マージナル:平凡なβが、すべての運命を壊すまで

水城

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32.バランスと依存(2)

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 甘く痺れる、オメガの花匂。

 ここは川べりで、周囲には人がいなくて。
 だから――
 
 大丈夫。
 奏の匂いは、誰にも嗅がれずにすんでる。
 
 けど、どうしたらいい? 今、どうしたら。

 思考が空回りし始めているのを自覚して、悠一は肩の力を抜こうと試みる。懸命に。

 ――チクショウ。
 俺は十七のガキでしかなくて、こんな時さえ、ロクな考えが浮かばない。

 そうやって苦々しい思いを飲み下し、悠一はただ奏の身体を抱きとめて支える続ける。
 奏の呼吸は荒く、グッショリと冷たい汗が髪を濡らしていた。

 マズい、マズい。
 このままじゃ。
 
 悠一は手首のスマートウォッチをタップして、通話アプリを呼び出す。
  
 応答してくれるだろうか? 

 「取り込んで」いなければ……この時間だったら、ひと息ついてるはず。
 俺に連絡が来ないからと言って、「シゴト」が入ってないとは言い切れない。けれど、でも。

 頼む、出て。
 出てくれよ、頼む―― 

 ほんの十コール程度の時間が永遠に感じて――
 そして通話がつながった。





 白いバンが、左から橋を渡ってくる。
 悠一と奏の座るベンチを少し行き過ぎてから、それは止まった。

 「社名」が書かれていない方のハイエース。
 運転席のドアが開いて、ワイシャツの男が降りてきた。

「ゴメン……父さん」

 悠一が振り返って言う。
 蒼い頬を震えさせる奏を抱きとめながら、

「悠一、大丈夫か」

 父の呼びかけ。
 奏を抱え上げながら、悠一がゆらりと立ち上がる。
 悠一の父が、速足で近づいて奏の肩へと腕を伸ばした。

 二人で奏を支えながら、車へと歩く。

 スライドドアを開け、ハイエースの後部座席に奏を横たえて、悠一もそのまま乗り込んだ。
 父親が、すぐさま運転席へと向かう。

 悠一がスライドドアを閉める音と、父が運転席のドアを閉める音がほぼ同時に重なって、エンジンが始動した。

 窓を……開けなければ。

 そう思い至り、悠一が指先を伸ばす。
 するとすかさず運転席のスイッチで、父がサイドウィンドウを作動させた。
 
「具合、ひどそうだな、大学病院さんに運んだ方がいいか?」

 いつもどおり、ごく穏やかな父の声。
 悠一の緊張が、一気にグワリとほどけた。

「いや、それは」と。
 悠一が、震えた声を唾液と共に飲み下す。

「いえまで……とりあえず、家に送ってほしくて」

「家の人、誰かいそうか?」

「……たぶん」 

 多分、いるハズだ。母親が。
 「小鳥遊菜々緒」が――

 そして悠一は、父に住所を告げた。





 奏の自宅前。住宅街の道にバンが止まった。

 ぐったりと目を閉じた奏を、悠一がそっと揺らす。そして、

「おい、家、着いたぞ……」と呼びかけた。

 悠一の父が運転席から降りる。
 門柱の呼び鈴も鳴らさぬうちに、玄関ドアから人が飛び出してきた。

 奏の母親だった。

 「匂い」はもう、かなりひどいありさまで。
 悠一たちに何を問いかけるまでもなく、「起きているコト」が十分に分かっているのだろう。

 菜々緒は、ただ「カナちゃん」とだけ、小さな声で噛み締める。

 そして、悠一の父へと視線を向け、
「……かすが、せんぱ、い」と、息を詰まらせた。

「久しぶりだね、菜々緒さん。変わらないな? 元気そうでよかった」

 やわらかな父の声。

 無論、生来が「やさしい」男だ。だが。

 あらゆる愁嘆場に、骨肉の修羅場に立ち会い続けてきた。
 多くの人々の非日常を、そっと取り仕切り続けてきた。
 そんな経験からしか出すことができない。

 ――穏やかさ。

 菜々緒が玄関ドアを押さえる。
 悠一たちが、奏の両肩を支えて中に入った。

 二階の奏の部屋。
 菜々緒がベッドの上掛けをずらし、悠一と父親がそっと奏を横たえる。
 
 心配でたまらない。
 奏は普通じゃない。
 こんなにも、青ざめて。
 こんなにも苦しげで――消えてしまいそうにはかないのに。匂いが。

 匂いだけが――

 甘ったるいこのオメガの匂いだけが、まるで奏を侵食しつくすように。

 ――ただ強まっていく。

 でもこれ以上。
 俺に、「ただのベータ」、「ただの高校生」の自分に、何がどうできるワケでもない。

 奏の苦しみの、何が分かるワケでもない――

 それが分かっていたから。
 分かりすぎるほどに自覚していたから。

 父親に諭されるまでもなく、悠一は自らそっと室内から立ち去った。
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