マージナル:平凡なβが、すべての運命を壊すまで

水城

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36.オレを、呼んで。名前で呼んで――

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 自室のベッドで、尊は意識を取り戻す。
 傍らには、竹内の気配がした。

 点滴の管が視界の際に入る。
 医師が尊の瞳を覗き込んだ。

 藤堂の家に昔からよく出入りしていた医者だ。
 かつて――
 覚醒の時に、尊も何度か診察を受けたことがあった。

「脱水が酷いので生理食塩水を輸液中です、尊さま」
 
 そう。
 もう初老と言ってもいいような年齢トシのクセに、この医者は。
 随分前から、オレのコトを「さま」づけで呼ぶ――

 いつからだったろう……そうだ。
 あれは、初めてのラットの時――

「体温も低く、食事もあまり取れていなかったご様子ですので、当座の処置ですが栄養輸液も一緒に」

 医師の言葉に、尊はただ溜息だけで応じた。
 少しだけ尊大な響きの吐息で。

「尊さま」
 竹内が、そっと口を挿し挟む。

「旦那様が……『もう、その薬は飲むな』と」

 尊は思わず口の端を歪めた。

「『薬は飲むな』? 違うだろ、竹内さん。『つまらん薬なんぞに頼りおって、ふがいない』とかじゃなかったのか? 『自己管理すらままならぬとは見下げ果てた』とかか?」

 いつも、どちらかと言うと無表情を貼りつけている竹内が、困り果てたように眉尻を下げる。
 すると、医師が話を引き取った。

「嘔吐された中にカプセルの溶け残りがありましたから、何をお飲みだったかは分かっています……東南アジアとオセアニアでは、一部認可されていますが、アメリカでもまだ未承認の薬です。服用はお勧めしかねます」

 そして「尊さま」と、竹内が続ける。

「ご体調が思わしくないようでしたら、東京の方の病院をご手配いたしますので」

「不要だ」

 そう声を絞り出した刹那、またしても尊は、猛烈な吐き気の発作に襲われた。
 背中を痙攣させ、咳き込んで嘔吐く。
 竹内が慌ててタオルを手にした。

「制吐剤を、もう少し入れましょう」

 言って医師が、バイアル瓶に注射針を刺した。
 




 「東京の病院行き」に関しては、竹内を説き伏せ、尊は断固、拒否をした。
 
 不調の原因は明らかだ。
 抑制剤の摂取過剰。だが――

「それ以外に、ストレス要因も大きいのでは」と、医師は言葉尻を濁していた。

 あのヤブ医者め。
 何でもかんでも「ストレス」で済ませるのは、ただの無能の表れだ。
 薬を抜いて安静にさえしていれば、すぐに体調は戻る。

 そんな尊の自己診断どおり、二日後には、食欲も体力も、ほぼ普段と同じ感覚になる。
 しかし、竹内は慎重だった。

「今週中は登校もお控えください。私のスケジュール管理が至りませんで……このところ確かに、尊さまは御多忙過ぎました」

 そんな風にキッパリと言い渡されてしまえば、尊もそれ以上歯向かう気にはなれなかった。
 長年の「父の」秘書とはいえ、尊も昔からの付き合いだ。
 竹内とはむしろ、父親よりも、ずっと近しいところがあった。

 抑制剤を止め、睡眠も食事も十分に摂取したとなれば、十代のアルファが持て余すのは、下腹部の萌しだった。

 古い洋館の洋室。
 重い作りのベッドの中、尊はパジャマの内へと指を挿し入れる。
 すでに十分、ズシリとした熱っぽさを孕んだ陰茎を、ゆっくりと握りこんだ。

 そのまま、上下に摩擦を始める。
 先端をくすぐりカリをなぞって、鈴口に軽く指を押し当てて。
 尊はその日も、もう数度目かの自慰に耽っていた。
 
 声は抑えない。
 誰も来ない。万一、使用人に聞かれたとて、別段どうだっていい。
 所詮はただの「使用人」なのだ。

 吐息をくぐもらせ、時に鋭く短い悲鳴を洩らして。
 尊は高みへと駆けのぼる。

 すぐに放出したってかまいはしないのだ。
 だから、微塵も扱き上げる指先の動きを緩めぬままに。

 特に何を思い浮かべるワケでもない。
 ただ単純に、身体の「部分」が得ている快楽の電流だけに集中して、それだけしか考えないように。

 ただ無心になりたかった。
 エクスタシーの瞬間だけ、すべてから解き放たれるようで。
 そんな――

 まるで祈りのような、あまりに刹那的すぎる願望。

「ぁ……っ、く、イ…クっ……」

 一気に絶頂にたどり着こうと、尊はことさらに淫猥な言葉を口にする。
 その瞬間、脳裏に鮮烈に浮かび上がるのは、なぜか。

 ――走る姿。
 確かなストライド、梢を渡る風のような。

「か、すが……」

 やけに板についた喪服の背中。
 静かに気配を消して。けれども場内をくまなく視界の内に入れて。
 佇む男――

 不意に、後ろから手首を捕まれた。
 掌、長い指。
 強い……握力。

 ――「いい」じゃねぇだろ。ったく、なんて顔色してやがる。
 ――とにかく、横になってろって。

 そう言って、オレの肩へと伸ばされた……指先。

 掴みかかって、むしゃぶりついた。
 ヤツのくちびるに。

 キス。
 押し返してくる強い力。
 留めつけるのに、少し苦労するほどの――
 
 ――抵抗。
 
 オメガの匂いもない。
 女の柔らかさもない。淫乱に尻を準備し、陰茎を喉奥まで含み込んでしゃぶりたがる、筋金入りにアルファ狂いのベータでもなく。

 ただの……高校生。
 ただのガキ。

 「ただのベータ」のくちびるが、あの時――
 狂いそうなほどに、オレの陰茎を猛らせた。
 
「か、すが、かすが、かす…」

 一度口にすれば、それは止まらなくて。
 尊は何度も、その名を呼び続ける。

 不意に快感が突沸した。
 鋭い悲鳴をあげて、尊は激しく射精する。

 長い長いアルファの精液の放出。
 そんな激烈な法悦のさなか、ついに尊は「それ」を音にする。

「ゆ、いち…ゆう、ゆう…いち……っ」

 初めて、その名を。
 はじめて、呼んだ。
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