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第2章 阿久利川事件 2
しおりを挟む翌日午前。衣川、並木屋敷(衣川柵)。
前日、鼻息荒く訪れた磐井郡の豪族、金為行が一夜明け鼻息を荒げたまま退出するのを見送った頼良宗任親子は揃って溜息を吐いた。
「やれやれ、毎度のこととはいえ豪い剣幕じゃ。我ら相手にまくしたてたところで埒が明かぬであろうに」
呆れたように呟くのは奥六郡司にして安倍氏当主、安倍頼時である。貞任や一加の父でもある。どこか猿を思わせる愛嬌滲む小柄な老人だが、この御老体こそ蝦夷を束ねる俘囚の首魁と聞いたら遥か都の悪たれ童もたちまち小便を漏らすことだろう。あなや、迂闊に怒らせるとにょっきり角を生やすかもしれぬぞ。
「身内の揉め事は身内同士で解決して頂きたいものじゃ。しかし、如何せん磐井郡と気仙郡は我らと国府の境界に接しております。下手に手出しも口出しもできぬし、かといって今や磐井金氏は我らが一門、放置しておけば多賀城が何を言ってくるか知れたものではない。困ったことでござる」
眉間に皴を寄せながら宗任が頷く。色の白いのは兄貞任と同じだが、こちらはすらりとした美丈夫である。和歌も嗜むという。畑違いとはいえ、似ても似つかぬ兄弟である。
「ところで、あの馬鹿息子、昨夜はとうとう帰ってこなんだな」
恨めしそうに頼時が零す。
「一加の話では、舅殿が来ていると聞いて血相変えて厨川へ走って逃げたそうでござる」
「あン畜生、あいつさえ居ってくれれば舅殿の対応を全部あいつに任せて儂らは百岡の館に逃げ込んで高鼾をかいていられたものを」
憎々し気に毒づく父親に苦笑しながら宗任が宥める。
「まあまあ、兄上に限らず嫁の舅というものは居心地の悪い相手にございます故」
作者が独身だからこんなことを平気で書けるのである。
今話題に上っている舅殿――磐井郡を拠点とする金為行と、気仙郡司金為時は同族であり兄弟ではあるものの以前から折り合いが頗る悪く、これまでも事あるごとに小競り合いが後を絶たなかったのだが、ふとした縁があり貞任が為行の娘を妻に娶ることとなり、元々安倍氏と外戚関係にあった金氏の中でも為行は飛び抜けて強い結びつきを得ることが出来た。これに激高したのが為時ら気仙の金一族である。以来、磐井と気仙の両金氏は、いつ流血の全面衝突が発生しても不思議ではない臨戦状態に置かれているのである。
「しかし為行殿の言い分も毎度のこととはいえ穏やかではござらぬな。仲裁を求めるというならまだしも、安倍の軍勢を以て気仙を討伐されたし、とは」
顔を曇らせる宗任に、頼時も頷く。
「まったく、冗談ではない。あの陸奥守の前でそんなことをしてみろ。大喜びで攻め滅ぼしにかかるぞ。気仙と磐井、そして我ら奥六郡諸共な」
鼻を鳴らしながら頼時が呟く。
「あと一年の辛抱だというに、何だってこんな時に、禄でもないことばかり続くものか。例の件にしても――」
と、そこへ金ヶ崎の居所から到着したばかりの一加が顔を出した。その後ろには例の双子の侍女たちが控えている。
「おはようございまする」
と言いつつきょろきょろと館の様子を伺う。
「為行様はもうお帰りになったのでしょうか?」
恐る恐る尋ねる妹の様子に宗任が笑う。
「さしもの胆沢に名高き白糸御前も磐井の大虎殿は不得意と見える」
「流石にお会いする度に一族の殿方片っ端からの見合いを持ちかけられては堪りませぬ」
うんざりした顔で一加が言う。
「当り前じゃ、もう金輪際外様の輩の縁談など受けるものか!」
青筋を浮かべながら頼時が吼える。「きゃ!」と双子の姉妹が身を竦める。
「急に呼び立てて済まなかったのう」
困り顔で宗任が口を開く。
「少々面倒な話が出てきてな。今、厨川にも使いを走らせたところじゃ。どうも多賀城に厄介な動きが見えるらしい」
同年葉月、国府多賀城。
大勢の侍達が国府の大門の前に控え、馬上の若者を出迎えた。
盛夏の強い日差しを照り返す無数の薙刀の鋭い金光りが物々しい。
両脇に居並ぶ武者達の敬礼に迎えられ門を潜る若者――陸奥守源頼義嫡男義家はにこやかな笑顔で答礼を返しながら馬を進める。
血気盛んな若武者らしからぬ穏やかな物腰に、誰も表情には出さないものの、頭右で見送る兵士達は、内心「おや?」と拍子抜けしたことだろう。
数えで十七歳になるはずだが、年齢より大人びて見えるのは、墨で引いたような細い顔の作りが、相手に感情を読ませぬ、肝の据わった風に思わせるからだろうか。細い目を更に線のようにして笑ってみせるところなど、武者というより公家といった方が似つかわしい風采であった。長旅の為か、それとも流石に緊張の故か、微かに表情を強張らせている様子が、僅かながらも年相応の青年らしさを感じさせる。
「遠路遥々、ようこそお越しくだされた」
