棘も飲み干すほど

りちょ

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一章

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 その日から俺は、日常生活から間宮さんに言われた仕草を取り入れ始めた。顔を動かす時にさりげなく目線を下げる。誰かに呼ばれた時も同様にほんの少し下を向いてから、ゆっくりと目を合わせる。意識するうちに動作の一つ一つを丁寧に行う意識が芽生えて、普段の姿勢や所作なんかも、ほんの少し気を使うように意識が向くようになっていた。

 その仕草を変えて、最初に反応した健司だった。ふざけて抱きついてきた時にほんの少し間を置いてから見つめ返すと、健司はほんの少し驚いたように身体を硬くしたのだった。純粋な驚きに、確かに俺の仕草に惹かれたような表情が混ざっていた。
「……なに、どうしたんだよ。変な顔して」
 調子に乗った俺はわざとらしく首を傾げて、甘い声でそう囁いた。するとなんでもないとぶっきらぼうに健司は言い放って、俺の頬を摘み上げた。手加減のない摘み方に痛い痛い!と文句を言いつつ、俺はどこか達成感を感じていた。

 そして稽古の日。その日行ったエチュードで恋人役を担った俺は、ほんの少しだけ大袈裟に目線や首の動きをつけた。
 相手役の目線や観客の視線が自分に集中する時の感覚を掴んでからは、それに合わせて少しゆったりとした動きに変えて緩急を作るようにしてみた。慣れないせいでセリフまわしはぎこちないものとなったが、俺は久々に手応えを感じていた。
 誰かに良かったよ、と肩を叩かれて、俺は久々に楽しい、と思えたのだった。


 -----



「あれから……間宮さんのアドバイスがあったからこそ、上手く行ったんです。ありがとうございました」

 次の家事代行の日、いつものやり取りの後に俺は、稽古での話を彼に伝えた。どこか子供のように矢継ぎ早に語ってしまった俺に、間宮さんは満足そうに軽く微笑む。

「僕はほんの少し、コツを教えただけだよ。飲み込みの速さは君の長所なんだろう」

 そう、また俺を褒めると彼は背を向けて書斎に戻ってしまった。
 俺は少し立ち止まって、その背中を見送る。気難しく静かな人で、初めの頃は俺も人を嫌っているのだとばかり思っていた。だが、どうやら彼はそう単純でも無いらしいというのが数ヶ月仕事を通して得た、彼に対する俺なりの評価だった。
 めっきり姿を見せなくなったあの青年の事や、制作に行き詰まった時に時折見せる鋭い目つきや重苦しいオーラなど、間宮さんは基本的にはミステリアスでどこか恐ろしく感じる部分の方が多い。けれども一歳言葉を選ばずに素直に俺を称賛してくれるような、素直さのようなものも持ち合わせている。底の知れない人だと俺は思っていた。


 その日はあまり天候に恵まれない日だった。
 いつ降り出してもおかしく無いような暗い雲が空を覆っていたため、俺は溜まった洗濯物はランドリーに持ち込む事にした。
 間宮さんの家は日が差さないとどこもかしこも薄暗く、いつもと様相が変わって見える。湿気を含んだのか、畳の井草の匂いが部屋中を満たしていた。


 (早く戻らないと、降り出しそうだな……)

 洗濯が終わった衣類を抱えて帰る途中、俺は頭上を覆う雲に足を早めた。すんと息を吸うと、アスファルトが湿気を含んだ独特の香りが鼻腔を満たす。俺が衣類を抱え直したちょうどその時、鼻先に水滴が一つ当たって弾けた。

 (まずい!)

 そう思って慌てて傘を広げたのと、土砂降りの大雨が降り出したのはほとんど同時だった。大粒の雨が傘や地面をパチパチと叩いて、俺の袖や肩口も冷たく濡らしていく。濡れて張り付いていく衣服に、思わずふるりと背が震えた。
 あと数分で家に辿り着く、という場所で目の前が霞むほどの大雨に降られてしまう。とりあえず洗った服が濡れないように丁寧に抱えて、無意味だと思いながらも傘で身を守るように間宮さんの家へと急いだ。



「酷い雨だったじゃないか。大丈夫だったかい」

「ええ……僕はともかく、預かっていた服が濡れてしまったかもしれません」

 ほとんどびしょ濡れになった俺を、間宮さんは玄関まで迎えに来てくれた。雨足が強くなるのに気がついて、わざわざタオルを用意してくれていたらしい。
 気を遣わせた事に申し訳なく思いつつ、俺はありがたくタオルを受け取って髪や肌に纏った水滴を拭う。急いで荷物の中身を確認すると、間宮さんの衣服は無事だった。俺は思わずほっと息をついてしまった。

