21 / 49
第5章 血の海 3
しおりを挟む
翌日、朝五つ頃(午前八時前後)。磐井郡黄海川付近。
綱木の峠を抜けると、黄海の盆地が一行の目の前に現れる。
保呂羽山から西南へと走る黄海川は小高い渓谷の合間を縫うように流れ、やがて丁度磐井と登米の間を分かつ辺りで北上川に合流する。その付近は東南北の三方を山々に囲まれた盆地となっており、西に臨む北上川に沿って北上すれば河崎柵まで二三里程度の距離であった。
――風雪甚だ励しく、道路艱難たり。官軍食無く、人馬共に疲る。
黄海盆地を通過する国府勢の様子を、『陸奥話記』においては右の通りに記している。しかし、幸いなことに昨夜の暴風を伴った激しい吹雪は未明には嘘のように止み、今では背後の山裾から橙色の朝焼けも眩しく雲一つない冬空が広がっていた。
「いやはや、馬組で固めてきて良かったわい。あの雪の峠を徒組率いてぞろぞろと歩いて来ようものならもう一泊山の中で野宿をすることになっていただろうて」
ようやく平らな地面を踏めたことにホッとしながら茂頼が息を吐く。無論、徒兵も少なからず加わってはいるが、歩兵主体で雪中行軍となれば格段に移動時間を要するし、ある程度の事前訓練も必要となる。
「ところで、御君ら先頭の者らはどのあたりに居るのじゃ? 何も見えぬぞ」
誰にともなく問いかける声も、真っ白な視界に飲み込まれるように消えていく。
吹雪も収まり、風も止んだ黄海盆地は、恐ろしいほどの静けさに満ちている。
その代わり、盆地一帯は国府勢の誰も経験したことのない程の濃い霧にすっぽり覆われていた。
暴風雪が収まり、気温の上昇する気配が現れてきたのであろう。
外気と水温の温度差により北上川から濛々と立ち込める湯気のような霧が盆地へと流れ込み、手前数馬身先を行く者の背中すらも判然としない。
只でさえ昨夜の吹雪で足元はおろか四面の全てが白一色ときており、ともすると平衡感覚すらあやふやになりかねない。
「これは天啓ぞ! この霧が我らの進軍を陸奥の者共の目から覆い隠してくれる。彼奴等め、霧が晴れた時には我が騎馬軍勢が砦のすぐ目の前に現れているのを目の当たりにして、さぞや慌てふためくことだろうよ」
頼義はじめ主だった者は、この霧を自軍に有利な状況と捉え喜んでいるが、一方で隊列の中ほどを進んでいた義家はいよいよ警戒を強める場面と心得え、油断なく周囲に鋭い目を光らせていた。
(確かに、敵に我らの姿は見えぬが、同時に我らからも敵が見えぬ。状況としては敵地に踏み込んでいる我らの方が余程無防備なのだが……決戦を前に余計な水を差して士気を下げてはならない。大事の前の小事である、という判断か)
恐らく前方のあの辺りにいるであろう総大将の背中を、息も痞えそうな霧の壁の向こうに見つけようと義家が目を凝らしていると、傍らを行く元親が馬を寄せて囁く。
「御曹司。何やら嫌な予感がいたしまする。この霧が晴れるまで、一度進軍を止め待機すべきではござらぬか?」
「確かに、下手に動いて奇襲でも掛けられてはひとたまりもあるまいな。しかし進言しようにも、どこに父上がいるものやら」
困ったように前方を眺めやる。すぐ目の前に顔を寄せる元親の髭面さえも霞んで見えるほどの濃い霧である。仮に進言したとしても、この視界不良の中では隊列全体を掌握することすら難しい。
その時、突如後方から水音と共に何やら叫び声やら罵り声が聞こえた。
「何事じゃ?」
周囲の配下達も、何事かと馬を止める。
やがて後方から馬を走らせこちらに駆けてくる者の姿がぼんやり見えた。
「橋を渡っていた者の何人かが、誤って馬ごと川に転落したようです」
義家を見つけ、駆け寄って来た武者の報告に、なあんだ、と周囲の兵らに安堵の空気が広がった。
「無理もあるまい、この霧じゃ。人馬は損なっておらぬだろうな?」
「今周りの者が引き上げているところでありますが、恐らく大事無いでしょう」
そこへ、前方から様子を見に来た紀為清が近づいてくる。
「ここにおられたか。何事でござるか?」
只今の報告を伝えると、確認してくると言い残してそのまま後尾へと駆け去っていき、あっという間に霧の中へ消えた。
……程なくして、後方から再び為清らしき人影と馬の蹄の音が近づいてきた。
「おお、もう戻ってきたか」
先程の進言の件、頼義に言伝を求めようと二人が馬を向け、――その姿に、戦慄の走る余り言葉を失った。
目の前を過ぎる騎馬の有様を、ふと目に留めた者が或いは絶句し、或いは悲鳴を上げた。
首を失った為清の身体が馬から振り落とされ、二人のすぐ目の前に転げ落ちた。
「は……」
後方から、前方から、次々と悲鳴や叫び声が――先程とは明らかに様子を異とする喧騒が響き渡る。
為清の亡骸を見下ろしたまま目を見開き硬直する義家が、ハッとしたように口を開く。
「て、敵しゅ――」
「御曹司っ!」
咄嗟に主人を庇う元親のすぐこめかみを唸りを上げて矢が掠める。
既に合戦は始まっていた。
綱木の峠を抜けると、黄海の盆地が一行の目の前に現れる。
保呂羽山から西南へと走る黄海川は小高い渓谷の合間を縫うように流れ、やがて丁度磐井と登米の間を分かつ辺りで北上川に合流する。その付近は東南北の三方を山々に囲まれた盆地となっており、西に臨む北上川に沿って北上すれば河崎柵まで二三里程度の距離であった。
