マージナル:平凡なβが、すべての運命を壊すまで

水城

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31.You Gotta Be――(3)

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 甘い甘い。
 痺れるように、ただ甘い。

 抱き締める奏の匂いを、悠一はそんな風に言葉にして。
 
 ああ、良かった。
 ここが外で、ひとけのない公園で……と安堵する。

 冷たく澄んだ風が、空気を動かして。
 この花の香りを、涼しく薄めて散らばせていくから。

 だがそれでも――

 陰茎は欲望を刺激され、ハッキリと、それを形にし続けていて。

 奏にも、「そのこと」を悟られてしまっていると分かっている。
 でもだからといって、この腕を解くことはできない。

 おれから離れて――
 遠くにいって――

 耳朶を真紅に染めながら。
 長い睫毛に涙の粒を光らせながら。
 声を絞り出す奏を、恐怖の中へ置き去りにすることはできない。

 だから、悠一は奏を抱き締める。
 繋ぎとめるように、強く。

 そして、込み上げて爆発しそうな性の欲求のさなか、悠一は。

 「ああ、そうだったのか」と、不意に思い至る。

 なぜ奏が、必ず美術部室の窓を、いつもそっと開けたままにしていたのか、その理由に。
 オメガ性というものが、奏の心をどれほど縛っていたのかということに。
 
 ベータのクセに、分かったようなコト言うな――

 そう、なじる言葉を迸らせた奏の苦しみを。
 やっぱり俺には……ベータには、「分かる」コトなんかできないに違いなくて。

 でもそれでも、俺は奏に――

 苦しんでほしくない。

 キラキラと笑っていてほしい。
 絵を、思い切り描いてほしい。

 こんなにも、絵を描くことを愛していて。絵に愛されていて。そうだよ。

 絵を描くということに、奏は愛されてる。

 「才能」というモノに圧倒されたコトは、もちろん、これまでにもあった。

 伝説のサッカー選手、世界のアスリート。
 陸上の県大会においてすら、他校の選手に「才能」を感じ取り、羨望を覚えた。

 でも奏は――
 そんなモノとは全然違っている。

 初めて、実際に「目の当たりにした」才能だった。
 作品が生まれ出でた瞬間に、リアルにその場に居合わせた。眩暈を覚えるような、何かを見た。

 奏は、何もかもが半端で平凡な自分とは、まったく異なる存在だから。

 コイツはぜったいに、絵を描かなきゃいけないんだ。
 ボロボロに壊れたりしちゃいけないんだ。

 胸の内に激しく渦巻く、そんな思いを言葉にすることはできないままに。

 悠一はただ、必死に奏を抱き締め続けた。
 




 「ただいま」
 
 玄関の扉を開けて、悠一が言う。
 すかさず「おかえり」と、母親の声がした。

 踏み脱いだスニーカーを左手で揃える。
 右手には、奏の母から――小鳥遊菜々緒から貰った紙袋。

 悠一は、台所に足を踏み入れる。
 母は水切りカゴの食器を棚にしまっているところだった。

「これ……」
 悠一がダイニングテーブルに紙袋を置く。
 
 あら、いい匂いがしとるだぃねぇ、と言いながら、母親が紙袋を開けた。

「あらまあ、立派なクロワッサン。どうしただた?」

「貰った。友達の……お母さんから」

 悠一は右肩からショルダーバッグをドサリと下ろして、詰襟のホックを外す。

「ああ、それって。こないだ来とっただた、あの、『かなでくん』いう子?」

 悠一は、「そう」とだけ素っ気なく応じ、そしてなんとなく、「父さんは?」と訊いてみた。
 そんなコトをいちいち訊ねるなど、めったにするわけではないのに。

 だが母は、
「ああ、お父さんねぇ、ちょっと中田さんのトコ」
 と、特にいぶかしむ様子もなく答えてくれる。

 「中田さん」は、春日葬儀社の税理士だ。
 何代かに渡り税金関係を扱っていて、悠一の家もずっと世話になっている関係だった。
 
 すると、玄関が開く音がする。
 悠一の父が帰ってきた。

 ただいま、と、父がキッチンを覗き込む。

「おかえり、お疲れ様でした」
 母が応じた。

「お父さん、クロワッサン食べる? 悠一が貰って来ただいね」

 そんな母の言葉に、ほう? とだけ応じて、父が悠一をそっと見上げる。

「お母さんは、早速ひとつよばれようかぃね」

 そう言いながら、紙袋からクロワッサンをいそいそと取り出して、手近の皿に載せた。
 そしてリビングルームに入って、テレビの前に座る。

「美味そうだな」と。
 父もカサリと紙袋を覗きこんだ。

「ああ、そういえば、悠一」
 母親が、テレビをつけながら呼ばわる。

「あんた、またなんや、よそのお庭でもくぐって来ただた? そんなに花の匂いさせよって……って、あら、もう金木犀なんぞは季節じゃないのにねぇ」

 そんな母親の「のんき」な言葉に、悠一は鼓動をドキリとさせた。

 父は静かにクロワッサンを見ている。
 そして、
「せっかくだからコーヒーでも淹れるか、悠一」と続けた。

 豆を挽く父親の横で、悠一はお湯とドリッパーを準備する。

 湯が沸くまでの間。
 悠一と父が静かにたたずむ佇む台所には、沈黙がたゆたった。

 いつもなら気にもかけないそんな静けさが、ひどくいたたまれなく感じて、「これさ……」と、悠一がボソリ、口を開く。

「このクロワッサン、同学年の小鳥遊ってヤツが具合悪くて、見舞いに行ったら、そこのお母さんがくれたんだ」

「そうか」
 穏やかな、いつもの口調で父が応じた。

「具合が悪いのは心配だな……風邪か?」

 悠一は答えない。
 父もそれ以上は、何も言わなかった。

 少しの沈黙。
 母親が観ている再放送のドラマの音。

 そして悠一が、また口を開く。

「小鳥遊のお母さんはさ、なんか父さんのコト……知ってるみたいだったけど?」
 
 父は応じない。
 明らかに、心当たりなく戸惑っている様子だった。

 これって、演技かよ?
 悠一は父の横顔を窺う。

 そもそもが、とても穏やかで寡黙な父だ。
 表情を読むのは難しかった。
 
 いつもの悠一なら、会話はそこでやめる。
 というか、親とそこまでして話したいようなコトもないのだ。

 だが、今日はどうにもモヤついて仕方がなかった。

 奏の母親の、自分を見上げるまなざし。
 かすが、せんぱい、と呼びかけられた。
 あの時の声が、頭の中で蘇って――

 だから、悠一はさらにこう切り込む。

 「旧姓はさ……村岡だって。村岡菜々緒…さん」

 余計な入れ知恵、藤堂尊からの。
 あのスーパーアルファのオーラを思い返して、悠一は舌打ちするような気持ちになる。

「ああ、村岡さんか」
 
 父がそこで、合点がいったような表情を見せた。

「えっと、どういう……知り合い?」
 言いづらさを滲ませながらも、悠一はまた問いかける。

「どういうって」
 父が静かに応じた。
「同じ学校だったんだ。後輩でね。父さんが三年の時の一年生だ」

 予想しなかった答え。
 けれど別段、何がどうということもない答えだった。

「そうか。悠一、お前、息子さんと友達なのか……菜々緒さんはお元気そうだったか?」

 父の問いかけは、ごく屈託のないものだった。
 その声には言葉には、何の含みも感じられなかった。

「え? まあ、元気…なんじゃないの」
 悠一はひどく迂遠に返答する。

 元気っていうか、奏のことはメチャクチャ心配してたみたいだったけど。

 湯はとっくに沸いていて、父は黙々とドリップを始めている。

 立ち上る湯気とコーヒーの香りを嗅ぎながら、悠一は様々な思いを噛みしめて。

 ゆっくり息を吸い込むと、深々とした溜息を吐き出した。
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