白狼姫 -前九年合戦記-

香竹薬孝

文字の大きさ
4 / 49

第2章 阿久利川事件 1

しおりを挟む
 
 天喜三(一〇五五)年、文月。陸奥国胆沢郡金ヶ崎。



 胆沢川の畔にて。

 一昨日までしとしと降り続けた梅雨の名残も消え、蒼く済んだ川面には入道雲が映え写り、河原では小さな子供たちが水飛沫と共に歓声を上げている。土手の柳の木に繋がれた栗毛の馬が長閑に草を食む様子と、遠くに望む青々とした山々の背景が美しい。

 季節は既に初夏といえよう。間もなく夏蝉の音が聞こえ始める頃である。

 そんな静かな昼下がりの川淵で釣りに興じる小さな人影が見えた。

「姐さま、釣れまするか?」

 ひょい、と右肩から顔を覗かせた女童が釣り人の手元を覗き込んだ。

 十にも届かぬ年頃の、禿かむろ髪の可愛らしい少女である。

「うーん……」

 返事の代わりに唸って見せるが、あまり色よい反応とは言い難い。

「姐さま、釣れませぬか?」

 ひょい、と今度は左側から顔を覗かせた女童も釣り人の手元を覗き込む。

 右の娘と鏡写しのような双子の女童である。困ったことに着物の柄まで同じ、これでは余程注意しなければ見分けがつかない。

 双子の少女たちに挟まれた釣客の方を見ると、こちらも年若い娘である。既に元服は過ぎているらしく、髪形も成人女性のもの。しかし地べたに直に座り込み、夏衣の裾も露わに立膝に頬杖ついて釣り竿をぶらぶらさせている姿はまだ御転婆の抜けない少女に見える。

「……釣れないねー」

 さしてそれを苦にする様子でもなく、「ふぁ……」と大欠伸をすると水面に浮かぶ浮に目を戻す。流れのない川の溜りでピクリともしない浮の先に真っ黒な羽の河蜻蛉が羽根を休めている。

「さて……何故釣れぬと思う?」

 川面をぼんやり眺めながら何気なく後ろの女童に尋ねてみる。

「竿をこさえたのはすずなでございまする」

 右の少女が左の片割れを指さす。

「針をこさえたのは蘿蔔すずしろ姉さんでございまする」

 今度は左の少女がもう片割れを指し示す。

 お互い顔を見合わせると、不安げに二人の主人と思しき釣り人の少女を見つめる。

「私たちの道具のせいでございましょうか?」

 申し訳なさそうに問う姉妹の様子を可笑しそうに笑う。

「お前たちは手先が器用だものね」

 竿を足の間に挟むと、両脇で眉毛を八の字に寄せる娘の頭を撫でてやりながら語りかける。

酔翁之意不在酒すいおうのいはさけにあらず、っていう流行り文句を知っているかえ?」

「お酒飲みの諺でございましょうか?」

「私たちはまだお酒は飲めませぬ」

「姐さまもまだお酒の飲めぬお歳のはずでございまする」

「この言葉はね、釣りにも通じるのよ?」

 ふふん、と物知り顔に話してみせる娘だったが、

「……即ち、在乎山水之間也さんすいのかんにあるなり、か。この前酔っぱらって管を巻いていた父上からの又聞きではないか」

 背後の土手の上から呆れたような声が聞こえてくる。

 見上げると、見事な黒馬に跨った大男が白い歯を見せながら見下ろしていた。海苔でも張り付けたような太い眉の下で、人懐こそうな大きな目が面白そうに三人を眺めている。着物の前を割ってはみ出た色白の太鼓腹と丸太のような手足、とんでもない貫目の肥満漢を見るに、上に乗られている――というよりも圧し掛かられている馬に思わず同情したくなる。

「やんや目出度や。我が家の末妹は太公望様にお生まれか。日がな毎日釣り三昧ときた。しかしどうも今日は不景気そうじゃのう」

 空の魚籠を傍らに大口開けて欠伸を放っていた妹の様子に苦笑を漏らす。

 ちなみに酔翁之意不在酒とは、酔漢曰く酒に酔うことが目的ではなく酒を飲みながら山水を眺め風流を楽しむのが目的なのだ、というような意味であり、酒飲みが数寄の道なれば釣りもまた然り、というのが娘の言い分のようである。