「よかった……洗濯物は問題なさそうです。僕ももう少ししたら、また仕事に戻りますね」

「ああ……だか君、替えの服は持っているのかい。シャツも何もかも、ずぶ濡れだよ」

 間宮さんは一度、俺のつま先から顔までをゆっくり見渡す。その視線に合わせるように自分の身体に目をやると、グレーのスラックスは雨水を吸った分だけ黒く色が変わっており、制服として着用していたシャツは濡れて素肌を透かし、ベッタリと張り付いてしまっていた。
 あまりにも、だらしがない格好だった。思わず謝ると、彼は呆れたようにふっと笑って、シャワーを浴びてきなさい、と俺に言った。

「服は……僕のでよければ、何か楽な物でも貸そうか。ある程度サイズは合うだろう」

「ああ、いえ、お構いなく。服はもう一枚あるので」

 慌てて首を振って断る。髪が揺れて、襟足から垂れた雫がゆっくり首筋を伝って、鎖骨の方に流れていくのが分かった。間宮さんは一瞬それに目線を向けてから、分かったよ、と一言言ってリビングへと向かっていった。


 熱いシャワーを浴びると、冷え切っていた体が芯から温まる。普段は掃除のためにしか入らなかった広い浴槽は、実際に使うと音がよく響いて何となく落ち着かなかった。
 シャワーを終えて、借りたドライヤーで髪を乾かし替えの服に着替える。
 持ち歩いていたシャツは、いつも着ているものより薄手でほんの少し肌を透かしてしまう。落ち着かなかった。こんな事ならインナーも替えのものを持っておけば良かったと、俺は今更後悔した。

 いつまでも脱衣所にいる訳にもいかず、俺は一度リビングに戻る。1人掛けのソファに座ってニュース番組を見ていた彼は、俺に気がついてゆっくりと振り返る。

「相田くん、いつも帰りは迎えの車を呼んでいるのかい?」

「……いえ、電車で帰っています。どうかいたしましたか?」

「さっきから大雨が続いていて、やむ気配が無いようなんだ。一度電車が動いているのか、確認しなさい」

 思いがけず、彼は俺のことを心配してくれているようだった。どこかでもっと冷たい人間だと思い込んでいた分、予想外の言葉に胸が暖かくなる。

 言われるがままにカバンから私物のスマホを取り出す。路線情報を確認すると、そこには運転中止、の文字が大きく表示されていた。俺は慌てて時刻を確認する。今は18時を過ぎた頃だった。20時を過ぎれば復旧するだろうか、と空模様を確認したが、先ほどより強くなっている雨音を思うとなかなか望みは薄く感じた。

「お気遣い、ありがとうございます。ただ、あいにく電車はもう止まってしまっていて。なので今日はご予約時間が終了した後も、送迎を呼ぶのに少しお時間をいただくかもしれません」

「そうか。帰る手段はあるんだね?」

 そう言われると俺は言葉に詰まってしまう。送迎はオーナーが基本行なっているが、夕方から夜間は基本的に女性スタッフの送迎を行なっている。この雨となると余計、俺に送迎が付く可能性は低かった。
 顔をこわばらせた俺に気がついた間宮さんは、少し悩むような仕草をした後で、俺の目を見て言った。

「僕が送ってやれれば良かったんだが、生憎今ちょうど、車が無くてね。それで………君のところは、スタッフが一泊するプランもあっただろう」

 間宮さんはそういうと、スマホで規約の画面を確認し始める。一泊、という言葉に俺は少し身構えつつも、動揺を隠していつも通りに振る舞う。

「ええ。通常より金額は頂きますが、可能ですよ」

「なら、帰る手段が無いままならそちらに変更するよ。自由に使える客室はあるから、泊まっていきなさい」

「そんな……ありがとう、ございます」



 夕食を作り終えても、雨は一向に止まないままだった。もう一度交通状況を確認すると言って俺は別室でスマホを取り出す。案の定電車は止まっていて、俺はどこか縋るような思いで健司に電話をかけた。程なくして健司は通話に出たが、妙に上擦った声に酒を飲んでいることが分かって肩を落とす。レンタカーでも借りて迎えにきてくれ、と言おうとしたが、それも絶たれてしまった。

 一度息をつく。
 間宮さんは厚意で俺を泊めてくれると言っているのだから、何も身構える必要など無いのだ。ただ、帰る手段を失った気の毒なバイトを家に置いておくだけ。それに、彼がおそらく書斎で抱いていたあの青年は中性的で可愛らしい印象で、背も高く骨っぽい身体つきの自分とは全く違う容姿だった。

 (そうは言ったって、この会社の一泊プランって……"そういうこと"込みの値段、なんだもんなぁ)

