白狼姫 -前九年合戦記-

香竹薬孝

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第4章 人喰い狼 1

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 天喜五(一〇五七)年、文月。遠野郷、安倍屋敷付近。



「……やはり、いもち・・・が出たか。よりによって、実りに向けた要の時期に」

 紅い斑の染みが浮かび縮れて枯れ果てた稲葉を手に、水田の畦に立ち尽くす重任が絶望の溜息を吐いた。

「この田だけではありませぬ」

 憔悴しきった百姓達が、所々に痘痕のように稲が立ち枯れ穴だらけとなった田を指さした後、周りの全ての田に指を巡らせた。

「あと二三日もすれば、見渡せる全ての田が同じように枯れ果てましょう」



 この年、奥羽のみならず、日ノ本全土がかつて例を見ない凶作に見舞われたとされる。

 

 ――今年、騒動して、国内飢饉せり。糧食足らず、大衆一たび散じたり。



 当時の記録には、国内情勢が不安定となり、それが原因となって飢饉が発生したとされているが、直接の要因は、この年の冷夏による病害の蔓延であったろう。

 既に凶作の兆候は、異常に少ない冬季の降雪と、異常に長い雨期の頃から見え始めており、両将兵らの厭戦空気から、河崎柵を含め、衣川関を挟んだ安倍、国府両軍は直接刃を交えることなく睨み合いの日々が無為に過ぎていった。余談になるが、本邦が農耕技術の進歩により飢饉の克服に成功したのは、この時代より実に九百年後、第二次世界大戦終結より十余年後のことである。冷害、蝗害すらも悪政や騒乱による神仏の祟りと信じていたこの頃の人々にとって、譬え飢饉の兆候が早い段階から確認できたとしても、それに対して何ら手の打ちようなどない。国府では兵糧を節約するため大部分の将兵らが国元へ返され、衣川本陣においても窮民救済に備え邸内や兵士達への配食制限が継続された。

 両軍共に、この年は戦どころではないと――少なくともこの時点においては、そう判断していたのである。

 



 ……この年の春、永衡を失った中加は亡き夫の供養を望み出家した。俗世も安倍の縁も捨て去り、或る朝、誰にも行く先を告げぬまま一人ひっそりと衣川を去っていった。

 





 同月。衣川、並木屋敷。



 この時、北方において安倍一門を大いに動揺させる事態が勃発していた。



「……嫌な懸念が当たってしまったか!」

 そう言って頼時が両手で顔を覆った。

「為時殿も必死の様子でございました。……こんな時に誤解を招いてしまうかもしれぬが、正直、この期に及んでも某はあの方をあまり憎む気にはなれぬ」

 無念そうに経清が目を瞑る。

「しかし、これでは外ヶ浜の重要な交易拠点を封じられてしまう。それに、これで我らはまさに北と南で挟み討ち。この状況でもし万が一、西の清原が中立を破ろうものなら、我らは四方を囲まれることになるぞ。東は気仙勢と三陸の大海原があるばかりじゃ」

 参った参った、と呟きながら貞任が頭を掻いた。



 ――臣、金為時・下毛野興重等をして奥地の俘囚に甘言せしめ、官軍に与せしむ。是に於て、銫屋・仁土呂志・宇曽利、三郡の夷人を合して、安倍富忠を頭と為して、兵を発し為時に従はんとす。

 

 この年の九月、陸奥守頼義が朝廷に上申した国解について、その内容を『陸奥話記』は右の通り記している(因みに、前年度を以て頼義の国司任期は満了し新たな陸奥守が幾名か任命されているが、開戦の報に恐れをなし皆揃って辞退してしまい、頼義が留任している状況であった)。

 つまり、以前貞任が出向先で耳にした通り、気仙の調略により津軽をはじめとする陸奥北部の安倍与党は、富忠を筆頭として国府に寝返り、頼時ら奥六郡と敵対する道を選んだのである。



「こうなっては、清原を味方に引き入れるしか手はないぞ」

 宗任が提案するが、真任が首を振る。

「無理じゃな。宗任よ、何故清原が開戦と同時に中立を宣言したかわかるか?」

 盲目の視線を弟に向ける。

「今、清原の一族は二つに分裂しかけておる。即ち、当主である光頼と、弟の武則の二派じゃ。今は光頼殿の主流派が有力だが、弟の一派は国府と親密な連帯を試み、近頃力をつけてきていた急進派じゃ。此度も、我らと国府の戦により自国の均衡が崩れることを恐れ、両者の忖度により中立の態度を示したという経緯がある。迂闊に我らが交渉を求めようものならば、忽ち両者の危うい関係は崩れ去り、陸奥の戦どころではない内乱が起こりかねぬ。使者を送ったところで門前払いを食らうであろうな」

 長兄の言葉に、皆が押し黙る。

「いずれにせよ、説得を試みるほかないであろうのう」

 額に手を遣りながら厳しい顔で頼時が口を開く。

「津軽に対して、ですか?」

 驚いて宗任が父の顔を見る。

「おやめくだされ、危険すぎる。既に国府に染まっているやもしれぬのですぞ!」

 真任も頷いて答える。

「それに、説得に行ける適任の者がおりませぬ。最前線につく貞任、宗任は言うに及ばず、重任、則任は気仙への警戒から今は持ち場を離れられぬ。家任、正任も和賀、黒沢尻の拠点を留守にするわけにもいかぬし、いざという時に鳥海、厨川の柵に駆け付けてもらわねばならぬ。北部からの脅威が発生した今となっては猶の事」

「では、儂が話をつけてこよう」

 頼時の言葉に、皆が思わず腰を浮かせた。

「論外です。当主が単身で敵地に向かうなどと!」

 宗任が声を上げる。

「しかし、説得を試みるとなれば、今この時を置いて他にないぞ。寧ろ寝返ってくれたのが今で良かった。今ならどこの勢力も米櫃が空になって兵士らを動かすことが出来ぬ。再び雲行きが怪しくなる前に、ここで懸念を払拭せねばなるまいて」

 頼時が余裕の笑みを浮かべる。

「何、そなたらが心配するほど剣呑なことにはならぬだろう。富忠殿は我が従兄弟、お互い良く知っておる間柄じゃ。それに、まさか丸腰の使者相手にいきなり弓を射かけてくるような乱暴な真似はしまい」

 難しい顔で腕を組んでいた真任が、やがて顔を上げ口を開く。

「父上、某はやはり嫌な予感が拭えませぬ。せめて、」

 ちらり、と座に加わっていた妹に目を向ける。

「……せめて一加をお供につけて行かれるとよい」

 急に名指しを受けた一加が目を丸くする。

「私でございまするか?」

 成程、と宗任が頷く。

「確かに、何時ぞやの宴の席では一役買ってくれたしのう。その方が、説得の場においても上手く交渉がまとまるかもしれぬ」

 貞任もニヤニヤ笑いながら賛同する。

「それに、この妹は存外に腕が経つぞ。鬼切部の決戦を控えた教練では、今衣川に布陣しておる精鋭らに混じって鍛えられておったしのう」

 息子らの推挙に頼時も腕を組み納得する。

「下手に大勢を率いて威圧するより頼みになるか。……一加よ。津軽との交渉、そなたに同伴を頼みたいが、異存はあるか?」

 当惑したように一加が首を振る。

「私には荷が重うございまする」

 妹の様子に、貞任が笑う。

「なに、誰もおまえに交渉の席の先頭に立って富忠殿を説き伏せよ、とまで期待しておらぬよ。ただ、おまえのようなホワホワしたようなのが同席しておった方が殺伐とした会合にならずに済む。という目論見じゃ。それに、」

 兄が表情を改める。

「おまえも我ら胆沢狼の一人じゃ。いずれ然る御役目を果たさねばならぬ立場につくこともあろう。おまえも、この戦に於ていつまでも他所事ではおられぬ身であるぞ。それを忘れてはならぬ! これは御命と心得よ!」

「他所事などと! 決してそのような心得でいたわけではございませぬ!」

 屹っと貞任を睨みつけ、父に向かい正対した。

「承知仕りました。この御役目、謹んでお受けいたしまする」

「硬いのう。親爺相手じゃ、悠然と構えておれば良いのじゃ!」

 生真面目な妹の態度に貞任が呵々と笑う。

「それでは、明日にでも出発致そう。早速支度を致せ」

 満足そうに父が微笑み、皆を見渡した。




 翌早朝。

 頼時、一加ら一行は息子達に見送られながら衣川を後にした。

 二人の他は、金ヶ崎より出向した胆沢勢精鋭三十余騎。道中において敵の奇襲を懸念する意見もあったが、それに備えて幾千もの兵を率いて行ったのでは、却って奥六郡に津軽追討の意図ありと受け止められ、後々に交渉が拗れかねないという配慮があり、最低限の人数となった。



 ――而して頼時、その計を聞きて、自ら往きて利害を陳べんとするも、衆は二千に過ぎず。



 ……仮に、右の『陸奥話記』の記載通り、数千の兵を率いて津軽へ赴いたとしても、頼時らの命運が変わることはなかったであろう。

 しかし、もしそうしていたなら、この物語の筋書きは大きく変わっていたに違いない。



 見送る双子達に手を振りながら、一加は父の横に馬を並べ、津軽へ向けて馬を進めた。

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