マージナル:平凡なβが、すべての運命を壊すまで

水城

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 たっぷりのホットミルクを入れたピッチャーとブラックコーヒーの入ったサーバー。

 その二つを持って、悠一は奏と二階へ上がる。
 「今日は自分も、カフェオレにしてみよう」と、そう思いついたからだ。

 勉強机の上で、悠一がふたつのカップにコーヒーとミルクを注ぎ入れる間、奏は部屋を見回している。

「なに、あらためてマジマジ見てんの? ボロい家だろ、普通に古いし」

 そんな自虐的な言葉が悠一の口をついたのは、これまで何度も目にした、奏の家の洒落たキッチンや今風の間取りが頭に浮かんできたから。

 けれども奏は、悠一の言葉に、ただ無言で首を横に振った。
 そして、

「こないだ来たときも思ったんだけどさ。なんか悠一っぽい……『悠一の部屋』だなって」と続ける。

「なんだ、ソレ」

 苦笑して、ことさら「つっけんどん」に言い返しながら、悠一は奏にカフェオレを差し出した。
 カップを受け取って、奏が「ふふふ」と笑って見せる。

 そしてふたりは、悠一の本棚を眺めては、古いマンガを取り出して、
「あ、これ、おれも読んでた、面白いよな」とか、
「なにそれ知らない」「マジ? めちゃ流行ってたやろ」とか、他愛ない話で盛り上がって、ページをめくった。

 両手で持ったカップに、やわらかなくちびるをつけて、カフェオレをひと口飲み下し、奏がしみじみと息を吐く。

「おいしいな……これホント、こんなうまいカフェオレ、おれ初めて」

「……そうか?」
 悠一は、嬉しくもあり照れ臭くもある気持ちを噛みしめて俯く。

「うん、なんかさ……ミルク入ってるのに香りスゴイし。めちゃくちゃコックリとしてて…っていうか、うーん、全然甘くないココアみたいなさ」

「だから、なんだよ、それって」

 そんな、何気ない会話がしばらく続く。するとふと、奏が言った。

「なあ、窓、開けない?」

 ごく唐突だった。
 暖房のききの悪い部屋は、むしろまだ、薄寒いほどだ。
 
 一瞬、戸惑う悠一の反応に、奏がギュッとくちびるを噛みしめる。
 そして立ち上がると、手にしていたカップを机に置き、
 「ゴメ…ン、おれ、もう帰るよ」と、頬をこわばらせた。

 奏の耳朶は薄く紅潮している。
 悠一もすぐに、「コトの次第」を察し取った。

「奏、大丈夫かよ」

 言って立ち上がり、悠一は奏の瞳を覗き込む。

「平気、でも……もう帰るから」

 悠一から目をそらして、奏は声を固くした。

 だが悠一は、「待てって」と、それを押しとどめる。そして、奏の透明に色素の薄い瞳を、さらにまっすぐに見つめ、

「具合、ヘンなんだったら……むしろ、落ち着くまで休んでいけよ」と、ごくキッパリ告げる。 

 そして薄く窓を開けて、暖房を強めた。

 奏はうなだれたままベッドの縁に腰を下ろす。 
 自分のバックパックから、ちいさなファスナー付きの袋とペットボトルを取り出した。
 「あのこと」以来、持ち歩き用にすこしだけは、母から薬を渡されている。

 二粒ほど薬を飲み下し、奏は壁にもたれ、ベッドの上で膝を抱えた。
 深々と溜息をついて、ジッと顔を膝に埋めている。

 その様子を、背中でしっかり感じ取りながらも、悠一はあまり見つめないようにと、奏から注意深く視線をそらして、カフェオレのポットとカップを盆に載せた。

「ちょっと、冷たい麦茶でも取ってくる」

 言って悠一は、盆を手に部屋を出た。





 カップとピッチャーを台所の流しに置き、悠一は、冷蔵庫から麦茶を取り出して、ふたつのグラスに注ぎ入れる。

 自分のグラスに口をつけ、喉を鳴らして半分ほど飲んで。
 またそのグラスを満たしてから、悠一は二階に上がった。

 そっと自室に入る。
 奏はベッドの上に丸まって横たわっていた。
 
「寝てんのか……?」
 呟きで問いかけて、悠一はそっと机にグラスを置く。

 寝息は聞こえない。
 胸や肩に呼吸の様子すら見て取れないほどに、奏はごく静かだった。

 胸騒ぎに似た不安。
 悠一は、ベッドの端に腰かけて、ゆっくりと奏の口もとに手をかざした。

 かすかな空気の動きを感じる。

 ほどけるような安堵が、自分でも滑稽なほどだった。
 悠一は思わず苦笑を洩らす。
 
 奏は掛布団の上に寝ていた。
 悠一は腕を伸ばして、学習椅子の背に掛けていた部屋着のパーカーを取り、それを奏の肩口に、やさしく載せる。

 閉じられた瞼、透明に白い頬に触れる睫毛の――長さ。

 耳朶はまだ、ほんのりと赤い。
 匂いは、それほど「強い」と感じなかった。

 いや「慣れて」しまっただけかもしれないな――
 悠一は、そんなことを思いつく。
 
 いつの間にか「奏が甘い香りをまとっているコト」に。
 ――慣れて。

 そうやって、悠一はただ、奏の幼い寝顔に魅入られる。
 ふと、この閉じた瞼の内側に秘められている鋭いまなざしが脳裏に蘇った。

 奏がキャンバスを見据える、視線。
 悠一の絵を描く奏を、廊下から見つめたときのコト。
 ドアを開けられなかった。声を掛けられなかった。

 「神聖」――なんていうと、たぶん大げさすぎるのかもしれない。けれど。

 あの時の張り詰めた空気を、乱すなんてできなかった。怖くなるくらいの集中力。

 それを思い返しながら、自分も知らず息を詰めていたことに気づいて、悠一は、深く深く溜息をついて息を吸う。
 
 それから天井を仰いでゆっくりと瞼を閉じれば、走る自分、その身体の感覚が蘇ってくる。

 川べりの道を、連なる山々に向かって。
 
 ――足音が、重なった。

 藤堂尊の足音が。
 軽やかで確かで、微塵もペースが乱れることがないような、そんな――

 学校登山の愚痴めいた思い出話。
 端正すぎる横顔。睫毛。そして――
 
 そこで、悠一はハッと目を開ける。
 視界に、砂地の天井と蛍光灯。
 そしてすぐに、隣で眠る奏を見下ろした。

 息遣いが、少し荒くなっている。
 肩が軽く上下し、耳朶からうなじにかけてが、紅に染まっていた。

「……なで、かなで…っ」

 眉根をこわばらせて、悠一が奏を呼ぶ。
 うっすらと、奏の瞼が開いた。

「…へい、き、だいじょう、ぶ…だから、ゆういち」

 言いながら奏が両手で顔を覆う。

 苦しげ……というよりは、喘ぐような呼吸。

 そして悠一は気づく。
 奏の制服の下腹部が、張りを見せていることに。

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