マージナル:平凡なβが、すべての運命を壊すまで

水城

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16.恩寵の午後

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 ――見においでよ。自分の絵だし、気になるだろ?

 そんなかなでの言葉。
 
 ためらいはあった。戸惑いはあった。
 けれど、「見に行かない」という選択肢を選ぶ理由を見つけることはできなくて。
 悠一の足は、美術室へと向かってしまう。

 できるだけひと気のない時間を見計らうようにして――

 最初に美術室に入った時、キャンバスの下塗りの様子を見て驚いた。
 それが乾いて下がきを描き始めるまでに、さらに数日かかると聞き、さらに面食らった。

 そして、美術室の戸のはめ殺しのガラスを通し、下絵を描く奏を見た日。

「ああ、これが『肩を叩いてはならない時』なのだ」と、悠一にも、すぐにわかった。

 奏から込み上げてくる「何か」が。
 壁や戸を隔てた廊下にいてもなお、悠一に伝わって来た。

 なにかに憑りつかれた人間を――

 あたかも、なんらかの……神の恩寵のように。
 どこか、深い場所へと身を投じている、そんな誰かのさまを。
 目の当たりにした気がした。

 これまで何枚となく見てきた、奏の素描。
 絵になんの造詣もない、自らなにかを描こうと思ったことすらもない。
 そんな悠一が見ても、「上手い絵だな」という感想を抱くものだった。

 だが今、思うのは――

 「絵が上手い」とか、単に「描くのが好き」とか。
 おそらく、そんな軽い言葉で表していいものではないのだ。奏と絵との関係は。

 横顔が、それを物語っていた。

 オメガ特有に透明に滑らかな頬は、蒼く引き締まり。
 長い睫毛でも隠し切れない眼光が、キャンバスを射抜く。

 親も友人も、悠一がこれまでに知る誰も、そんな表情をしていたことはなかった。
 
 才能――
 
 悠一の脳裏をよぎるのは、そんな陳腐な単語。
 今、自分が目にしているモノを、なにひとつ表現できているとは思えない。けれど、それ以外の言葉が見つからない。

 だから、身動きひとつできぬままに。
 悠一は、筆を持つ奏の姿から目を離すことができない。

 ただ、奏を見つめて。
 見つめて、見つめ続ける。

 そして、小鳥遊奏は美しかった。

 怖ろしいほどに、美しかった――





 奏の絵は、順調に描き進んでいるらしい。

 「らしい」としか言えないのは、画布に描かれているモノが、悠一が考えていた「走る男の絵」とは、全然違って見えたからだ。

 グラデーションになったブルーグレー。
 そんな空のような壁のような、不思議な背景の中に、人の姿がある。

 よくよく目を凝らしてみると。
 様々な色の細い線で、微妙に異なる人間が重ねて描かれているようだった。
 離れて見れば、誰かが「走っている」ように見えた。
 たしかな疾走感が、そこにはあった。

 けれど近づいてみれば、誰か一人の人間の、一瞬の動きには見えないのだ。
 顔すらも、横を向いているのか、正面を見ているのか。
 俯いているのか、仰ぎ見ているのか。判然としないような、混沌。
 なのに――

 その輪郭のどれもが「走る男」であり、かつ「自分」なのだ。
 その絵は、見間違えようもなく「春日悠一」を描いた絵だった。

 絵の世界の人間たちが、この作品を「どう」評価するのか。
 悠一には皆目見当もつかない。でもそれでも。

 「圧倒的だ」と、そう思った。

 ――見る者の様々な感情を波立たせる。
 思春期の若者が持て余す困惑、生命力。滴り落ちる瑞々しさ。
 色彩の鮮やかな儚さ。

 不安定で不確かで。
 けれども、描き出されているのは、確かな「走る男」の姿。それ以外の何物でもない。
 あまりに繊細な線描と卓抜した画力。

 のちに、完成したその絵が、大きな賞を受賞した際の――
 審査員の言葉は、そんな風だった。


 *


 「うん、もうすぐ仕上がりそうかな……」と、振り返って奏が言う。

 気配を押し殺し、少し距離を置いて佇み。
 奏とキャンバスに視線を奪われていた悠一は、トラックジャケットの腕を組んだまま、すぐには声を出せず、ただ頷いた。

 奏が立ち上がる。
 筆やパレットの始末をつけて、絵具で汚れた指を拭き、悠一の傍の机に置かれたペットボトルを手に取った。
 そして机の角に軽く腰かけ、飲み物をあおる。
 
 いつも抜けるように白い奏の頬。
 なのに、なぜだか今日は、うっすらと紅に染まって見えた。

「なあ、小鳥遊……オマエ、風邪でも引いてないか?」
 悠一は思わず、ポツリと尋ねてしまう。

「今日なんてもう、かなりクソ寒くなってきてんのに、相変わらず窓は『開けっぱ』だしさ」

「ああ、ゴメン。春日、寒い?」

 言って悠一を見る奏の頬は、やはりいつもよりも火照った色をしていた。

「俺は走ってきてるから、別に寒くはねぇけどさ。オマエ、なんか顔赤いみたいだぜ?」
 
 悠一がズイと片手を伸ばす。
 掌で奏の額に触れた。

「ちょっと、熱あるんじゃないか」「え? 大丈夫だよ、別に」
 
 何気ないやり取り。
 悠一は、手を下ろす。

 ――甘い。

 なぜだかまた、悠一はそう思った。
 ひどく甘い……と。
 
 ヘンだよな。
 金木犀の季節なんか、とっくに終わってるっていうのに。
 なんだか、強く匂う気がする。

 甘い、甘い匂いが。

「なんだよ、ポヤッとして。春日の方が熱でもあるんじゃないの?」

 奏が悠一の顔を覗き込んだ。

 ふたりの間合いは、ごく近い。

 あまりにも長すぎる奏の睫毛。
 その先が、自分の頬に触れてしまうのではないかと。

 悠一が思わず、そう感じてしまうほどに――

「ほら、行こうぜ、春日? 今日はなんか喰って帰ろうって言ってただろ? なんにする?」

 奏がカバンを取って歩き出す。
 悠一もバッグを肩にかけ、後を追って美術室を出た。
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