鏡の星のベースボール/長編SF

山田みぃ太郎

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球場を出た赤木は、とても重苦しい気分を抱え「シングルムーン」という一風変わった名前の(月はひとつに決まってるじゃん!)行きつけの飲み屋を訪れていた。
 いつものドアを開けると「いらっしゃいませ」という代わりに、一匹の山猫がミャーと挨拶した。ちょうどおしっこを済ませたところだったようだ。
 赤木はいつものように山猫のトイレにつまずいて転ばないよう注意しながら中へ入った。
 店で山猫を飼うのは、この店のママの趣味だった。裏表山猫という、とても珍しい種類の山猫だった。裏表ワイルドキャットともいう。
 店の中には山猫のほかに、数人の山猫の格好をした人間もいた。
 赤木はいつものカウンターにつくと、いつもの水割りを注文した。
 カラオケをやらない静かな店だった。ときどき山猫がゴロゴロいいながら足にすりすりしてくるが、それ以外はとても静かな場所だった。
 もうひとつ。初めて店を訪れる一見さんが、店の入り口のところにある山猫のトイレにつまずいて、大声を上げながら盛大に転ぶ以外は…
 ああ、もうひとつ。ときどき大阪から遠征してくる裏表ワイルドキャッツの応援団が、球場からの帰りに山猫の格好をしたまま集団でこの店を訪れ、応援歌の「かつおぶし」を大声で歌いながら、派手に騒ぐ以外は…
 ちなみに大阪出身のこの店のママは、ワイルドキャッツのファンだったのだ。

 まあいずれにしても打ち込まれた夜に行くには持って来いの、静かで安らいだ雰囲気が、その店にはあったのだ。(本当だってば!)
 それでまあいずれにしても、そういう訳で、赤木はいつも席でいつもの水割りを飲んでいた。
 表面上彼は「安らいだ雰囲気」を醸し出しだしていた。
 だがこの夜、彼の心は最悪だった。
 彼はよせばいいのに「今日の出来事!」で頭を満タンにしていたからだ。
 彼は思いきり憂鬱な気分に浸っていた。

(…試合をぶち壊しやがって。仮にも優勝出来なかったら、一生おまえを恨むからな!)
 それは試合の後、歯江鳥コーチが彼に浴びせた理不尽窮まりない、かつ、鋭い刺のある言葉だった。
(…優勝を目前に投手陣を潰したのは、どこのどいつだ?)
 赤木は心の中で歯江鳥に反論していた。
 しかし「試合をぶち壊した」のはまぎれもなく赤木自身だった。
 だから歯江鳥のこの言葉は、赤木の心にぐさりぐさりと突き刺さっていた。
 突き剌さったといえば、あの強打者の清山が赤木から打った打球も、レフトスタンドの上にあるキャットフードの看板に、見事に突き刺さっていた。

「気分転換にテレビでも見たら?」
 そう言って、カウンター横のテレビのスイッチを入れたのは、この店の看板娘の尚美だった。
 尚美は赤木とは高校時代の同級生だ。彼女は赤木の顔を見るなり、
(今夜は打ち込まれたな…)と感づいていたのだった。
 ところが運悪く、ちょうどそのときテレビでやっていたのは、今日の出来事のスポーツニュースで、ご丁寧にもワイルドキャッツ清山選手が赤木から打った今シーズン第五十六号の逆転満塁ホームランを盛大にリプレーしていたのだ。
 清山選手にはキャットフードの看板に当てた懸賞として、10キロ入りキャットフード56袋が進呈されるらしかった。
 カツオ味、まぐろ味、チキン味、いりこ味、懐石風味、その他いろいろ♪
(清山談…うちに猫は一匹もおらへん。こんなん、どないせえちゅうねん!)
 しかもテレビでは解説者が追い打ちをかけるように、こんなことを言っていたのだ。
「しかしまあ赤木投手もよりによって肝心なところで、えらいごっつい絶好球を投げはったものですなぁ、わっはっは」
 そういう訳で、尚美はあわててテレビを消すと、赤木の神経を逆なでしないようにと、気を使ってこんなことを言った。
「また今度の試合でがんばればいいじゃない。プロは一度負けても、また次があるって、言ってたでしょ…」
 幸い尚美の声は赤木の耳には入らなかった。ちょうどその頃、二人の一見の客がドアの所で、盛大に転んでいたからだ。また彼は彼で、今夜のことについて、同じことを何度も何度も何度も、いじいじと考えながら自分の世界に籠もっていたからだ。
 いずれにしても、尚美の言葉は彼の耳には入らなかった。
 それがどうして幸いかって? 
 だって彼にとってその「また今度の試合」は、もう無いのかも知れないのですぞ!

 まあいずれにしても彼は、とにかく! そっとしてほしい気分だったのだ!
 だから彼は、自分が比較的人気のないチームの選手であることを、むしろ幸運に思っていた。  
 もしこれが某新聞社の某人気チームだったら、こんな風に一人静かに、憂鬱な気分に浸っていられただろうか?
 実際、店の客たちのほとんどは、ここにいるのが今夜清山選手に逆転満塁ホームランを献上した、ジャガーズの赤木投手であることに気付いていなかった。
 いやいや、必ずしもそうではなかった。一人の山猫の格好をした男だった。
「おや、そこにおるのは、ジャガーズの赤木はんとちゃいますか? いやあ今夜はうちの清山君にごっつ美味しいボール投げてもろて、ほんま感謝してまっせぇ。赤木の山も今宵限り…なんちゃって。さあもう一回、『かつおぶし』歌いまひょか…」

 目を閉じることはできる。しかし耳を閉じることはできない筈だ。でもこの夜、赤木にはそれが出来た。これはもしかすると、神の思し召しだったのかも知れない…
 そのときだ。やや小柄な男が赤木の肩に手を乗せ、もう一方の手でこけたときに自分のズボンに付いた山猫のトイレの砂を払い落としながら、優しく赤木に声を掛けたのだ。

「ジャガーズの赤木さんですね」

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