マージナル:平凡なβが、すべての運命を壊すまで

水城

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15.空と水、秋と花

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 ダッシュを終え、足を止める。

 ひと気のないグラウンドを風が渡っていく。
 続いて葉擦れの音。

 湧き水めいた冷たい清々しさを孕む空気を吸い込んで、悠一は、顎先を伝う汗をゆっくりと拭った。
 そして、背後の校舎を見上げる。

 少しだけ開けられた窓。
 見下ろすまなざしと、悠一の視線が合った。

 軽く片手を上げてみせれば、小鳥遊奏が、窓の傍で、細長い炭を摘まむ指先を上げて挨拶を返した。

 そのまま、悠一はもうしばらくトレーニングを続ける。

 クールダウンのストレッチをしていると、窓辺の奏から手招きをされた。
 「上がって来いよ」の意味だ。
 もう何度も、悠一は、そうやって部室に呼ばれ、奏のデッサンを見せてもらっていた。

 手首のスマートウォッチで時間を確認する。
 今日は少しなら、遅くなっても大丈夫なハズだ。
 特に家からメッセージも入っていない。

 トラックジャケットとジャージを着込んで、悠一はバッグを肩に歩き出した。
 校舎に入り、奥の階段を上がっていく。

 美術部の部室は、廊下の突き当りに近い。
 一応、引き戸を三回ノックすれば、「どうぞ」と、明るめのテナーが応じた。

 中に入ると、いつもどおり、室内にしては空気は少しヒンヤリとしていて、ごくわずかに、なにかの匂いがした。
 「画材の匂い」だろうと、悠一は思っていた。
 
 どこか香木にも似た、金木犀にも似たその匂いを、悠一は嫌いではなかった。

 床に散らばる木炭描きのスケッチ。
 走る男の姿。画用紙一枚に、何体も描かれているかと思えば、大きく身体全体を描いた紙。
 目や鼻や、指先……膝の一部だけが描かれているモノもあった。

 そして、それらのどれもが「春日悠一」を写し取ったもので。
 その光景は、何度目の当たりにしても、悠一をすこしだけ、気恥ずかしく困惑させる。

 奏が、床の描画を繊細な指先で拾い上げた。
 手近のイーゼルや棚にグルリと、展示するように飾っていく。

 「自分を描いた絵」に囲まれ、悠一の「気恥ずかしさ」はさらに強まった。
 けれど、奏はそんな悠一の様子には、まるで気づかぬままに、ごく満足げにデッサンを見回して頷いている。

「……うん、そろそろさ」と口ずさみながら、奏が腕組みをした。

「取り掛かろうかな……って思ってるんだ。構図もイメージ出来てきたし」

「?」

 悠一が無言でまばたく。
 そこで初めて、奏は物事を説明する必要性に思い至った。
 
「えっと。だからさ、描き始めるんだ。キャンバスに、絵具をのせ始めるよ」

「……おう」

 「油絵」というモノが「どう描かれるのか」など、全く知りもしない悠一は、そんな曖昧な返答しかできない。だから、奏が続けて、

「ありがとな、春日くん」と。
 ごくあらたまった礼を口にした時も、やはり、揺れる視線とまばたきで、戸惑いを示すしかなかった。
 
「いっぱい取らせてもらったデッサン、『全部』使うから。今度のはね、そういう作品にするつもりなんだ」

 もうさ、おれの頭の中、春日くんの走る映像、焼きついてるし……と続けて、奏が笑う。

 ひどく無邪気に白い歯をこぼれさせて。
 けれども、その瑞々しいくちびるはくれないに濡れ、何かを誘って。
 
 首を傾げるようにして、悠一を見る大きな瞳は、薄い色素に透けている。
 長い――長い睫毛。
 「繊細」という言葉すら、そのはかなさを表すには、粗雑過ぎた。

「だから、明日からの作業は、ここじゃなくて美術室でやろうと思って」

「そう…か」
 悠一は、それ以外に返事を思いつかない。

 ひどく歯切れの悪い悠一に気づき、奏は「?マーク」を睫毛の先に震えさせながら、少し上の方にある悠一の瞳を見上げて覗き込んだ。

 指を――
 思わず指先を伸ばしてしまいそうに、透明な白さの――

 奏の頬。
 
「春日くん、よかったら美術室にさ。絵の進捗、見にきなよ。自分の絵だし、気になるだろ?」
 言って奏が、また笑う。

「……いいのかよ」

「え? なにが?」 

「その……部外者が、美術室とか、行って」

「なんで? だって春日くん、今も部室にいるじゃん?」

 奏がまばたいた。
 なぜなのか急に、悠一は奏の日差しに輝く淡い瞳を、まっすぐに見ることができなくなる。  
 どうしたらいいのか分からないまま、軽く視線をそらして、悠一が言う。

「その……ジャマじゃねぇのかよ……『完成するまでは、作品、見られたくない』とかさ」

 すると、奏がプッと噴き出した。

「なに言ってんだよ、春日! おれ、そんな偏屈な大芸術家とかじゃないし」

 奏の答えの内容よりもなによりも。
 「春日」と、サラリと呼び捨てにされたことにこそ、悠一の感覚が反応する。

「……まあ、そりゃさ。集中してるときは集中してるし? そんな時に突然、肩とか叩かれたりするのはイヤだよ?」

 そう口にして、少しだけ真剣に頬を引き締めると、奏が悠一との間合いを、一歩詰めた。

 自分を見上げる睫毛が、ひどく近く感じて。
 悠一は、唾液を飲み下す。

 冷たさを増した風が、室内に吹き込んできた。 
 吸い込んだ空気に、なにかが混じる。

 ――甘い。

 悠一の脳で言語化されたそんな単語。

 「あまい」? なにが?

 突然、悠一の耳の奥で、血流がギュウと音を立てる。
 耳朶がうなじが、猛烈に熱を帯びた。

 心拍数が上がっていく。
 呼吸が、少し苦しいような気がした。

「春日…くん?」
 戸惑うように眉間に皺を寄せる奏。「どうかした? 寒い?」

 「その声」が遠く溶けて。
 悠一の指が、無意識に導かれるがまま伸びていく。
  
 あと二ミリメートルで、奏の首筋に触れるほどの距離に――
 悠一の中指の先が届いたとき。

 バッグの上の詰襟のポケットで、悠一のスマホが唸った。

 ――鳴ってるよ? と。
 奏の瞳の色が、そう問いかける色を帯びる。
 悠一は振り返って、上着を手に取った。

 通話の着信。
 母親からだった。取らないワケにはいかない。

 ――悠一? 今、まだ学校ね? さっき、メッセージ送っとったじ、悪いけど急いで帰ってきて?

 急な「シゴト」なのだろう。
 「季節の変わり目」だからな……。

 そう思いながら、悠一はごく短く、「わかった」とだけ応じ、通話を切った。 

「ねぇ……へいき?」

 奏に対し、細かい事情を説明する時間はなかった。
 だから悠一はただ、

「ああ、なんでもない」と答え、カバンに制服を詰め込んで。

「じゃあ」と、美術部室を後にした。
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