」
「……ほんとだ」
「ゆっくり、二人で決めましょう」
ね、と宥めるように彼を見上げた。
すると、胸が苦しくなりそうなほど、縋るような瞳で見つめられながら、距離が縮まり目尻にキスが落ちてくる。
「愛してます」
「……うん、僕も」
「幸せですね」
「ん、幸せですね」
あなたといると
ふわりふわりと、たくさんの幸せが生まれてくる。
これからもきっと、ずっと。
あなたさえ、いてくれるなら。
◇◆◇◇◆
「こら! 陽菜! 颯太も一緒に連れてってあげて」
「えーっ、だって颯太すぐ泣くし走るの遅いし」
「陽菜よりいっこ下なんだから当たり前でしょう?」
七歳になった長女の陽菜は、とんでもなくお転婆だった。
一人目は女の子が育てやすい、と昔の人はよく言ったようだけど、陽菜に関しては全く当てはまらない。
「ママー! 透子ちゃんと遊んでくる!」
「遠くに行っちゃダメだよ、そこの公園だけ!」
「はあい!」
翔子さんが娘の透子ちゃんを連れて近くに引っ越してきてからというもの、陽菜は透子ちゃんにべったりだ。
子どもの少ない地域で育ったから、自分で誘いに出て遊びに行ける距離に同じ年の友達ができたことが、嬉しかったようだった。
一つ下の颯太は穏やかで、陽菜と透子ちゃんについていきたがるのだが何せ陽菜の方が遊び方が乱暴だ。
しょっちゅう泣かされて帰ってくる。
かといって、こうしておいて行かれても泣くのだけど。
「颯太、ママと悠太と遊ぼうか」
「やだー! 悠太ちっちゃいもん、お姉ちゃんと遊ぶ!」
どっと疲れる。
子どもというのは、自分より年上の子と遊ぶ方が楽しいらしい。
つまり、常に下の子の片思いだ。
「よーっしゃ。颯太、パパとボール蹴りに行くか」
欠伸をしながら陽介さんが寝室から出て来て、途端にぴたりと颯太は泣き止んだ。
「行く! やったあ!」
「ちょっと待っててな、すぐ着替えるからな」
「陽介さん。昨日遅かったんだからもう少し寝ててもいいのに」
「大丈夫っすよ。颯太と悠太連れて公園行って、陽菜の様子も見てきます。だから真琴さんはちょっと休んで」
ね。
と、意味ありげに僕のお腹を見てくしゃりと笑う。
先日、四人目の妊娠がわかったばかりだった。
悠太と少し年が開いて出来たから、僕も陽介さんも驚いたけれど。
陽性反応を見て、二人で顔を見合わせて微笑んだ。
「なんとかなりますか」
「なんとかなりますよ」
ふわり、ふわり。
今もずっと。
幸せが、生まれている。
END.
※※※※
あとがき
※※※※
長く長くお付き合いくださった方、ありがとうございます。
本編と未来の番外編、これにて完結です。
かなり古い作品なのですが、こうして移していてあまりの長さにびっくりしました。
実は他にもいっぱい番外編があったりします。
また機会がありましたらぼちぼちと移してまいりますので、気になったかたはまたよしなに……。
ありがとうございました。
砂原雑音
応援ありがとうございます!
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