――風雪甚だ励しく、道路艱難たり。官軍食無く、人馬共に疲る。
黄海盆地を通過する国府勢の様子を、『陸奥話記』においては右の通りに記している。しかし、幸いなことに昨夜の暴風を伴った激しい吹雪は未明には嘘のように止み、今では背後の山裾から橙色の朝焼けも眩しく雲一つない冬空が広がっていた。
「いやはや、馬組で固めてきて良かったわい。あの雪の峠を徒組率いてぞろぞろと歩いて来ようものならもう一泊山の中で野宿をすることになっていただろうて」
ようやく平らな地面を踏めたことにホッとしながら茂頼が息を吐く。無論、徒兵も少なからず加わってはいるが、歩兵主体で雪中行軍となれば格段に移動時間を要するし、ある程度の事前訓練も必要となる。
「ところで、御君ら先頭の者らはどのあたりに居るのじゃ? 何も見えぬぞ」
誰にともなく問いかける声も、真っ白な視界に飲み込まれるように消えていく。
吹雪も収まり、風も止んだ黄海盆地は、恐ろしいほどの静けさに満ちている。
その代わり、盆地一帯は国府勢の誰も経験したことのない程の濃い霧にすっぽり覆われていた。
暴風雪が収まり、気温の上昇する気配が現れてきたのであろう。
外気と水温の温度差により北上川から濛々と立ち込める湯気のような霧が盆地へと流れ込み、手前数馬身先を行く者の背中すらも判然としない。
只でさえ昨夜の吹雪で足元はおろか四面の全てが白一色ときており、ともすると平衡感覚すらあやふやになりかねない。
「これは天啓ぞ! この霧が我らの進軍を陸奥の者共の目から覆い隠してくれる。彼奴等め、霧が晴れた時には我が騎馬軍勢が砦のすぐ目の前に現れているのを目の当たりにして、さぞや慌てふためくことだろうよ」
頼義はじめ主だった者は、この霧を自軍に有利な状況と捉え喜んでいるが、一方で隊列の中ほどを進んでいた義家はいよいよ警戒を強める場面と心得え、油断なく周囲に鋭い目を光らせていた。
(確かに、敵に我らの姿は見えぬが、同時に我らからも敵が見えぬ。状況としては敵地に踏み込んでいる我らの方が余程無防備なのだが……決戦を前に余計な水を差して士気を下げてはならない。大事の前の小事である、という判断か)
恐らく前方のあの辺りにいるであろう総大将の背中を、息も痞えそうな霧の壁の向こうに見つけようと義家が目を凝らしていると、傍らを行く元親が馬を寄せて囁く。
「御曹司。何やら嫌な予感がいたしまする。この霧が晴れるまで、一度進軍を止め待機すべきではござらぬか?」
「確かに、下手に動いて奇襲でも掛けられてはひとたまりもあるまいな。しかし進言しようにも、どこに父上がいるものやら」
困ったように前方を眺めやる。すぐ目の前に顔を寄せる元親の髭面さえも霞んで見えるほどの濃い霧である。仮に進言したとしても、この視界不良の中では隊列全体を掌握することすら難しい。
その時、突如後方から水音と共に何やら叫び声やら罵り声が聞こえた。
「何事じゃ?」
周囲の配下達も、何事かと馬を止める。
やがて後方から馬を走らせこちらに駆けてくる者の姿がぼんやり見えた。
「橋を渡っていた者の何人かが、誤って馬ごと川に転落したようです」
義家を見つけ、駆け寄って来た武者の報告に、なあんだ、と周囲の兵らに安堵の空気が広がった。
「無理もあるまい、この霧じゃ。人馬は損なっておらぬだろうな?」
「今周りの者が引き上げているところでありますが、恐らく大事無いでしょう」
そこへ、前方から様子を見に来た紀為清が近づいてくる。
「ここにおられたか。何事でござるか?」
只今の報告を伝えると、確認してくると言い残してそのまま後尾へと駆け去っていき、あっという間に霧の中へ消えた。
……程なくして、後方から再び為清らしき人影と馬の蹄の音が近づいてきた。
「おお、もう戻ってきたか」
先程の進言の件、頼義に言伝を求めようと二人が馬を向け、――その姿に、戦慄の走る余り言葉を失った。
目の前を過ぎる騎馬の有様を、ふと目に留めた者が或いは絶句し、或いは悲鳴を上げた。
首を失った為清の身体が馬から振り落とされ、二人のすぐ目の前に転げ落ちた。
「は……」
後方から、前方から、次々と悲鳴や叫び声が――先程とは明らかに様子を異とする喧騒が響き渡る。
為清の亡骸を見下ろしたまま目を見開き硬直する義家が、ハッとしたように口を開く。
「て、敵しゅ――」
「御曹司っ!」
咄嗟に主人を庇う元親のすぐこめかみを唸りを上げて矢が掠める。
既に合戦は始まっていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
古書館に眠る手記
猫戸針子
歴史・時代
革命前夜、帝室図書館の地下で、一人の官僚は“禁書”を守ろうとしていた。
十九世紀オーストリア、静寂を破ったのは一冊の古手記。
そこに記されたのは、遠い宮廷と一人の王女の物語。
寓話のように綴られたその記録は、やがて現実の思想へとつながってゆく。
“読む者の想像が物語を完成させる”記録文学。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる