マージナル:平凡なβが、すべての運命を壊すまで

水城

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39.building a mystery(1)

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 「ああ、春日だ」と――
 すぐに分かる。廊下の先、周囲より頭一つ抜けた長身の男の後姿。

 尊は視野の端に、その姿を入れる。
 ギリギリの際、マージナル。

 ゆっくりと、悠一の方へと歩いていく。

 すれ違う――

 刹那、尊の鋭い嗅覚が感じ取った。

 あまい。
 あまい、甘いあまい――爛れた匂い。

 ザワリと、背筋があわだった。
 揺らめく炎のような、そんな何かが頭の中で――耳の奥で。
 脈打つ血管の音が、ギュウギュウと大きくなっていく。



 *



 放課後、尊は、階段のおどり場から校舎裏を見やった。

 走る姿。
 カサカサに冬枯れた古いグラウンドを、まっすぐに。

 確かなストライドで。風を切って。
 走る男の姿。
 
 ダッシュタイムを数本測り終えた後、トラックジャケットを羽織って、ナイロンパンツを着込み、悠一がいくつかの大きな筋肉にストレッチをかける。

 尊が階段を降り始めた。
 一階のピロティに着く。その足は「2グラ」へと向いた。

 風が渡る。
 斜めに差し込む冬の午後の光。ハレーションを起こす視界の中に――

 春日悠一。

 尊を見て、悠一が挨拶めいて軽く頷く。
 
「なんだよ、藤堂。最近は走りに来なかったな。トレーニングなんぞ簡単すぎて、もう飽きちまったか?」

 目一杯に皮肉めかせて、悠一が言った。

「『お邪魔』かと思って」
 シレッと尊が応じる。

「よく言うぜ」と、悠一が吐き捨てた。だが、その声に棘はない。
 そして、少しだけためらってから、

「大丈夫なのか、その…体調とか」と、悠一が続けた。

 尊がごく尊大に顎先を上げる。
 その小さな仕草だけで、投げられた「質問」への「不快さ」が言い表された。

 そんな「スーパーアルファ」らしい傲慢な態度に、悠一は唖然としたものの、不思議と腹立ちは感じなかった。

 まあ、「愉快な態度」ではないさ。
 けど、それもまた、ごく藤堂らしいよな、と。
 そう感じただけだった。

 悠一は、わずかに両肩をすくめてみせると、バッグを手にして歩き出す。

 ちょうど尊の真横を歩み過ぎようとした時だ。
 ひどくこれ見よがしに、尊がスンと匂いを嗅いだ。
 そして、

「ベットリ匂ってるぞ」と低く低く呟く。

 足を止め、軽く振り返りながら、悠一が目を見開いた。
 尊が続ける。

「結局は『デキた』ってコトか。あの一組のオメガと」

 悠一が凍りつく。
 そして、

「まったく、口ほどにもないな」と。
 追い打ちをかけるような尊の言葉。

「違う……」

「なにが『違う』?」

 嘲笑とともに尊が問い直した。
 悠一は答えない。

「『コイビトではない』とでも? ああ、そうか。発情オメガのテイのいい『性欲処理役』か? それともお前が、見さかいなく襲いかかって……」

「いい加減にしろ!」

 悠一が鋭く言い放つ。
 その両肩に憤怒のオーラを揺らめかせて。

「藤堂、オマエ、なんだってそう、いちいち俺にウザ絡みしてくんだよ。関係ねぇだろ。俺が誰と何しようが。それともなにか? 奏に目をつけてたとでも? それで俺に腹を立ててるのかよ!」

 ――ああ、「なんで」なんだろうな。

 たかが「ベータ」の男に怒鳴られて、尊はただ、ゆっくりとまばたく。

 腹を立てている? 憤怒?
 いや、どこのオメガが誰とどう「デキようが」、別にオレの知ったことではない。そんなコトなど「どうだっていい」。

 だったら、この腹の奥に渦巻くような得体のしれない感情は。
 どういう「言葉」で定義される――?

 ああ、たしかに、オレはイラついている。
 だが、何に対してだ?
 
「俺と奏がどうだろうが……そんなコトはオマエなんかに関係ねぇんだよ」

 ムッと押し殺した声で告げ、悠一が尊の手を振り払った。
 ほかでもない、その切り捨てるような口調にこそ、尊の感情が一気に逆なでされる。
 後ろから、悠一の肩を強く掴んで引き寄せた。

「オイ、痛ぇぞ、ふざけんな、藤堂!!」

 悠一が怒鳴る。本気の声で。
 だが、尊の指は緩まない。
 猛烈な力で、悠一を引きずるようにして歩いていく。

 2グラの古い備品が押し込められた小部屋。

 たてつけが悪く、誰もが開けることを諦めていたその戸を、尊が片手で引き開けた。
 そして、勢いよく放るようにして、悠一を室内に押し入れる。
 よろめいた悠一が、背の高い棚に思い切り背中をぶつけた。

