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第5章 血の海 7
しおりを挟む北上川の河畔に冬の夕陽が照り返っている。
盆地周辺で黙々と落ち武者の捜索と息のある敵負傷兵に止めを加えていた陸奥勢の兵士らも、そろそろ引き揚げに取り掛かり始め、今合戦の場で蠢いているのは無数に転がる骸を啄もうと群れを成している真っ黒な鴉共のみである。
隊ごとに列を整え帰陣に取り掛かる将兵らの口数は少ない。未だ勝利の実感が追いつかないのかもしれぬ。或いはあまりに凄惨な戦の後の光景に言葉を失っておるのかもしれぬ。いずれにせよ、早く陣に戻り疲れた身体を横たえたい、という表情で、ぞろぞろと川沿いの道を辿っていく。
山頂の仮屋の陣地で戦の成り行きを見下ろしていた真任、宗任らも同様の顔色で、勝利の喜びよりも、疲労の色が強い。
「さて、そろそろ我らも引き揚げるか」
従卒に手を取られながら真任が立ち上がる。
「結局、碌に勝鬨を上げずにしまいましたな」
呟く宗任に兄が背中で答える。
「鬨の声なら皆、山裾で嫌になるほど叫び倒したからのう。取り敢えず今晩は皆ゆっくり休んだ上で、明日は朝から勝利の宴に転がり込んで羽目を外すことだろうて。それにのう、」
立ち止まり、嘆息しながら肩を竦めて言う。
「俺は何やらいまいち勝ったという実感が湧かぬのじゃ。果たして、これで長年の決着がついたものと安堵して良いものやら、な」
真任の所感は、宗任のみならず、他の将兵も少なからず同じような思いを抱いているものであろう。
あまりにもあっさりと勝負が決してしまった。それも、圧倒的な強敵を相手に、である。
これとほぼ同じ勝利は、六年前にも経験していた。
その圧勝を以てしても、戦いが終わることはなかった。未だにその戦は続いているのだ。
(果たして、この勝利、手放しで喜んでよいものか)
皆の胸中に、未だ一抹の不安が消えずに残されていた。
合戦三日後の夜半。衣川、並木屋敷。
離れの一室にずらりと並べられた敵将の首級、その一つ一つを手に取りながら、有加や一加、その侍女達が丁寧に化粧を施していた。
実検に先立って、見苦しくならないよう武将首を整えてやるのは討ち取った敵に対する礼儀の一つでもあり、その役目は女性達が担うのである。各々が水桶を傍らに髪を梳いてやり、作法に則り生前の面相に近づくよう整えてやる。
その様子を、入り口から恐々と顔を覗かせ見つめている姿があった。
「こら、子供が来る所じゃない!」
先輩侍女の薄が見咎めて叱りつける。
「まあ、良いでしょう。いずれこの子達も仕方を覚えなければならないこと。それより、お前達、怖くないの?」
恐る恐る部屋に入る菘、蘿蔔の姉妹に有加が笑いながら問いかける。
「とても怖うございまする」
「でも姐さまに会いとうございまする」
あらあら、と有加が目を細め、やれやれ、と薄が肩を竦めた。
「でも残念。お前達の御主人は今外していてよ」
丁度そこへ、宗任と連れ立って一加が現れ、双子達は揃って駆け寄り、助走をつけて腰に抱きついた。
「お会いしとうございました!」
「御無事で嬉しうございまする!」
涙声で腰に顔を押し付ける侍女二人に苦笑しつつも宥めてやるが、確かに河崎柵へ出向し昨夜遅く屋敷に戻るまで一週間、彼女らと顔を合わせていなかった。近頃は以前のように何処へ行くにもべったりついて回ることもなくなったとはいえ、やはり寂しかったのだろう。それに、行先は合戦ときたのだから猶の事。
「武将首をこれ程討ち取ってくるとは。これは国府にとっては大打撃であろうな」
並べられた首を見渡しながら、感慨深く宗任が呟く。その言葉に痛ましさが滲んで聞こえるのは、どれも胆沢城勤務等で見知った者達の首級だからであろうか。
「一昨年の宴に参られた方々も見えまする」
一加もまた、沈痛な面持ちで頷く。
最初に彼らの首を見回した際、まさか義家のものが混じっていないかと何よりも危惧していたが、改めて注意深く見ると、親しく言葉を交わしたことのある者も目について、いたたまれずに顔を伏せる。その中には自分が手に掛けた者もいた。
……配下達と共に戦場を駆けていて、ふと背後から敵将に呼び止められ、馬を止めた。
振り向くと、戦名乗りを上げながら、今まさに刃を振り上げようとしているところであった。
そして、ハッとしたように、その敵将は手を止めた。初めて相手が女人と知って驚いたように目を見開いた。
その隙をついて、その武将を斬り伏せた。斬られる直前、既に諦めたように相手は目を瞑っていた。――俺に女は斬れぬ。……そんな声が聞こえてくるような最期であった。年配を思えば、一加と同じ年頃の娘がいたのかもしれぬ。
その潔き武将の首級も、並べられている者達の中で清めの順番を待っている。
突然、双子達が悲鳴を上げて、薄が手に抱えている首に駆け寄った。
「こ、こら、邪魔するな!」
戸惑ったように薄が怒声を上げる。
「おじさま!」
「干菓子をくださったおじさまにございまする!」
「え――?」
薄が驚いたように手元の首に目を落とす。
一加も息を飲む。
――子供達には退屈な集まりかと思いまして。甘党なもので干菓子は肌身離さず持ち歩いておりまする
そう言って照れたように頭を掻く初老の男の笑顔が、ふと過った。
――還りて賊の囲みの中に入る。その随兵の両三騎、又曰く、「公既将軍と命を同じくし節に死す。我等、豈独り生くることを得んや。陪臣と云ふと雖も、節を慕ふこと是一なり」と。共に賊陣に入りて、戦ふこと甚だ捷し。則ち十余人を殺す。而して殺死すること林の如くして、皆賊の前に歿しぬ。
『陸奥話記』には、佐伯経範の奮戦と最期について、右のように記している。
頼義ら一行を逃がすため、自分を慕う郎党三騎と共に貞任率いる敵勢へ斬り込み、壮烈な戦いの果てに討死を遂げたのである。
経範の首を囲み、顔を覆って涙を流す双子達を見つめていた薄が、二人に櫛を握らせた。
「……薄姐さん?」
「世話になった御方なんだろう? 最後にお礼言いながら、供養しておやり」
二人は涙を拭いながら、水に浸した経範の髪に櫛を当てた。
ふと顔を上げた蘿蔔が、「姐さま」と呼びかけ、すん、と鼻を啜りながら、並んだ首の一つを指さした。
「この方、お姉さまへの文を私に預けたお兄さまでございまする」
その指さす首に目を遣った一加は、思わず口元を押える。
自分と義家の間に入り、主を護ろうとして郎党らと共に果てた若者である。
そして、あの夏の宴の席にても見覚えがあった。
……矢に撃たれる直前に、「あなたは――」と叫んで自分を見つめていた理由が、今になって分かった。
「確かにこの若者、あの宴席で矢鱈とそなたに見惚れていて、見かねた父親から何度も小突かれておったっけ」
宗任も思い出したらしく、痛まし気に景季の首を見つめる。
「……思えば、遠い昔の出来事のようじゃ。もう、あの平穏な頃には戻れぬのよな」
一加の双眸から、涙が零れ落ちた。
――そなたの手が……血に染まるのを、見たくはないのだ!
そうだ。
もう二度と戻ることはできないのだ、と。
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