好きになった歳上オーナーはどうやら訳アリっぽい

りちょ

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10話 虚しさを埋めるため

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それから、菖の毎日は目まぐるしく過ぎていった。

少しずつ世間は冬の足音が聞こえ始め、年の瀬を思わせる時期に入る。この頃はどこも客の入りは多く、居酒屋もシーシャバーも、ノクターンも混み合うことが増えていた。
特にノクターンでのバイト終わり、菖はたまごサンドにオムライス、簡単なスープにナポリタン、思いついたレシピや改良レシピ研究に夢中になっていた。いつも気がついたら時間は経っていて、終電間際に慌ててカフェを出る日も多くなっていった。
宗一郎はいつも菖に黙って付き合っていた。彼は店内の席で本を読んでいたり、帳簿をつけていたり、何かパソコンを開いて作業をしていたり。時折気が向いたように新しいブレンドを試す事もあったが、殆どは関係のない作業をしていた。
菖は店内の鍵を閉めた後、宗一郎がどこに帰るのかは知らない。ただ、いつも奥に停められた車があるのは知っていた。多分この辺りに住んでいるから、いくらでも付き合ってくれるのだろう。菖は感謝しつつも、少し申し訳なさも感じていた。

一輝との生活も、相変わらずだった。
家事の分担は今まで通り。休みが合えば映画に行ったり買い物をしたり、いつも通り過ごす。ただほんの少し身体を重ねる回数が増えただけ。
最近は菖から誘う事も増えた。一輝は余程のことがない限り菖に応える。それはほんの少しだけ、菖の自尊心を満たしていた。


ある日の夜。
菖はノクターンでの試作を終えると、ふらふらと帰宅してすぐにソファに横になってしまった。他のアルバイトを合わせると6連勤目だった。それなのに営業後の研究でナポリタンの具材のアレンジが予想外に上手くいってしまい、早く帰るつもりが後少し、後少しで気がつけば終電だったのだ。ただ、珍しく試食した宗一郎が手放しに誉めてくれたのも今日の出来事だった。菖は誇らしい気持ちに包まれて、うっかりそのまま眠ってしまったのだった。

はっと目を覚ますと、時計の針は12時を過ぎていた。夕飯の支度を何もしていなかった菖は、慌てて飛び起きて辺りを見渡す。自分にはブランケットがかけられていて、腹のそばで一輝がソファに寄りかかって台本を読んでいた。

「あ、起きた?お疲れ」

「お疲れ………ごめん、一輝いつ帰ってた?飯作るから」

「いいよ、今日もうカップ麺にしようぜ。ストックあったよな」

一輝は何でもないようにそう言う。もう休め、とでも言いたげな背中に、菖は頼もしさを感じると同時に、自分を情けなく思った。一輝があまり家事を滞らせることが無い分、菖は余計に申し訳無かった。
一輝は一度顔を上げると、菖の方を見る。そして菖の表情を見て笑うと、ガシガシと乱暴に頭を撫でた。
菖は慌ててその手を掴んでやめさせる。文句を言いつつ乱れた髪を整えていると、一輝が突然菖のうなじに手を伸ばして、そっと押さえつけるように力を入れた。

え、と菖は小さく口に出す。驚いて身体が動かなかった。ゆっくり顔を近づける一輝の、パッチリとした二重瞼と長いまつ毛が見えて、またすぐに暗くなって、そっと唇に何かが触れる。
キスをされたと気がつくのに、少しだけ時間がかかった。

「な、んだよ。………急に」

菖はつい、声が震える。一輝が自分にキスをした。その事実が、菖の中に重く転がる。
今まで、身体を重ねるついでのようにキスをしたことはあった。だけどこんな風な、なんでもないキスは初めてだった。

「別に……なんでもないけど」

一輝は目を逸らしてそう言った。ぶっきらぼうな言い方だった。
テレビすらついていないリビングに、時計の秒針だけが響いている。菖が買った安物の時計の、単調で無機質な音とリズム。ずっと続いていた聞き慣れたもの。今それが、脆く壊れそうにヒビが入る。

「……一輝って、俺と付き合いたいの?」

菖はそう、ただ一輝に聞いた。
一輝が笑って馬鹿にして、冗談にできる余白を残したトーンだった。深刻になり過ぎないよう、この関係が壊れることが無いよう、慎重に笑う。だけどちゃんと一輝が、逃げないで答えるくらいの気迫は残して。

一輝は黙り込む。表情はなかなか読めない。じっと空中の一点を見つめて、一気は何かを考えるようにじっと黙った。菖は無意識に息を呑む。
だが次の瞬間、一輝はふっと息を吐いて笑った。

