マージナル:平凡なβが、すべての運命を壊すまで

水城

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 ヒートの予兆が不安定に続いたせいで、寄り道の途中、倒れかけた奏を、悠一は父親と家まで送り届けた。

 だからもう「今さら」隠し立てすることもない……ということなのか。
 それ以降、奏の母は悠一が家に上がるのを許すようになった。

 下校時に奏が悠一を連れてくることもあれば、学校を休んだ奏の見舞いに、悠一がそっと立ち寄ることもある。

 もちろん、奏の母親が「もろ手を挙げての大歓迎」といった様子を見せることなど一切なくて、いまだに、悠一を見ては戸惑う視線を泳がせる。

 露骨な拒絶や礼を失した振舞いをされることはない。だが悠一とて、そんな態度に恐縮しないワケではなかった。

「ゴメンな、悠一」
 奏が詫びる。

「ホント、なんなんだろ、母さん……ってかさ、前に自分が言ったんだぜ? 『春日くんを家につれてきて』って。『ケーキ焼くから』とかなんとかってさ」

 ああ、そうだ――
 奏は知らない。

 自分の母親が、俺を初めて見た瞬間に「かすがせんぱい」と、驚きの声を上げたコトも。
 俺の親父と自分の母親が、同じ学校の先輩後輩だったコトも、何も。

 ともかく、自分の顔を見るたび、「挙動不審」になる菜々緒には、さすがに悠一も、いたたまれない気になる。

 だからある日、悠一はつい、奏にこう提案した。
 「今日はさ、ウチ、来たら?」と。

 けれど、そう言いながらも悠一は、前回に奏が家に来た時の出来事を――
 自分が「とち狂って」奏にしてしまったことを――キスを。
 思い出してしまう。

 あんなことがあった部屋になんか、来たくもないか、普通……。
 そんな風なに悠一が、自分の提案を後悔した時だ。

 一瞬、驚いたように瞬いて、けれども奏は、ブワリと花がほころぶように笑った。

「いいの? 悠一。家のひとの邪魔とかにならない?」

「邪魔って、別に、どうせ家にいるかも分かんねぇって」

 そっか。忙しそうだもんな、悠一のうちは……と呟いて、奏が続ける。

「悠一のさ、お父さん……にも、おれ、そういえばちゃんと、お礼も言ってなかった」

「別にそんなコト」

「行っちゃって、ホントにいいの?」
 奏が声を弾ませる。

「じゃ、おれさ。また悠一のコーヒー、飲みたいな。うん、あまり長居はしないようにするし」

 そんな風に本心から嬉しそうに話す奏の横顔が、白い頬が、眩しくて。
 悠一は、ただ黙って目を伏せる。

「あ、じゃ、ちょっと待って」と、奏がコートのポケットをまさぐった。
 そして、

「ゴメン、最近マジ、心配性だからさ、母さん」と、メッセージアプリを立ち上げた。





「おじゃましまぁす」

 明らかにシンとひと気のない家の玄関で、奏は律儀に挨拶をする。

「いいから上がれよ」
 
 悠一はそっけなく言って、踏み脱いだスポーツシューズをそっと揃えた。
 その様子をチラリと見やり、奏が小さく笑う。

「……なに?」

 ごくぶっきらぼうに――明らかな照れ隠しで、悠一が訊けば、奏は、
「べつに」と応じて、また笑う。

 その笑顔は悠一が見知っている、あのキラキラと零れ落ちるようなもので。
 だから悠一の胸は、懐かしいように安堵するように、すこしだけ切なく軋んだ。

 ふたりは、狭い廊下を抜けて台所に入る。

「じゃ、コーヒー淹れるか」

 呟きめいて口にして、悠一が、ドサリと肩のバッグを床に落とした。
 奏がそれを端によけ、傍に自分の荷物とコートを置く。

 悠一が点けたガスコンロ。
 青紫の炎がポッとともる。

 普通のヤカンにたっぷりと湯を沸かしてから、悠一は、ドリップ用のポットに熱湯を注ぎ入れた。

 とかく手入れが面倒で、持ち主の父親すら、あまり使うことのないネルのフィルター。
 昔、悠一が勝手に使ってカビさせたことがあって、それ以来、父からは利用禁止を言い渡されていたシロモノだった。

 それがつい最近、使用許可が下りたのだ。 
 ついこの前、父親の目の前で、悠一が淹れてみせたネルドリップの味が、かなり満足のいくものだったかららしい。

 「また淹れてくれ、悠一」と。
 父さんにそう言われたのは、地味に嬉しかったっけ――

 カフェオレを好む奏に、一度は、ネルで淹れたまろやかなコクのある一杯をふるまってやりたいと。
 悠一はずっと思っていた。

 ハンドミルに深煎りを入れて、細めに挽く。

「うわ…っ、すごくいい香り」
 奏が目を瞠った。

 悠一が、ドリップを始める。
 その横に立って覗き込みながら、奏がポツリと言った。

「すきだな……」「え?」

「悠一がコーヒー淹れてるトコ、好きだな、おれ」

「……な、んだよ、いきなり」

「いや、カッコイイっていうか。なんかこう、仕草っていうかさ。悠一、手も大きいし指も長いから」

「だから、なんなんだよ、それ」

 どうにも照れ臭くて、悠一はドリッパーのアワへと落とした視線を上げることができない。
 奏は、前に来た時と同じように、微笑をたたえて頬杖をつき、コーヒーの落ちていく様子をジッと眺めやっている。

「お父さんに習ったの?」
「え?」
「コーヒーの淹れ方」
「ああ、まあな」

 そんな会話が、やっぱりどうにも面映ゆくて、悠一はつい、「ほら、できたぞ」と。

 どうにもそっけない口調で、コーヒーサーバーを掲げて見せた。
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