馬を降りた義家の前に、長い太刀を佩いた武者が低頭した。
「本日より、御曹司の御傍に仕えさせて頂く国府付、橘十郎と申しまする」
「橘殿、顔を上げられよ」
優顔を綻ばせながら義家が語りかける。
「そなたの武勇、父上からよく聞いておる。頼りにしておるぞ」
広間にて畏まるのは頼義の側近達――鎮守軍監佐伯経範、弓の名手として知られる藤原景通・景季親子、不敗の猛将平国妙、藤原茂頼、清原貞広、大宅光任、藤原則明といった、腹心中の腹心達である。
「父上、お久しゅうございまする」
「おお、待ちかねておったぞ」
高座に低頭する義家に、陸奥守であり鎮守府将軍、源頼義が懐かしそうに強面の相好を崩す。
遡る事、四年前。
鬼切部の敗退により解任された藤原登任に代わり、新たな陸奥守として着任したのが河内源氏の筆頭、藤原頼義であった。この配置は、安倍氏は勿論奥羽全体に少なからぬ動揺を与えた。
――是に於て朝廷義有りて追討将軍を択ぶ。衆議の帰する所、独り源朝臣頼義に在り。
当時の文献にもその二文字が記されている通り、有力武家である源氏の陸奥守登用は事実上、本格的な俘囚追討の決定に等しい。それに朝義とあるが、実際は平氏との勢力争いに鎬を削り合う源氏が諸所に働きかけ、自ら進んで陸奥守に名乗りを上げたものである。頼義にとって、平氏一派である重成が俘囚に敗北し、宿敵の勢いが挫かれた今こそ、源氏の勢力を躍進し、武家筆頭たる地位を不動のものとするまたとない好機であった。加えて、大長元年から三年余りに亘る平忠常の乱を平定し良くも悪くも朝廷から一目置かれている現状である。今や飛ぶ鳥を落とす勢いに乗る源氏一門を相手に、敢えてこの人選に異を唱える命知らずの公卿など居ようはずもない。
これに愕然とした頼良は直ちに奥六郡全土に非常命令を下し、万が一の合戦に備え国府軍に対する防備を進めた。とはいえ、表立って合戦の用意をすれば敵に戦の口実を与えかねない。表面上は揉み手しながら新たな国司の着任を迎える態でいながら、水面下では領内十二の城柵を補強し、一加のような未婚の一族女性まで名目を付けて軍事訓練に駆り出した。隣国出羽の清原氏さえも、血縁を結ぶ安倍氏ら陸奥国からの火の粉が此岸に飛び来ることを恐れ固唾を飲んで情勢を見守っていた。
そんな張り詰めた緊張が奥羽全土に漲る中、突如思わぬ朗報が舞い込んだ。
永承七年五月、上東門院の病気平癒祈願による陸奥への大赦が下されたのである。
これにより、朝廷への反逆と見做されていた安倍氏による国府軍への攻撃は無罪放免とされた。頼義着任の直前の事であった。
これを聞いた頼良はじめ安倍一族は文字通り舞い上がって大喜びする一方で、合戦をする気満々で数千もの兵を引き連れて国府多賀城に着任するも腰を下ろすと同時に恩赦の知らせに触れた頼義は戦をする名目を失ってしまった。苦虫を噛み潰したような顔で渋そうに酒を煽る頼義の傍らに控え、満面の笑みで酌を勧める頼良主催の歓迎の宴は数十日に及んだという。
この時、頼良は頼義と同音である自らの名を頼時と改めて国府への服従の証とし、鬼切部以来の多賀城と奥六郡との確執は一応の解決に至ることとなった。
ところが、翌くる天喜元年、頼義が陸奥守と兼任し、鎮守府将軍を拝命したことで、再び陸奥に暗雲が立ち込めることとなる。
鎮守府将軍とは、朝廷に代わり朝敵を討伐することを任務とする強い軍事統率権を有する役職である。無論、源氏の強い働きかけにより自ら得たものであろう。
我ら源氏は決して戦を諦めたわけではない、という奥六郡への無言の警告に他ならない。
再び喉元に刃を突き付けられた安倍氏であったが、最早、頼義の国司の任期が明けることをただ待つ外はなかった。
あと三年、あと二年、……あと一年。
安倍の者達は息を殺し、ただひたすら首を長くして待った。
あと一年。それまで何事も起こらずに時が過ぎてくれれば、再び陸奥の地に平穏が訪れるのだ――
……そういった経緯を聞き及んでいた義家は、この度自分が多賀城まで呼びつけられた理由についても、何か含むところがあるものと察していた。
「着いて早々に慌ただしいことじゃが、明後日、俘囚長の頼時から衣川の城館に招かれておる。予の倅が多賀城に着任すると聞いて、是非にと紹介を求められてな」
「衣川に、我らが行くのですか? 某の顔見世で?」
怪訝な顔で義家が尋ねる。流石に口には出さなかったが、こちらは鎮守府将軍兼陸奥守の子息、相手は一介の地方郡司である。先に先方が多賀城へ出向いた後に自領への招待を伺うのが順序というものであろう。
「なに、決まっておろう」
頼義が残忍な目を光らせて笑う。
「戦場の下見じゃ。そのつもりで支度せい!」
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