「まさか。……菖は、親友だよ」

それは、菖が予想したまんまの答えだった。
ああ、これだ。よかった、と菖は思う。菖の思う、真嶋一輝の答えだった。高校在学中に突然、役者になるなんて言い出した男。思いついた途端に小さな劇団を受けたと思えば、大学進学を計画してたのに突然専門学校に切り替えてしまった男。成績が良かった分散々先生に親に止められて、それでも折れずに夢に突き進んだ男。
菖は一度観た、一輝が主役に抜粋された舞台を思い出した。ギラギラしていてカッコよかった一輝。"一つの輝き"なんて名前が信じられないくらいしっくり来る、眩しいほどの親友の姿。
菖が信じて、好いている、親友としての一輝の模範的な回答だった。

菖は笑ってしまう。気が済むまで笑ってから、「そうだよな」と諦めたように呟く。

親友として好ましいと思ったはずの一輝の言葉は、菖の何かを傷つけていた。深く、奥深くまで冷たい刃が届くように、何かを傷つけていた。
安心と絶望をいっしょくたに抱いて、菖は笑うことしかできなかった。笑っていないといけなかった。

菖は、可哀想な男にはなりたくなかったのだった。


---


むしゃくしゃしている時、菖にとってシーシャバーのバイトはちょうど良かった。
わざと暇そうに歩いていれば、客の誰かに声をかけられる。そうしたら後はとことん勝負に勝つだけ。ゲームで勝つと言うのは単純な優越感を得られて、菖はいくらか気が晴れた。

「お兄さん、俺の相手してよ」

菖が得意とするオセロで完勝していると、あまり見ない顔の青年に声をかけられる。年は菖と同じくらいだろうか。二つ返事で勝負を受けて年季の入ったソファに腰を下ろす。面と向かって見てみると、小柄で可愛らしい青年といった印象だった。年は少し下にも見える。青年はグラスに口をつけると、にこにこと笑う。

「先攻か後攻か選んでいいですよ。負けたらドリンク奢ってくださいね」

「いいよ、何でも奢ります。1番高いのでいいですよ」

生意気な口ぶりに、菖は興味をそそられる。思わず顔を上げると、青年はさりげなく顔を近づけてきて、菖の耳元で囁いた。

「俺が勝ったらお兄さん、この後抜けてくれません?」

菖が驚いて青年の目を見る。まどろこっしい言い回しだったが、楽しげに笑う青年に、菖はその意味を理解した。
さっきから向けられていたどこか粘着質な視線に納得がいく。へえ、と菖はつぶやいた。普段なら気持ち悪いと一瞥して終わりだったが、よく見れば整った顔をした青年に真っ直ぐに欲をぶつけられ、菖は確かに自尊心が満たされたのだ。
菖はどこかで、一輝にはぐらかされた虚しさを埋めようとしているだけだと分かっていた。ただ、分かっていてやめられるほど菖は強く無い。そんな強さがあればそもそも、一輝との関係だって続いていないわけで。

「………じゃあ、全力で勝ちに来てくださいよ。俺、手加減とかはしてあげられないんで」

菖はそう小声で答え、後攻を青年に譲る。
それどころか、他の客に舐められない程度にミスを織り交ぜて、勝てる隙さえ与えてしまった。

青年が菖の手加減に気がついていたのかは分からない。それは菖にとってはどうでも良かった。試合は拮抗した状態で終始進行し、最終的に僅かな差で菖は負けた。

「……あと20分で上がるんで、裏で待っててもらえます?」

観戦客が散ってから、菖は青年の耳元でそう囁く。青年は黙ってそれを聞くと、楽しげに頷いた。もともとあと少しで上がる予定だった菖は、オーナーに挨拶をするとさっさと制服を着替えて、バックヤードを出て青年を探す。
冬の空気は乾いていて、ぼやっとひかるビルの群の上に月が見えた。たまたま満月が近いのか、やけに夜道が明るい。コートを羽織った青年に腰を抱かれた時に菖は、今日くらいはもっと暗くあって欲しかったなと心の中で文句を唱えた。


青年との行為は、悪く無かった。
案外体は単純で、快感のツボさえ押さえてもらえれば相手なんか関係ないんだと、菖はシーツの上でぼんやり考えていた。
これが最悪に痛くて気持ち悪くてトラウマになれば良かったのに、と菖は思う。知らない男と寝た経験が手痛い体験になればこんな自傷はもう終えられたのに、中途半端に味わった快感は菖の虚しさをほんの少しだけ埋めてしまった。

青年がシャワーを浴びる音を聞いて、こんなんで埋められるんだ、と菖は思う。一輝はこんな気軽さで俺を抱いたのかもしれないとも、思うことにする。シーツに押さえつけられて傷んだ手首を回しながら、菖はそっと息を吐いた。
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