「っ…って、痛ぇって、マジ、オマエ、ムカつくな」

 悠一の声が、狭い室内に響く。
 尊が引き戸を閉めた。
 窓のほとんどがガラクタで覆われた部屋が、濃い闇に沈む。

「……藤堂?!」

 返事はない。悠一は、闇に蠢く気配に目を凝らす。
 その瞬間、ガシリと襟首を掴まれた。

 続けて、両方の上腕が猛烈な力で捉えられる。
 振りほどこうともがけばもがくほど、絡め取られるように身体ごと尊に拘束されて。 
 後ろから足を掛けられ、悠一は仰向けに床へと倒れた。

 両膝の間に、割り入ってくる尊の脚。
 ドキリと怯んだ瞬間に、悠一の両手首は、やすやすと尊の右手で拘束された。

「クソっ…なんだよ、この馬鹿力」

 悠一がひたすらに悪態をつく。
 尊は、ひと言も発さぬまま、悠一のトラックパンツのゴムに手を掛けた。

「ちょっ……藤堂! なにす…」
 
 逃れようと脚をバタつかせれば、それを逆手に取るかのように、尊は悠一の腰から服と下着をはぎ取っていく。

 あまりにも「手慣れた」拘束だった。
 上背も体格も、さほど変わらないはずの同学年の男のふるまいに。
 悠一はゾッと胃の底を冷たくさせられる。

 ――前に、温泉まで一緒に走った。
 あの時の映像が、悠一の脳裏にふと蘇る。

 秋風の中のジョグ。
 川べりで、山々を見ながらごく他愛ない話をした。

 あの時は――
 「お高くとまってる」とばかり思っていた、「別世界」の人間だと思っていた「藤堂」のアルファも、意外と「普通」に話せたりするんだなと。
 意外といいヤツなんじゃないかと。
 一瞬だけ、そんなことも思った。

 でも――

 違うじゃねぇか。全然。
 「普通」でもなけりゃ「いいヤツ」でもない。こんな――こんな。

 首筋に熱い何かが落ちてきた。
 「舐められた」のだと、すぐに気づく。
 グワリと、悠一の頬が熱くなった。

 あの日。
 風呂で、俺は勃起してた。
「十代の男なら『さかって』当たり前だろ」と、藤堂は鼻で嗤った。

 あの時俺は――
 一体「何に」反応してたんだ。

 尊が鼻先で、悠一の首筋をなぞる。
 腰骨、そして脇腹。中指と人差し指と薬指が、さあっと悠一の鼠径部から腹筋をなぞりあげ、胸元をまさぐり始めた。

 悠一の脚の間はさらに割り開かされて、尊は、折り曲げた膝をグッと押し上げてくる。

 ねじ込まれるような、擦り上げるような。
 物理的な刺激に、悠一の「部分」は、自動的に身勝手に快楽を拾い始めて――

「やめ、やめ……ろ、ふざけんな、藤堂、やめろ!」

 ビクリと、悠一にのしかかっている身体が痙攣する。

 初めて――
 尊が悠一の言葉に反応を見せた。

 すこしずつ、闇に慣れてきた目が、悠一に尊の表情を、うっすらとだが認識させる。それは――

 尊の顔は――
 ひどく必死に見えた。追い詰められたように。
 どこか、なぜか。
 怯えているようにすらみえるほどに。

 気づけば、悠一は前腕を伸ばし、尊の端正すぎる顎を掴んで引き寄せ。
 ――そのくちびるに、くちづけていた。

 尊に与えられた、予期せぬ驚愕。

 そのまま、ふたりはキスを続ける。
 幾度か息を継いで、さらに深く、口腔を舐めとって舌を絡め合って。

 くちびるを離してからも、ふたりの荒い息遣いは止まらずに、狭く暗い物置の床に沈殿していく。

 すると尊が、悠一のうなじに歯を立てた。

 ――激痛。焼けるような。

「いたっ……やめ……ろ、とうどう、ヤメロ!!」
  
 もがき叫ぶ悠一の声など、まるで耳に入っていないのか、尊は必死に悠一のうなじを噛み続ける。

 ――なんの「あかし」にもならない。
 
 アルファの「噛み痕」など、ベータには何の意味もない。
 そんなコトは分かっている。なのに。

 なんでだ。
 誰の首にも、オメガだろうが、ベータだろうが。
 男だろうが女だろうが。
 噛み痕をつけたいなどと思ったことはなかった。一度もなかった。
 なのに。なぜ、オレは―― 

 渾身の力で悠一を拘束したまま、尊は、自分が付けた歯形から染み出す血液を、そっとそっと舌で舐め取り、くちびるで吸う。

 悠一の手首でスマートウォッチがバイブした。
 闇と静寂の中、突然に響き渡った振動音は、尊の正気を呼び覚ますに十分な衝撃だった。

 押さえ込む力が、ふと緩んだ隙を捉え、悠一がすかさず、尊を突き飛ばす。
 
 それは、母親からの通話の着信を知らせる音だった。
 悠一はすぐに小さな液晶をタップして、

「……母さん、なに?」と、精一杯の平静を装った声で応じて見せた。

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