 後輩伝手に紹介されて、俺はこの家事代行の仕事を始めた。
 オーナーによると試験的に男性スタッフが欲しいかったとの事で、オーナーと知り合いの俺の後輩が、何度か泊まりに来た時に振る舞った手料理を覚えていたらしく、とんとん拍子で面接から採用まで決まったのだ。
 広告を打たずに紹介性で客を取る富裕層向けの会社だと言うことは、制服を配られてから知った。顧客の要望やニーズには、基本全てに応える、というモットーの本当の意味は、実際に働き始めてから女性スタッフとの会話の中で察した。
 とは言っても、オーナーは俺を手荒く使ったりはしなかった。基本的に新規の客には泊まりのプランを提示しない上に、初めは男性スタッフ希望の女性客につけてくれていた。慣れてからはもっぱらクレーマー気質の客の対処として男の客につけられているが、そういう場合は何かあった時に俺を回収できるよう、送迎後一定時間はオーナーがそばに車を停めてくれていたのだ。

『相田くんは真面目だし、腕も凄くいいから、今回もそれを活かしてくれればいいよ。ただ、求められている仕事があれば、それにはしっかり応えるように』

 初めて間宮さんという指名客がついた時に、オーナーはそう含みを持たせて言った。
 井草のどこか甘い匂いと共に、その言葉が頭をよぎって離れなかった。


 間宮さんの待つリビングに戻る。帰る手段が無くなったことを伝えると、彼は短く返事をして淡々とプランを変えるようにと告げる。俺が変更手続きなど事務的な話を一通り終えると、間宮さんは息をついてから俺に来客用の布団の場所なんかを詳しく伝えてくれた。
 そして、彼に勧められるまま、明日の分も含めて少し多めに作ってあった夕食を2人で取る。健司以外の人とこんなふうに食事をすることなど久々で、俺はどこかぎこちないままで自分の作ったムニエルを口に運んだ。

 片付けを終えると、間宮さんが風呂に向かってしまい俺はリビングに1人になってしまう。まだ眠るには早い時間だが、この時間まで仕事をしたことなんか無かった俺は、どうしてもそわそわと落ち着かない。
 無理矢理仕事を探して、仕方なくほつれていたクッションの縫い直しを行う事にした。
 取れかかったクルミボタンを縫い付けていると、シャワーから上がった間宮さんが部屋にやってくる。まだほんの少し水気を含んだ前髪がぱらぱらと落ちて目元を覆っている。柔らかそうな生地の部屋着は胸元が開いていて、言いようのない色気に俺はどきりとした。

「ふふ、君は真面目なんだね。こんな時間まで仕事などしなくていいだろう」

「……僕は、雇っていただいている身なので。なにかボタンのほつれたシャツがあれば、今直しますよ」

「いや、いいよ。……それより、少し付き合ってくれないか」

 飲めるかい、と言いながら、彼はワインのボトルをテーブルにごとりと置いた。俺が慌てて手を振って遠慮しようとしても、間宮さんはどこか上機嫌でグラスを探し始めてしまう。
 ならせめて、つまみくらいは用意させてくださいと俺は買って出て、彼の代わりにグラスを用意し、冷蔵庫の残りのハムやサラダで、さっと何品か用意した。

「すみません。自宅でワインなんて呑まないので、合うかどうかは分からないのですが」

「有り合わせでここまで用意できて、何を申し訳なさそうにする必要があるんだ」

 そう言いながら間宮さんはワインのコルクを抜くと、ゆっくりと傾けて俺のグラスに酒を注いでくれる。深い赤色をした水面がグラスの中で滑らかに揺れて、ふわりと渋い葡萄の香りが漂う。

「貰い物なんだが、1人じゃなかなか開ける機会も無くてね。今度、これをくれた相手に会うんだよ。それで感想も言えないのは、少し味気ないだろう」

 それが真実なのか、俺の為の方便なのかは分からない。
 外はまだ雨が降っていて、雨粒が中庭の緑を叩く音がリビングを包んでいた。雨の匂いとワインの香りが混ざり合い、どこか重たい香りに変わって部屋に漂う。
 かつんと控えめにグラスを合わせた音と、彼の細められた深い色の瞳に、気がつけば俺は溺れるように飲み込まれてしまった。ほんの少しだけ俺も、彼に興味を抱いてしまっていたのかも、しれない。

「古橋先生の脚本は、僕も好きなんだよ。君がそこの役者だと聞いて、少し興味が湧いてしまったんだ。……そうだな、何かインスピレーションを得るための会話に付き合ってほしいと言えば、君も少しは仕事と思えて、楽にできるかい」

 間宮さんがグラスを傾けるのを見て、俺もゆっくり薄いガラスに口をつける。
 そのワインはほんの少し舐めただけで、芳醇な香りと渋みが舌と鼻に抜けていった。普段劇団員と飲んでいる安酒とはものが違うとすぐに分かった。

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