マージナル:平凡なβが、すべての運命を壊すまで

水城

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20.with one blow

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 そのまま、奏と悠一は、常設展に足を踏み入れる。

 速足で突っ切るように、サラリと壁の展示を眺めながら、
「なあ、春日。昼飯喰ってこうぜ? どこがいい?」と。

 顎先を上げ、奏が悠一を軽く見上げた。
 そして、両腕を上げて頭の後ろで組む。

「そうだな」
 呟いてから悠一は、「まあ、中央まで歩こうか」と続けた。

 その後、「どっか、安いトコにしよう」と言い足したのは。
 別にそこまで「手元不如意」だったからではなくて――

 フードコートやファストフードとかの、スコンと抜けた広い場所にいた方がいいように思ったからだった。

 ――奏と。
 「狭い場所」で、一緒にいない方がいいような、そんな気がしていた。
 
 気になって。

 「匂い」が――
 甘い匂いが、気になってしまう。さらには、

 「『甘い』…な」と呟いた。

 あの男の――尊の言葉が。

 今、感じているのは、ごくごく「かすかな」モノだ。
 時々、フワリと嗅ぎ取れるだけの。けれど。

 「これ」を嗅ぎ続けたら? 
 一体、俺はどうなる―― 

 こみ上げるのは、ただ「羞恥」。
 そして酷い「うしろめたさ」。

 思い返すコトすら、無意識に避けてしまう――記憶。
 
 つらぬいて揺すぶって。奥深くに押し入って。
 自分の汚濁を吐き出した。
 何度も何度も放って、腰が動かなくなるほど射精して。

 その時に嗅いでいたのは。
 匂い――奏の。

 ――花のように涼しい、爛れて腐敗した。

 「オメガ」の体臭――

 ゾワリと、悠一の背筋を何かが駆け上がる。

「小鳥遊、ゴメン……俺、トイレ」

 悠一が短く口にすれば、奏は、

「うん、じゃ、ここで待ってるよ」と、自販機の横のベンチに座った。

 奏から離れ、悠一は急ぎ足でトイレに向かう。
 ドアのない、クランク状の入口に大きな歩幅で踏み入ると、鏡を見る男がいた。
 
 トレンチコートの横顔。
 ネクタイの結び目を整えていたのは、藤堂尊だった。

 どうしようもなく気まずかった。
 瞬時に、その場から立ち去りたくなった。

 そんな悠一を、尊がゆっくりと振り返る。

 切れ長の目。
 澄んだ瞳が、冷ややかで尊大な目線を悠一へと向けた。

 出ていくことはできなかった。

 悠一は、用を足す。
 そして、洗面台の自動水栓に指先を差し出すと、尊が、腕組みで佇みながら悠一を見下ろした。

「あれ、一組の小鳥遊奏たかなしかなでだろ?」

 それは「問い」ではなかった。

 「自明のこと」を語っている。
 悠一に向けられたトップクラスのアルファの声は、そういう色だった。

「なるほど? 『あのオメガ』とデキてたワケだ」

「……!」

 悠一が尊を振り返る。そして、ほんの数センチだけ見上げる視線で睨みつけた。

 受け止める尊の瞳の色は、無色。
 ただ、冷ややかに凪いでいる。

「ってか、知らねぇよ、『オメガ』だとか、そんな」
 悠一が、低く言い返す。

 「そんな話」したコトなんかない。
 訊ねたことだって、一度もない。

 「知らない」
 小鳥遊が「オメガかどうか」なんて。

 ――知らねぇよ。

 思いつめたように挑むように、自分を見つめてくる悠一。
 その表情を見やりながら、尊が不意に噴き出した。

「『知らねぇ』ってさ……オイ、春日。いくら何でも『あの匂い』は、ハッキリ分かるだろ? ベータのお前にも」

