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第2章 阿久利川事件 1
しおりを挟む天喜三(一〇五五)年、文月。陸奥国胆沢郡金ヶ崎。
胆沢川の畔にて。
一昨日までしとしと降り続けた梅雨の名残も消え、蒼く済んだ川面には入道雲が映え写り、河原では小さな子供たちが水飛沫と共に歓声を上げている。土手の柳の木に繋がれた栗毛の馬が長閑に草を食む様子と、遠くに望む青々とした山々の背景が美しい。
季節は既に初夏といえよう。間もなく夏蝉の音が聞こえ始める頃である。
そんな静かな昼下がりの川淵で釣りに興じる小さな人影が見えた。
「姐さま、釣れまするか?」
ひょい、と右肩から顔を覗かせた女童が釣り人の手元を覗き込んだ。
十にも届かぬ年頃の、禿髪の可愛らしい少女である。
「うーん……」
返事の代わりに唸って見せるが、あまり色よい反応とは言い難い。
「姐さま、釣れませぬか?」
ひょい、と今度は左側から顔を覗かせた女童も釣り人の手元を覗き込む。
右の娘と鏡写しのような双子の女童である。困ったことに着物の柄まで同じ、これでは余程注意しなければ見分けがつかない。
双子の少女たちに挟まれた釣客の方を見ると、こちらも年若い娘である。既に元服は過ぎているらしく、髪形も成人女性のもの。しかし地べたに直に座り込み、夏衣の裾も露わに立膝に頬杖ついて釣り竿をぶらぶらさせている姿はまだ御転婆の抜けない少女に見える。
「……釣れないねー」
さしてそれを苦にする様子でもなく、「ふぁ……」と大欠伸をすると水面に浮かぶ浮に目を戻す。流れのない川の溜りでピクリともしない浮の先に真っ黒な羽の河蜻蛉が羽根を休めている。
「さて……何故釣れぬと思う?」
川面をぼんやり眺めながら何気なく後ろの女童に尋ねてみる。
「竿をこさえたのは菘でございまする」
右の少女が左の片割れを指さす。
「針をこさえたのは蘿蔔姉さんでございまする」
今度は左の少女がもう片割れを指し示す。
お互い顔を見合わせると、不安げに二人の主人と思しき釣り人の少女を見つめる。
「私たちの道具のせいでございましょうか?」
申し訳なさそうに問う姉妹の様子を可笑しそうに笑う。
「お前たちは手先が器用だものね」
竿を足の間に挟むと、両脇で眉毛を八の字に寄せる娘の頭を撫でてやりながら語りかける。
「酔翁之意不在酒、っていう流行り文句を知っているかえ?」
「お酒飲みの諺でございましょうか?」
「私たちはまだお酒は飲めませぬ」
「姐さまもまだお酒の飲めぬお歳のはずでございまする」
「この言葉はね、釣りにも通じるのよ?」
ふふん、と物知り顔に話してみせる娘だったが、
「……即ち、在乎山水之間也、か。この前酔っぱらって管を巻いていた父上からの又聞きではないか」
背後の土手の上から呆れたような声が聞こえてくる。
見上げると、見事な黒馬に跨った大男が白い歯を見せながら見下ろしていた。海苔でも張り付けたような太い眉の下で、人懐こそうな大きな目が面白そうに三人を眺めている。着物の前を割ってはみ出た色白の太鼓腹と丸太のような手足、とんでもない貫目の肥満漢を見るに、上に乗られている――というよりも圧し掛かられている馬に思わず同情したくなる。
「やんや目出度や。我が家の末妹は太公望様にお生まれか。日がな毎日釣り三昧ときた。しかしどうも今日は不景気そうじゃのう」
空の魚籠を傍らに大口開けて欠伸を放っていた妹の様子に苦笑を漏らす。
ちなみに酔翁之意不在酒とは、酔漢曰く酒に酔うことが目的ではなく酒を飲みながら山水を眺め風流を楽しむのが目的なのだ、というような意味であり、酒飲みが数寄の道なれば釣りもまた然り、というのが娘の言い分のようである。
なお、このあまりに有名な故事は北宋の文人、欧陽修の詩から生まれた諺であり、当時大陸で刊行されたばかりのベストセラーを諳んじて見せるところは私貿易を介して海外の文物にいち早く通じる彼ら一族ならではと言える。
「兄上、何処に居られたのか。舅殿が来るのに姿が見えぬと父上たちが探しておりましたぞ」
対する娘も呆れたように口を開く。その傍らでは双子たちが「貞任さま、貞任さま!」と嬉し気に声を上げる。妹の咎めを聞こえなかったことにしたいのか、貞任は女童たちに笑いかけながら声を掛けた。
「どうじゃ、その方らの主殿の釣果は。どうやら今日は振るわぬ様子だが?」
「一加様、まだ釣れませぬ!」
「一匹も釣れておりませぬ!」
元気よく答える娘たちに、流石に女主人も機嫌を損じたか、
「先日の長雨のせいで魚が皆川下に流されてしまったのです。それか、きっとこの川には魚がおらぬのでしょう」
言い訳がましく弁解する。これではせっかく高尚な詩を蘊蓄交えながら引用したのに台無しである。
そんな妹の様子を見下ろし、にやにや笑いながら貞任がごっそりと紐で括った大きな鯉の束を掲げて見せた。
「此処より川上で釣りあげたが、どうも今日は渋いのう。大方、長雨で皆この辺りまで流されてきているのではないか」
唖然として見上げる一加にフンと鼻を鳴らしてみせる。
「まあ、せいぜい粘ることだな!」
そう言い捨てて馬を行かせる兄の背に一加が呼びかける、
「兄上、父上が早く館に戻るようにと!」
「晩飯まで戻らぬ!」
俄かに馬足を速める。
「夕餉は為行様も御相伴されると!」
「このまま厨川に帰る!」
「ちょっと!」
逃げるように馬を走らせる姿に溜息を吐く一加の元に少女たちが駆け寄ってくる。
「姐さま、蟹が沢山いましたわ!」
「あそこ、丁度姐さまが竿を垂らしていた真下でございまする!」
そう言って得意そうに鋏を摘まんでぶら下げて見せるのは大きな藻屑蟹である。きっと長雨でここまで流されてきたのであろう。
奥六郡南部は、豊かな穀倉地帯である。
一面に広がる青々とした水田を両脇に見渡しながら馬を進めれば、田んぼ仕事に汗を流す農夫たちから声を掛けられ、貞任も笑顔で返す。
梅雨が明ければ、水田作業は一層重労働となる。長雨で繁茂した雑草をそのままにしてしまうと、稲が雑草に負けてしまい、籾を付けなくなってしまう。なので、盛夏を迎える前に家族総出で冷たい田に入り、一本一本雑草を抜かなければならない。実に根気の要る大変な作業である。だが、それが秋の実りへ、次の年の実りへと繋がれていく。
もし、働き手が兵隊に取られてしまったら。
もし兵馬に田畑を踏み荒らされてしまったら。
もし兵糧の徴発として、翌年の種籾まで取り上げられてしまったら。
(……奥六郡の安寧は、何としても護らねばならぬ。戦火に巻き込んではならぬ)
夏風に波打つ田園を前に、貞任は強い思いを胸に誓った。
(……あと一年じゃ。あと一年何事も起こらず平穏に過ぎてくれれば、陸奥の地の安寧は当分の間守られるのじゃ!)
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