 なお、このあまりに有名な故事は北宋の文人、欧陽修の詩から生まれた諺であり、当時大陸で刊行されたばかりのベストセラーを諳んじて見せるところは私貿易を介して海外の文物にいち早く通じる彼ら一族ならではと言える。

「兄上、何処に居られたのか。舅殿が来るのに姿が見えぬと父上たちが探しておりましたぞ」

 対する娘も呆れたように口を開く。その傍らでは双子たちが「貞任さま、貞任さま!」と嬉し気に声を上げる。妹の咎めを聞こえなかったことにしたいのか、貞任は女童たちに笑いかけながら声を掛けた。

「どうじゃ、その方らの主殿の釣果は。どうやら今日は振るわぬ様子だが?」

一加いちか様、まだ釣れませぬ!」

「一匹も釣れておりませぬ!」

 元気よく答える娘たちに、流石に女主人も機嫌を損じたか、

「先日の長雨のせいで魚が皆川下に流されてしまったのです。それか、きっとこの川には魚がおらぬのでしょう」

 言い訳がましく弁解する。これではせっかく高尚な詩を蘊蓄交えながら引用したのに台無しである。

 そんな妹の様子を見下ろし、にやにや笑いながら貞任がごっそりと紐で括った大きな鯉の束を掲げて見せた。

「此処より川上で釣りあげたが、どうも今日は渋いのう。大方、長雨で皆この辺りまで流されてきているのではないか」

 唖然として見上げる一加にフンと鼻を鳴らしてみせる。

「まあ、せいぜい粘ることだな!」

 そう言い捨てて馬を行かせる兄の背に一加が呼びかける、

「兄上、父上が早く館に戻るようにと!」

「晩飯まで戻らぬ!」

 俄かに馬足を速める。

「夕餉は為行様も御相伴されると!」

「このまま厨川くりやがわに帰る!」

「ちょっと!」

 逃げるように馬を走らせる姿に溜息を吐く一加の元に少女たちが駆け寄ってくる。

「姐さま、蟹が沢山いましたわ!」

「あそこ、丁度姐さまが竿を垂らしていた真下でございまする!」

 そう言って得意そうに鋏を摘まんでぶら下げて見せるのは大きな藻屑蟹である。きっと長雨でここまで流されてきたのであろう。

 



 奥六郡南部は、豊かな穀倉地帯である。

 一面に広がる青々とした水田を両脇に見渡しながら馬を進めれば、田んぼ仕事に汗を流す農夫たちから声を掛けられ、貞任も笑顔で返す。

 梅雨が明ければ、水田作業は一層重労働となる。長雨で繁茂した雑草をそのままにしてしまうと、稲が雑草に負けてしまい、籾を付けなくなってしまう。なので、盛夏を迎える前に家族総出で冷たい田に入り、一本一本雑草を抜かなければならない。実に根気の要る大変な作業である。だが、それが秋の実りへ、次の年の実りへと繋がれていく。

 もし、働き手が兵隊に取られてしまったら。

 もし兵馬に田畑を踏み荒らされてしまったら。

 もし兵糧の徴発として、翌年の種籾まで取り上げられてしまったら。

(……奥六郡の安寧は、何としても護らねばならぬ。戦火に巻き込んではならぬ)

 夏風に波打つ田園を前に、貞任は強い思いを胸に誓った。



(……あと一年じゃ。あと一年何事も起こらず平穏に過ぎてくれれば、陸奥の地の安寧は当分の間守られるのじゃ!)
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

古書館に眠る手記

猫戸針子
歴史・時代
革命前夜、帝室図書館の地下で、一人の官僚は“禁書”を守ろうとしていた。 十九世紀オーストリア、静寂を破ったのは一冊の古手記。 そこに記されたのは、遠い宮廷と一人の王女の物語。 寓話のように綴られたその記録は、やがて現実の思想へとつながってゆく。 “読む者の想像が物語を完成させる”記録文学。

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

処理中です...