 そして、「まあ……まだ、発情まではしてないようだが」と言い足した。

「……アイツが、小鳥遊が」
 ヒタと尊に視線を定めたまま、悠一が続ける。

「オメガだろうが何だろうが……ともかく、俺たちは『デキ』たりはしてねぇ」

「ふうん?」

 呟く尊の声は、小バカにするような響きだった。

「寝てないのか、なんで?」

「なん…でって、藤堂?! オマエな」
 あまりにも淡々と問われ、悠一は腹が立つよりも、むしろ面食らう。

「春日、お前、シタくならねぇの?」

 続けての直球だった。

 ――自慰を止められなかった。
 あの二度の醜態がフラッシュバックして、悠一は何も言い返せない。

「ちゃんと避妊しておけばいいだろう? ああ……それとも『女の方がいい』とか、そういうヤツ?」

 尊の問い掛けが、サラサラと続く。

「別に、抱いてみたらそう変わらないぜ? 男だろうが女だろうが。オメガだろうがベータだろうが、ヤルことは同じだし」

 そうやって語る尊の、一部の隙もなく整えられたタイの喉元が動くさまを、悠一は唖然と見やる。

「特にオメガの孔だったら、男も女も一緒だ。ほとんど同じような……」

 ガンと、悠一が洗面台の足元を蹴り飛ばした。

 尊が語りを止める。
 驚きも戸惑いも、怒りも、イラ立ちも。なにも見えない静けさで。

「藤堂……オマエさ」
 悠一が、声を震えさせた。

「自分がなに言ってんだか、分かってるのかよ。相手のコト、ナンだと思ってやがる」

 尊が軽く肩をすくめる。
 クッキリとした双眸を縁取っている、長い睫毛が伏せられた。
 そして悠一に、「相手?」と問い返す。

「……そんなモノ、性欲か打算か。もしくはその両方に溺れ切っているだけの連中だ。いずれにせよ、ヨダレ垂らして、濡れまくった股を開くヤツばかりだな」

 昼の美術館で語られるには、あまりにも下品で明け透けな言葉が続く。
 だが、それを口にする尊の頬には、なんの感情も見て取ることはできなかった。

「で、春日? お前は」
 尊がまばたく。

「オレに抱かれたいか? まあ、男のベータを孕ませることはないからな。別にいつでも遊んでやれるぜ?」

「……フザけるなよ」

「ああ、『挿れられる』のは抵抗あるのか? いいぜ、逆でも。『突っ込まれる』コトはほとんどないが。別にできなくはないし」

「藤堂!」

 悠一が、本気の怒声を上げた。

「オマエ、マジ、いい加減にしろって! 一体全体…どんな倫理観してんだよ?!」

「倫理……?」

 心底、驚いた声音で。
 けれども、ひどくおどけ切った仕草で眉を上げ、尊が小さく囁いた。

 その様子が、あまりにも傲慢で。

 あまりにも人を喰っていて。
 あまりにも、別世界にいるようで。

 あまりにも――

 孤独に見えて。
 
 悠一はゆっくりとかぶりを振り、「ったく……」と、溜息と共に呟いた。

「なんかさ、藤堂。オマエって。こないだの……温泉の時から『超やっべぇヤツ』とかって思ってたけどさ……」

 そして、クシャリと前髪を掻き上げながら、

「今、やっぱ『違うな』って思った」と続ける。

「『違う』?」 漂うような尊の問いかけ。

「なんっていうか……『可哀想』。可哀想なヤツだよ、藤堂。オマエってさ」

「は?」

 そう短く言い返し、尊は、ブワリと口もとをほどけさせる。

 軽い笑い声。
 アルファの男は、低く深く響く音で、それでもどこか泣き出しそうに声を震わせる。

 そんな尊に向かって、

「とにかく。アイツとは……小鳥遊とは『そういうんじゃねぇ』からな。じゃ」と。

 今一度、念を押し、悠一はトイレを出ていった。


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