九龍懐古

区区之心

兄弟喧嘩と鶏蛋仔

区区之心１





「あ、樹イツキ！」

戸を開けて樹イツキが【東風】に入るとすぐ、大地ダイチが駆け寄ってきてＴシャツの裾を引いた。

「上カムラがうるさいの！樹イツキからも何か言って！」
「樹イツキがなに言ゆうても駄目なもんは駄目やで。危ないもんは危ないねん」

後ろで険しい顔をした上カムラが首を横に振る。
話を聞けば、上カムラの仕事について行きたいんだと騒ぐ大地ダイチと、絶対についてこさせたくはない上カムラで揉めているらしい。
よく目にする光景だった。


上カムラと大地ダイチはスラムからはいくらか離れた治安の安定している区画に住む兄弟で、猫マオと燈瑩トウエイの顔馴染み。

燈瑩トウエイが【東風】にちょくちょく訪れるようになったのでこの２人も頻繁に遊びに来るようになり、何だかんだで猫マオも顔を出したりして、月日が流れ今や【東風】は皆の溜まり場と化していた。

だいたいいつもこのメンツ、変わり映えはしないが気の合う６人。たわいもない会話をしたり、お茶を飲んだり菓子を食べたり、賭け事をしたりして日々過ごしている。

兄の上カムラは九龍内で情報屋をやっており、猫マオや燈瑩トウエイの仕事を手伝う事もある。若いがしっかり者で、中肉中背──というには太り気味だが──まぁそれなりの体格。
一方で弟の大地ダイチは身体が小柄なせいもあり年齢より幼く見え、外見からすると子供と言っても差し支えはない。

この九龍という無法地帯では毎日何十件もの犯罪が起こり、巻き込まれる危険性が高いのはやはり若い女性と小さな子供。大地ダイチを悪戯にウロチョロさせるのは心配というのは理解できる。
両親を早くに亡くした為に親代わりになって大地ダイチを育ててきた上カムラは、大地ダイチに対して少し…いや、かなり過保護なのだ。


「燈瑩トウエイ居ないの？」

樹イツキが店内を見回すと、カウンターの中で新聞を読みながら煙草を吸う東アズマが、仕事行ってると答えた。

大地ダイチをなだめるのは燈瑩トウエイの役目。大地ダイチは燈瑩トウエイを哥ゴーと呼び慕したっている。
ちなみに哥ゴーとは兄のことだが、本物の兄である上カムラのことは上カムラと呼び捨てだ。

「だいたい上カムラ、今日は哥ゴーのところに行くんでしょ？だったらいいじゃん！」
「仕事やから駄目。場所も危ない言ゆうとるやろ」

大地ダイチが騒ぎ、上カムラが諭さとす。お互い譲らない。
樹イツキは大地ダイチの頭を撫でた。

「大地ダイチ…上カムラの事は諦めて、光明街に雞蛋仔エッグワッフルでも食べに行こう。奢おごるから」
「え、あの新しいお店の？」
「うん。あそこなら安全だしいいでしょ、上カムラ」

上カムラがため息をつく。

「せやな。迷惑かけてもうてごめんな、樹イツキ。大地ダイチ、暗くなる前に帰るんやで」
「うるさいバカムラ！行こ、樹イツキ！」

バカムラにショックを受ける上カムラを尻目に、樹イツキの手を引いて出ていこうとする大地ダイチがはたと立ち止まる。

「でも、奢おごってもらっちゃっていいの？」
「さっき猫マオから預かったお金持って行くからいいよ。いっぱい食べれる。珍珠タピオカも買おう」

樹イツキが答えた途端に、我関せずといった態度をとっていた東アズマが慌てて新聞から顔を上げ叫んだ。

「樹イツキ！！それ俺のお金だよね！？俺が猫マオに漢方売ったお金だよね！？まって、持って行かないで！！」

その声を意に介かいさず、樹イツキは素知らぬ顔で大地ダイチを連れ後ろ手で【東風】のドアを閉めた。