鏡の星のベースボール/長編SF

山田みぃ太郎

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地球最後のマウンド
 2002年9月23の秋分の日。
 サッカーワールドカップの影響で、すっかり影の薄くなっていた当時のプロ野球であったが、まあそれはそれでよい。
 ともあれ、その年のシーズンも終盤のこと。その夜、東京のとある野球場で行なわれていたのは優勝争いの「東京ジャガーズ」対「裏表ワイルドキャッツ」の最終カード。
 ちなみに「ワイルドキャット」とは山猫だ!
 で、今シーズンの優勝はこの二チームに絞られていたのだった。しかしどちらのチームも優勝を目前にして、よりによって投手陣が崩壊するという、厳しい状況にあった。
 そういう事情で試合は九回表、ワイルドキャッツの攻撃で、得点は14対11という、乱打戦…、というか「泥仕合」で、ジャガーズが3点リードしていた。
 そしてワンアウト満塁。ジャガーズにとっては、もちろんピンチの場面だ。
 ここでこの試合の九番手として、それまで投げていたよれよれの左ピッチャーに代わり、ジャガーズのマウンドに送られたのが、あの宇宙船の搭乗者となる運命を持つ男。
赤木大介。28歳だ。

 そのときの彼は、プロ野球の一軍の「いちばんすみっこ」に、かろうじて引っかかっているような、右ピッチャーだった。
 高卒後ドラフト五位で某球団に入団。しばらくは速球派投手として、ある程度の実績を挙げた。しかし数年後、肩の故障で二つのシーズンを棒に振った。
 それから必死にはい上がりはしたものの、もはや自慢の球速は蘇らなかった。それでも技巧派投手としてかろうじて生き延び、球団を渡り歩いた。今シーズンはテスト入団で、ジャガーズの一員となっていたが、二軍の試合で投げることの方が多かった。しかしここへ来て、ジャガーズの、例の「御家の事情」もあり、彼も一軍からお声が掛かったのだ。

 久々の一軍マウンドだった。しかし、かつての球威のない赤木は、なかなか自信を取り戻せないでいた。しかも相手はワイルドキャッツの四番、強打者の清山だ!
(三点リードのワンアウト満塁かぁ。一発が出たら終わりだな…)
 赤木は思っていた。肩関節周囲炎がやっと治った彼にとっては、いかにも荷が重い場面だったのだ。
「清山が右バッターだから右のお前を出すんだな。頭の単純なあの監督らしいぜ。しかし右バッターのときの方がお前、力むんだよな。それともこの試合、監督はお前と心中するつもりかいな。まあ万が一ここをお前が押さえりゃ、来年もジャガーズで雇ってもらえるかも知れないぜ。さもなけりゃお前、居場所がなくなるぞ。へらへらへら…」
 赤木に歩み寄り、薄笑いを浮かべながら、しかもいやぁな雰囲気でこう耳打ちしたのは、ピッチングコーチの歯江鳥ハエトリだった。

 歯江鳥は赤木よりも五歳年上だった。そして赤木にとっては最も気に入らない人間の一人だった。そもそもこれから投げる投手に、普通こんなこと言うか?
 ともあれ歯江鳥は、その人間性はともかく、実は投手としての才能は人並みはずれていた。
 彼は現役時代、練習嫌いで有名だった。特に走り込みなんか、死ぬほどいやだったらしい。だが、その才能だけでも十分食っていけるような、とんでもない投手だったのだ。
 サウスポーの歯江鳥は、現役時代そのしなやかなフォームから回転のいい150キロの速球と、鋭く縦に割れるカーブを武器に、というか、たったその二種類の球種でばっちり通用するようなピッチャーだった。
 ところがそんな彼は入団8年目で「イメージ通りの球が投げられなくなった」といって、通算100勝を挙げたところで華麗に、かつ、あっさりと現役を引退してしまった。
 そしてその後は解説者を経てコーチになっていたのだ。
 彼は上のものには腰が低く、下のものにはいつも威張りかえっていた。つまり世渡りが上手く、首脳陣には評判が良かったのだ。
 それにひきかえ、この物語の主人公である赤木はといえば…

