マージナル:平凡なβが、すべての運命を壊すまで

水城

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32.バランスと依存(3)

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 奏の母親が、オロオロと階段から降りてきて、なにか――タオルとか水とか、そんなようなものを手にし、また上がっていった。

 このまま、そっと帰った方がいいのか。
 いたたまれなく戸惑う気持ちを、悠一はそっと父に向ける。

 父は静かに、小鳥遊菜々緒の後姿を視線で追っていた。
 そしてゆっくり、悠一を振り返る。

 もうしばらく様子を見ていよう――
 無言の父の頷きを、そう解釈して悠一はただ佇む。

 少しして、また奏の母が降りてきた。
 悠一たちの存在に、ハッと目を見開いて、

「……ごめんなさい、本当に、ご迷惑を…おかけして」と、か細いが懸命な声で告げる。

 やわらかく静かな視線でかぶりを振って、悠一の父が、

「どう? 息子さんは、すこしは落ち着かれた?」と尋ねた。

 瞳を泳がせてから、おずおずとひとつ、奏の母が頷く。

「大丈夫かい、菜々緒さん。すこし腰を下ろすといい」
 
 悠一の父が、そっとダイニングチェアを引く。
 漂うように、引き寄せられるように。小鳥遊菜々緒がそこに座った。

「悠一、お茶でも沸かしてあげなさい」

 ごくそっと、まるで何かの「符牒」のように父に言われ、悠一はあたかも今、自分が「仕事の場」にいるかのような感覚におちいる。

 身体が滑らかに、自然に動き出した。
 ガタガタと、あちこちを引っ掻き回すでもなく、ごくさりげなく。
 見えるところに置かれていた電気ケトルに、カップ一杯程度に見計らった水を汲んでセットする。

 茶葉は……と、視線をさまよわせれば、すぐに、洒落たキャニスターに入ったティーバックが見つかった。

 ひとつ取り出して、
 ――ああ、ハーブティーか、と胸の内で呟いた。

 むしろ「おあつらえ向き」だ。
 
 カチリと、すぐにケトルが切れた。
 手近のマグカップにティーバックを入れて、湯を注ぐ。
 そしてそれを、父親に手渡した。

「菜々緒さん」

 ひと言だけ。
 それ以上は言わぬまま、悠一の父が、小鳥遊菜々緒の前にカップを置く。

 奏の母は、しばらくの間、立ち上る湯気を見つめていたが、やがて、おずおずと指を伸ばしてカップを掴む。

 ハーブティーに口をつけて小さく飲み下す、その華奢な肩を。
 悠一は、あまり不躾にならないよう、ただ視界の境界上で見ていた。

 父は無言だった。
 お茶を半分ほど飲んたところで、奏の母が口を開く。

「……本当に、きょうはご迷惑を、おかけして」

「迷惑じゃない」
 悠一の父が即答する。

 驚いて見開いた大きな瞳は、奏とよく似ていて。
 小鳥遊菜々緒は、その長い睫毛で瞬くと、

「ありがとうございます」と深々、頭を下げた。

 悠一の父が、それを無言の微笑で押しとどめる。
 そして、軽く腰をかがめて、

「かなで…くん、と言ったっけね、息子さん。ご主人は? 早く帰ってこれるのかい?」と、本当にただただ、低く静かに問いかけた。

 それは、悠一が手伝いに行く斎場の場で、よく目にする父親の仕草で。
 けれそ、それはいつだって、決して儀礼的なモノではなく、ただ思いやりに満ちている。そんな。

 「父親」の背中を、悠一はいつしか尊敬の念すら抱きながら見るようになっていたのかもしれない。

「すいません、わたしったら自分だけ……座ったきり、飲み物もお出ししないで」

 そんな風に、少し慌てた仕草がテーブルのマグカップを大きく揺らす。
 すかさず、かばうように伸ばされた悠一の父の腕は。
 それでも決して、相手に接触することはなくて。
 ごく注意深く、ほんの一ミリたりとも――

 その後は、ただ無言の時が続き、小鳥遊菜々緒がマグカップのカモミールティーを飲み下してすぐに、悠一たちは、奏の家を後にした。

 玄関先まで見送りに来た菜々緒が、そっと悠一の父を見上げる。

「本当に……また、こんな風に……こんなことで……」

 言い淀んだ声は、ほとんど泣きそうに震えていて、悠一はもう、どうしたらいいのか分からない。

「こんなことで、春日先輩に、また…」
「菜々緒さん」

 悠一の父が呼びかける。そっと。
 けれどそれは「遮り」だった。

 悠一には分かる。
 それ以上のコトを、父は今、自分に聞かせたくはないのだと。

 玄関先で菜々緒に一礼し、悠一と父は車へと乗り込んだ。
 悠一は、今度は助手席に座って、シートベルトを着ける。

 ハイエースが発車した。

「父さんさ……」
 言いかけてふとためらい、悠一は少し口をつぐんでから、

「ありがとう」と、まず礼を言った。
 父はゆっくりと首を振る。

「あのさ、親父」
 悠一が続けた。

「奏の……お母さんと、知り合いなんだ?」

 疑問形はうわべだけ。
 悠一は、確信を胸に、まっすぐ父の横顔を見据える。
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