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第5章 血の海 6
しおりを挟む「一加っ!」
馬を走らせ呼びかける義家の声に一加はハッとして振り返った。
「……源太様!?」
その姿を目の当たりにした義家が思わず馬を止め、呆然と立ち尽くした。
「一――加……?」
返り血に顔も鎧も真っ白な外套も鮮紅に染め、薙刀からは血を滴らせ、馬の鞍にはその手で討ち取ったのであろう国府の武将の首を吊るしている。
「何故……そなたがここに居るのか?」
信じられぬ思いで義家が問いかける。
「国府の武将かっ!」
一加の傍らにいた髭一が女主人の前に身を乗り出す。
他の兵らも一斉に弓を構える。
「待てっ!」
今にも矢を放とうとする見方を一加が遮る。
そして、お化けでも見るような眼差しで自分を見つめる義家の眼差しを感情を押し殺した相貌で見つめ返す。
「……一加よ。俺はそなたと、戦さえ終われば、敵味方でなくなればと約束したはずじゃ」
悪い幻でも目の当たりにするように、義家が呼びかける。
「源氏の御曹司よ、最早我らは明確な敵同士じゃ。敵味方でなくなるなどという事はない!」
屹と鋭い眼差しで睨み据えながら一加が言い返す。
「必ず迎えに行くと、……約束したはずじゃ」
或いは、これもまた霧中に幻惑された敵の撹乱の続きであれば良いのに、と。
「……待っていてほしいと、約束したはずじゃ」
「貴公らが始めた戦ぞ、戦が終わるとは、貴公ら国府が陸奥から退くか、我らが皆貴公らに討ち取られるかじゃ!」
冷たく言い放つ女武将の声は、確かに愛しい者の声であった。
「……そなたまで戦に巻き込むつもりなどなかったのじゃ。……なのになぜ、その手を血に汚してまで」
義家の目に、涙が滲む。居てもたっても居られぬほどに恋い慕い、危険を冒してまでその愛しい身体を掻き抱いた、その娘が目の前にいるというのに、どうしてこれほどまでに隔たれて見えるのか。
「我も安倍の一人ぞ! 田舎庄屋の小娘と侮るならば容赦せぬ!」
「ああ、頼む。……もうやめてくれ!」
義家が激しく首を振った。その目から雫が飛び散った。
「そなたの手が……血に染まるのを、見たくはないのだ」
顔を覆い、肩を震わせる青年を前に、娘もまた、声を詰まらせる。
「我も胆沢狼の一人。人喰い狼に血を啜るな、などとは笑わせてくれるわ!」
吐き捨てるように叫び、ぎゅう、と唇を噛み締めながら一加が呟く。
「……何時ぞやの誼じゃ。今は見逃す。とっとと去ね!」
「姫様、何をっ!?」
髭一が目を剝いて振り返る。
兵達も驚いて女主人を見る。
「……お願いじゃ。源太様。血に染まったこの姿、見るに堪えぬと仰せなら、どうかこれ以上は……!」
震える声を絞るように懇願する一加の頬から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「御曹司――っ!」
突如、麓からの呼び声と共に、幾本もの矢が一加達目掛けて放たれる。
「新手じゃ!」
髭一らが一斉にそちらへ弓を向ける。
「御曹司、今お救いしますぞ!」
薙刀を振りかぶりながら、景季とその配下三騎は決死の覚悟を示した相貌で敵勢目掛けて斬り込んできた。
「待て、景季! 来てはならぬっ!」
「放てェっ!」
髭一が太刀を振り下ろし号令を掛ける。
「待って!」
髭一らを止めようと声を上げる一加の声に、ハッとして景季は目を見開いた。
「あなたは――!」
身体中に矢を受けた景季とその郎党らが揃って馬から転げ落ちた。
「景季っ! うあああっ!」
