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第5章 血の海 4
しおりを挟む当初は戦の追い風と喜んでいた頼義らも西の大河に近づくにつれ愈々濃くなっていく霧に、遂に馬の足を止める。
「いやはや、これは流石に」
困ったように景通が主を振り返る。
その時、ずっと後方の方から何やら騒々しい遣り取りが聞こえてきた。
「何事じゃ?」
皆が後ろを振り向くが、矢張り、霧に阻まれ今来た道はおろか数歩向こうの味方の鎧の色すら伺えない。
「某、様子を見てきまする」
側近の一人である為清が後方へと馬を走らせ、たちまち霧の中に見えなくなる。
「……御大将、ここは少し霧が晴れるまで様子を見た方が良うございませぬか? 前を進んでいてうっかり足元が北上川、ということにもなりかねませぬ」
経範が悩まし気に眉を顰めながら頼義に進言する。
「しかし、これは敵の目を眩ます千載一遇の好機でもある。みすみすそれをやり過ごすのは」
主の傍らで景通が難色を示す。
「されど、ここで思わぬ不慮を起こし兵馬を損なっては元も子もありますまい。柵を落とすには十分な兵数を揃えておりますれば、無理にこの視界不良の悪条件の中を強行する必要もないと考えまするが」
両参謀の進言に、頼義は腕を組み考え込む。
突如、すぐ後ろの味方から悲鳴が上がった。
何事かと振り返る頼義らの後続から、まるで連鎖するように次々と悲鳴、怒号、叫び声が聞こえてくる。
為清が最後尾に辿り着くと、既に馬は引き上げられ、一群の頭目が点呼を取っているところであった。
馬に傷はないようだが、真冬の凍てついた川に落ちた者は悲惨である。引き揚げる為に川へ入ったずぶ濡れの者らと一緒に、仲間から借りた外套を重ねて被りぶるぶると震えている。
(火を起こしてやりたいが、流石に敵陣の鼻先で煙を上げるわけにもいかぬしな……)
少々気の毒に見やりながら辺りの将兵らに注意する。
「良いか、この霧じゃ。くれぐれも足元に注意せよ。これから手柄を上げようという時に詰まらぬことで怪我などしてくれるなよ!」
応っ! と苦笑交じりの声が返る。
と、言っている傍からバシャアァっ! と水飛沫が上がり、兵の一人が川に転落した。
「言わんこっちゃない! 気を付けよというに」
呆れながら川を覗き込んだ兵らが皆一様に固まった。
「な……」
為清も馬上から見下ろし息を飲む。
川の水が真っ赤に染まっていた。
たった今川に落ち、ぷかぷかと力なく川面に浮かんだ兵の身体から流れ出ている血である。
為清の背筋に冷たい恐怖が走った。
「ぎゃああっ!」
立ち竦む為清の後ろで、兵士達が驚愕と恐怖と断末魔に次々と悲鳴を上げた。
また一人の兵士が喉を掻き切られ血を噴きながら目の前で川に転がり落ちる。
「ヒャハハハ!」
振り返ることが出来ない。何か常軌を逸した者達が真後ろにいる。
バタバタと地に倒れ伏す物音の後――やがて何も聞こえなくなる。
どう、とすぐ傍らに兵が俯せに倒れ伏す。真っ白な雪が赤く染まっていく。
歯を鳴らしながら震える首を振り向いた為清が、引き絞るような声を漏らした。
「ひっ――!」
「今の矢は何処から放たれたかっ!?」
手綱を握り直す元親が慌てて身を伏せる徒兵達に問う。
その間にも目前の雪上に矢が突き刺さる。
「判りませぬ、ただ、前からも後ろからも……!」
狼狽えながらも警戒し薙刀を構える兵士が顔を上げ答える。
「……っ! おい、十郎よ。これを見よ!」
義家の指さす先――地に突き刺さった矢羽根を認めた元親がハッと息を飲み、主を見返す。
霧中の矢に撃たれた配下の騎馬が、くぐもった声を漏らし馬から崩れ落ちた。
「――総員、撃ち方止めいっ! 止めよっ、矢を放つな!」
義家が声を枯らして四方の味方に向けて叫んだ。
為清の首なし騎馬が、将兵らに恐慌を生みつつあった。
「一体何事か!」
経範が声を荒げ問うと、血相を変えた兵が駆け寄ってくる。
「敵の奇襲であります!」
それを打ち消すように別の兵が悲鳴に似た声で怒鳴った。
「違う、違う! 味方の誤射じゃ。 相打ちになるぞ、無暗に弓を引くな!」
「で、ですが確かに白い毛皮を着た奴が斬りかかってきたのです!」
「だからといって味方の方に射かけてくる奴があるか!」
そう言い合ううちにも方々から殺気立った争いの音が聞こえてくる。
頼義が厳しい顔で側近らと顔を見合わせる。
「……まずいぞ。皆、混乱を来し始めておる」
一面白色の空間というのは、目隠しをされ、或いは暗闇の部屋に閉じ込められているものと状況の大差はない。小さな物音一つでも恐慌を来し、在り得ぬ幻影が現れることもある。加えて、昨夜の吹雪と明け方からの雪中行軍による睡眠不足と疲労と寒さ、そして終始足を取られる根深い雪に動作が制限される心身の負荷により、いかな源氏の精鋭とて見えぬところで神経が摩耗し、錯乱に陥りやすい条件下に陥っていた。集団であれば、それはあっという間に周りの味方にも伝染してしまう。
これは冬の戦において最も恐るべき状況であり、如何なる強敵よりも遥かに恐ろしいものとされている。無論、頼義らもそれは十分に心得ており、その恐れていたものが只今現実に目の前で起ころうとしている。このままでは柵の攻略どころではない。
「……或いは本当に敵の奇襲やも」
景季が呟いた。
「……ならば、貴様は確かに見たというのだな、その白い敵兵とやらを! ええっ?」
「い、いや、ひょっとしたら、狼か何かだったやも」
胸倉掴まんばかりの勢いで問い詰める大柄の徒兵に、怯え切った様子で年若い兵が口籠る。
「ハっ、俺は甲斐の生まれだが、人と見間違うような狼など聞いたこともないわ! いい加減なことを言っておると承知せ」
言いかけていた兵が突如血を吐いて倒れた。
その後ろから、真っ白な外套を翻した人影が走り去り、悲鳴を上げて腰を抜かす若い兵の前で霧の中に消えていく。
「見たか! 確かに敵が見えたぞ!」
頼義が目を剝いて側近達へ振り向き叫んだ。
「幻覚ではない、敵襲じゃ、総員備えさせよ! 法螺を鳴らせっ!」
配下の兵に合戦の号令を指示する。
「お待ちくだされ、兵がまだ浮足立っておりまする!」
慌てて止めようとする経範の前で、高らかに法螺の音が響き渡る。
それに応えるかのように、一斉に周囲の山々から、盆地が震え上がるような鬨の声が上げられた。
国府勢の恐慌が頂点に達した。
法螺の一声に一瞬冷静を取り戻し顔を上げた将兵らが、直後に轟き渡る三方からの大合唱に飛び上がった。
「……これは、鬼切部と同じじゃ」
呟いた元親が義家に呼び掛ける。
「御曹司、気を付けられよ。これは敵の撹乱ですぞ!」
「承知しておる。しかし、兵らがもう飲まれてしまっておる」
舌打ちしながら首を巡らせてみる。
先程の一喝で迂闊な弓を引く者はいなくなったかと思えば、周囲を騒がせる敵の鬨に五感を惑わされ、警戒の余り足元疎かになった騎馬が川に転落し、その水音に驚いた兵士が思わずそちらに弓を向ける。
「狼狽えるな、貴様らは何者じゃ! 河内源氏の郎党たるものがその様でどうするかっ!」
その足元で、川に落ちた騎馬が這い上がろうとしたところで背に矢を受け、呻き声を上げて川の中に沈んだ。
「対岸から射かけてきたか、もう囲まれておるのではないか!」
騎馬の一人が叫ぶ。
前方では兵の混乱が極まったか、「敵じゃ、敵じゃ」と怒号が飛び交っている。
「ええい、忌々しい霧じゃ、何が僥倖なものか!」
毒吐く元親に、義家はニヤリと笑ってみせる。
「だが、見よ十郎よ。風向きは変わってきておるぞ」
そう言って掌を天に翳す。
「――霧が薄くなってきたようじゃ」
北側の山頂から見下ろすと、丁度北上川から黄海盆地にかけてすっぽり蓋をしたように霧が覆いかぶさっているのがよく判る。
「……西の端、あの辺りにいるのが頼義か。数名の騎馬が護るように周囲を固めておる。最後尾の一群は遠野の伏兵がほぼ殲滅したようじゃ」
山頂付近に白布で偽装し設営した陣地より、鉄扇を手に足元に広がる霧の海を指し示してみせる真任を、呆れながらも感心した様子で宗任が見つめる。
「よく判りますな。某には何やら微かな怒号と剣戟が霧の中から聞こえるばかりじゃ」
呵々と笑いながら真任が鉄扇で肩を叩く。
「目は見えずとも、目明きに見えぬものが代わりに見える。それだけのことじゃ。しかし、この条件を想定し、これほどの企てを練ってみせるとは、あの経清とやら、恐ろしい男じゃ」
「まさしく。味方についてくれて良うござった」
宗任が頷く。
「思ったより早く霧が解け始めておる。伏兵らを引き揚げさせよ。次の攻めに移るぞ」
「承知仕った。鏑矢を放て!」
盆地を轟かせていた鬨の声がぴたりと止む。
急速に霧が晴れていく中、夢から覚めたような顔で国府勢が周囲を見回すと、雪原を赤く染める自軍兵士の亡骸がぽつぽつと倒れているのが見えた。
その中に混じり、白い綿の外套を纏った兵士が転がっているのを見つけ、忌々しそうに足蹴にする。
「俘囚奴、やはり霧の中に紛れておったか!」
吐き捨てる兵士が突如北の山から放たれた鏑矢の一声に思わず身構える。
ようやく霧が解け明瞭に見渡せる北の山々に目を向けた国府将兵らは、山裾一面に無数に屹立するあれらを、初めは雪を被った森林と見ていた。
……やがて、その正体を知るに及ぶと皆絶句し、南の対岸に目を遣っていた将兵達は言葉を失った。
南北から自分らを取り囲んでいるのは、自軍の優に三倍はあろうかという安倍騎馬の大軍勢である。
「放てェっ!」
貞任の号令一下、一斉に両側の森林が蠢き、盆地に矢の嵐が降り注いだ。
「総員、即時応射の隊形を組め! 騎馬隊は北側を、徒兵は伏せ南の対岸に応戦せい!」
総大将頼義の命令が響き渡り、聞こえたものから直ちに指示の通り応戦を試みる。霧中では狼狽えを晒したとはいえ彼らは最強の武士団、河内源氏の精鋭である。たとえ山を埋め尽くす大軍を前にしても臆するような弱腰の者はいない。これが普段想定されている通りの合戦であれば、十分敵の攻撃に対応し、速やかに形勢を整えた上で攻勢に持ち込むことが出来たであろう。しかし霧中の撹乱により陣形は崩れ、立て続けに流転する状況に将兵らの混乱も未だ立ち直り切っていない。
態勢をとる前に次々と矢に倒れ、兵を失っていく。
「ちいっ! 霧に巻かれていたとはいえ、ここまで敵に囲まれるまで気づかなんだとは、この頼義の不覚であった!」
心底悔しそうに地団駄踏む頼義を他の側近らと共に矢から庇っていた景季が山の頂近くに陣を張る真任らの姿を見つける。
「者共、見よ。敵本陣はあそこに居るぞ!」
周囲の兵達を励ますように叫びながら矢を番える。
「この矢を目指し敵首魁を討ち取って参れ!」
南無八幡、と念じながら山頂目掛けて矢を放つ。
風を切る音も凄まじく真任目掛けて矢が飛んだ。
バシイィンっ! と真任の眼前で矢が弾け飛んだ。
「兄上っ!?」
驚愕して宗任が駆け寄ってくる。
「……見事な腕前じゃ。数町も隔てた窪地の騎馬から、危うく額を射られるところであったよ」
咄嗟に鉄扇で弾き飛ばした真任も尋常の者ではないが、その顔色は流石に青い。
「そろそろ敵も態勢を取り戻しつつあるようじゃ。宗任よ、最後の攻めに移れ!」
本陣からの法螺の合図に、山裾で矢を射かけていた貞任が配下を見渡して吠えた。
「――皆よ、これより、国府の息の根を止める! 二度と我らの土を踏ませぬよう、徹底的に叩き潰せ!」
応おおおおおおおおおおっ! と掛け声で山が崩れたかという勢いで、安倍勢三千余騎の騎馬隊が、根雪を雪崩の煙と巻き上げながら一斉に国府勢へと突進していった。
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