マージナル:平凡なβが、すべての運命を壊すまで

水城

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32.バランスと依存(1)

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 その後、毎日ではなかったが、奏は学校に顔を見せるようになった。
 体調も万全ではないのだろう、昼頃にならないと登校してこない日もある。

「朝がさ……特に、つらいんだよね」
 奏が、気まずそうに呟く。

「あ、でも……それは誰だって、朝はしんどいよな。だから、なんかおれ、サボってるみたいで」

 「別に、サボってはないだろ」と、悠一は小さく笑い飛ばす。
 そっけないくらいに。なんでもないコトみたいに。

 放課後、奏は良く「2グラ」に来るようになった。
 たいていはスケッチブックを手にして。

 葉の落ちた木々の枝ぶりや、枯草の中に残る小さな花。
 朽ち果てたグラウンドの備品。

 そんなようなモノを、奏は鉛筆の細い芯で写し取っていく。
 そして時には、悠一の姿も――
 
 俺のコトなんか、もう飽きるほど描いただろうにさ?
 それに秋も随分深まってる。こんな吹きさらしの中じゃ、絶対に寒いだろう。

 トラックを走りながら、悠一は思いを巡らせる。
 でも、それを口には出さない。

 誰かと「閉じられた空間」にいたくないんだろう。
 きっと――
 奏の「その気持ち」が、痛いほどに分かる気がするから、いまでは。

 一方で、奏の「匂い」は、このところ「さほどでもない」ように感じていた。

 もちろん、決して「無香」ではない。
 だが見舞いに行った「あの日」のモノとは比べ物にならないほどだと、悠一は感じていた。

 っていうか。
 「そんな時」じゃないと、学校に来れないのかもしれない。
 「薬」がうまく作用している時じゃないと。

 けれどそれでも、どんなに微かでも。
 悠一はもう、ハッキリと奏の匂いを嗅ぎ取れてしまう。

 こんな風にグラウンドにいたとしても。
 時には、廊下に漂う微かな残り香すらも感じ取って――

 昔の自分だったら。
 奏と親しくなる前だったら、こんなかすかな香りなど、気に留めるコトはなかっただろう。
 「誰かの……先生の化粧品の匂い?」くらい。
 いや、気づきもしなかったかもしれない。

 予定のトレーニングメニューを終えて、悠一は手首のスマートウォッチを確認する。
 家からも、特にメッセージは来ていない。
 今晩は「手伝い」に、呼び出されることはなさそうだ。

 トラックジャケットを着こんで、立ったままハムストリングスにストレッチをかけた。
 そして悠一は、奏へと視線を向ける。

 奏も、悠一を見ていた。
 フワリと笑い、手にしたスケッチブックを掲げる。
 
 白く反射する紙の上、繊細な線で写し取られていたのは――

 悠一の横顔。

 別にめずらしくもない。毎日見ている自分の顔。
 けれどそれは、自分自身で思っているよりもずっと、大人びた陰影で描かれていて、悠一はドキリと胸をざわつかせてしまう。

 だから悠一は、ことさらにさりげない声音で、
「なあ、奏。今から、なんか喰って帰る?」と。

 そんな寄り道の提案を、奏にポンと放り投げた。





 奏の好きな中町のワッフルの店。
 小さく狭い店内の席は埋まっていた。
 
「テイクアウトしようぜ」と、奏が言う。

 もし、席が空いていたとしても、たぶん奏はそう提案しただろう――と。
 悠一には、それが分かりすぎるほど分かる。

「俺、買ってくる。そこで待ってな」
 悠一は、表に奏を待たせて、ひとり店内に入っていく。





 川べりの時計博物館の方へと歩く。
 橋のたもとのあたりのベンチに、悠一と奏は腰かけた。

 持ち帰り用で、クリームやフルーツソースのトッピングはなし。
 クラッシュドアーモンドをまぶし、チョコでコーティングしたワッフル数枚ずつ。
 それと、奏にはカフェラテ。悠一はブラックコーヒー。

 奏はすこし瘦せた。
 以前ほど食も進まないのか、奏のワッフルが減る速度は、明らかにこれまでとは違っていて。
 そのことに気づけば、悠一の胸は切なく軋む。

 ワッフルやアイスクリームをパクつく、無邪気な奏の姿。
 思えば、それはまだ、ほんの数週間前のコト。

 ついに奏は、食べ止めて、ワッフルの手を下ろす。
 小さな吐息。
 カフェラテを飲み下そうとして、それさえもつらそうに喉を震えさせた。

「奏」
 
 悠一が、奏の手からカフェラテのペーパーカップを、そっと摘み取る。
 蓋をして、ゆっくり自分の脇に置いた。

「ごめ…ん、ゆ、ぃ…ち、おれ……」
 奏が、言葉を詰まらせる。

「肩に、よりかっていいから」

 言って悠一が、奏の背中を支えた。
 ごくそっと、そっと。

「横になるか? 多少は楽かも」
 悠一の言葉に、奏は小さく首を振ってくちびるを噛みしめる。

「だい、じょうぶ…だから、ごめ…ん」
 
「謝るなよ」

 クタリと、悠一の胸元へ、奏が倒れ掛かった。
 頬がみるみる青ざめていく。

 様子がすこし落ち着いたところで、タクシーでも拾って奏を家に送って……などと考えていた悠一だった。
 けれども、奏の様子はあまりにもつらそうで、悠一の胸の内でも、不安がかき立てられてしまう。

 どうすれば――
 「救急車を呼ぶ」なんてのは、絶対に奏が承知しないだろう。

 どうすれば一番、奏の心を傷つけずに済むのか。 

 親御さんに連絡? 
 父親は東京勤務だと聞いてるし……あの母親は車出せるんだろうか?
 
「かなでさ、家に…電話…」

 悠一が言いかけた瞬間、奏の耳朶が、ざあっと真紅に染まった。
 そして猛然と匂い立つ。

 甘く痺れる、オメガの花匂――

 むせ返りそうなほどに、それは急速に強さを増していった。
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