 彼の経歴は歯江鳥とは全く異なっていた。
 彼は速球派投手としてキャリアを始めたものの、肩の故障の後は、苦労してリハビリを続けた。ようやく投げられるようにはなったものの、球速は落ち、そこから復活する為に、いつも練習ばかりしていた。走り込みなんか人の三倍はやっていた。
 また、試合では手を替え品を替え、いろんな球種を操り、丹念にコーナーをついていた。
 そうすることで、かろうじて投手として生き延びていだったのだ。
 どうして彼はそこまでするのか。それはひたすら彼が野球、とりわけ「投げる」ことが、好きで好きで仕方がなかったからなのだ。
 一方、歯江鳥はそんな赤木のことを「素質も無いくせに、練習ばかりしやがって」と、内心バカにしていた。まあ、世の中には気の合わない奴というのは必ずいるものだ。赤木と歯江島もその一例だろう。彼らは野球観、いや人生観そのものが根底からパーフェクトに異なっていたに違いない。

(歯江鳥の奴、嫌なこと言いやがる。右バッターの方が力む? 当たってるけどな。だけどよりによって、ここでプレッシャーを掛けなくてもいいだろう…)
 そう思いながら、赤木はマウンドで投球練習を始めた。
 規定の投球数を投げ終えると、いよいよ四番の清山は右打席に仁王立ちした。
 球界を代表するホームランバッターだ。

 プレーが再開した。
 初球、外角に外れる小さなカーブ。さすがにボール球には手を出さない。次は内角低めに落ちる緩いカーブで見送りのストライク。この辺は「技巧派投手赤木」ならではだ。
 三球目は、つり球の胸元への130キロのまっすぐ。これをファウルにし、カウントはワンボールツーストライクとなった。
(昔なら今の、142,3出ていたけどな…)
 そう思いながら赤木が投げた四球目は、外角に外れるスライダー。
「ひっかけてくれればもうけもの」の球だった。無論、清山はわけなくこれを見送った。
 ここまでは赤木が描いたシナリオどおりだった。最後は内角勝負と思わせるための布石だったのだ。
 そしてもちろん勝負球は、その裏をかいて彼得意の「外角低めのまっすぐ」だ!

 ところで、赤木について言い忘れたことがある。
 彼はどちらかというと「ここ一番」に弱いのである。
 また彼は小さい頃から、いじめられるとすぐに泣くようなところがあった。
 むろんプロ野球選手になるほどの体である。腕力でかなうものなどいなかった。
 だが彼は「言葉のいじめ」には弱いのである。
 たとえば歯江島コーチがつい今し方、赤木に言ったような…

 ともあれ赤木は、キャッチャーのミットに集中し、渾身の力を込めて勝負球の外角低めのまっすぐを投げ込もうと、モーションを起こした。
 彼のイメージの中では、一三ニキロの快速球が外角低めいっぱいに決まっていた。
 しかし不幸な事にその彼のイメージの中に、歯江鳥の言葉が割り込んできた。
 あの「いじめの言葉」が、土足でどかどかと彼の頭の中に上がり込んだのだ。
 それから歯江鳥のイメージが赤木の頭の中でどんどん膨らんでいき、その言葉は彼の心を支配してしまった。
(お前、右バッターで力む。力む。力む。監督はおまえと心中。心中。心中…)
 しかし彼は心の中でかぶりを振った。何とか自分を立て直そうとした。
(だめだだめだ! 何とかここを押さえなければ。押さえなければ俺の居場所が…)
 だけど彼の頭はカオスになっていた。そしてそのカオスは、投球動作中の彼の右手が、彼の右耳の横を通過するあたりで最大になっていた。そして彼は、ボールを解き放つまでの、その短い時間に、よせばいいのに、こんな事を考え始めていたのだ。
(ここで打たれたらどうしよう)
(歯江島は監督に何と言うだろう)
(戦力外通告)
(野球界に居場所がなくなる。どうやって暮らしていこう…)

 こんなこと考えずに投げればいいものを。そもそも、赤木ほどまじめで体力もある人間なら、なんとか食っていけるじゃないか。だけど赤木はそうは考えなかったんだな。
 とにかく彼は、その「いらんこと」を考えながら、その「いらんこと」を全身にまといながら投げてしまったのだ。よりによってその「ここ一番」で…
 だから彼は思い切り「力んで」投げた。
 案の定シュート回転の力のない一二四キロの「まっすぐ」は、どんどん甘いコースへと吸い込まれていった。
(やっちゃった…)
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