倒れた忠臣に駆け寄ると、涙を流しながら義家はその身体を抱き起した。
その様子を見つめ立ち尽くす一加に、「如何致しまするか?」と髭一が問いかける。
「……捨て置くがよい」
そう呟くと、一加は配下らを率いて義家に背を向け去っていった。
「景季、景季っ!」
「……ああ、御曹司。……御無事でござったか。東の山裾で、……総大将がお待ちですぞ」
義家の健在を確認した景季が安堵の息を吐きながら、ふと、去り行く女武将の背中に目を遣った。
「――ああ、やはり……美しい。まるで……白狼の、姫君じゃ……」
最早今生に悔いなしというように微笑むと、景季は号泣する主の腕の中で息を引き取った。
僅か二十年の生涯であったという。
「――ハア、――ハア、……ああ」
磐井勢の攻撃を搔い潜り、死に物狂いで東の山中に逃げ延びた国妙が、中腹の開けたところまで辿り着くと崩れるように座り込んだ。もうこれ以上は走れぬ。今にも肺臓が破けてしまう程に苦しい。
這い進むように岩陰から顔を出し、麓の盆地――今まで彼らが死闘を繰り広げた合戦場を見下ろした。
「ハア、――ハア、……う、ううううああああ」
既に合戦の勝敗は決し、今界下で小さく蠢いて見えるのは白い外套姿の敵兵ばかりである。
彼と同じように盆地を見下ろす国府の者がいたとしたら、皆同じように嘆息に咽んだことであろう。
見えるのは全て味方の亡骸ばかり。真っ白であったはずの雪原は、国府兵の流した血で真っ赤に染まっていた。只でさえ損害の少ない陸奥勢の骸は白衣を纏っているので目立たない。ゆえに殊更に友軍の残状が目に付くのだ。
「あああ、……あはは、は。輝かしき栄光か、天下の誉か。は、」
引き攣った笑い声を上げながら、国妙の双眸からは滂沱の涙が溢れ出る。
「……それが、このざまか! もはや源氏はおしまいじゃ! 国府の威信は地に堕ちた! 勝馬に乗れるものと秋田を離れ源氏一党に与したというのに! これで儂の不敗の経歴も泥に塗れてしもうた、源氏に与したばかりにじゃっ! うあああああっ!」
地に顔を伏して慟哭する国妙の背後の竹藪が、不意にがさがさと音を立てる。
「ヒャハハハ! ここにも一人落ち武者が隠れておったわい!」
「――ひぎゃああああっ⁉」
慄然として振り返り、白い外套が目の前に翻るのを目の当たりにした国妙は恐慌の余り絶叫して腰を抜かす。
「先程、念願の好敵手をつい取り逃がしてしもうてのう。今、儂はのう、生えかけの年頃のように欲求不満の塊なのじゃ。何とか倭の血を浴びて肉の渇きを癒してやりたいと思うていたところじゃて。ヒャハハハ!」
ぎらりと見たこともないような刀を翳し舌を這わせてみせる敵兵に、国妙は恐怖に震えながら這い蹲り必死に助命を懇願する。
「お願いでござる、見逃してくだされ! 儂はこの戦で、貴公らの兵は誰一人殺めてはおりませぬ! どうか、命ばかりは助けてくだされ! そ、そうじゃ、儂は貴公らの元に帰順した藤原経清殿の外戚に当たる者なのじゃ。疑われるというのなら、どうか経清殿に尋ねてみてくだされ、なあ? どうか、助けてくだされ、のう!」
その様子を馬上から見下ろしていた敵兵の顔から、みるみる表情が抜けていく。
まるで冷めきった様子で、フン、と鼻を鳴らして吐き捨てる。
「……興が冷めたわ。戦う意思を失った者など、拙者の刀の錆にもならぬ。もうよい。わかったから、とっとと山を降りて多賀城に引き上げるがよい。二度と衣川に近寄るでないぞ」
小馬鹿にしたように背を向ける敵兵に、ぎりり、と歯を軋らせながら国妙が身を起こす。
後ろの雪に埋め隠していた弓を手に取り、憤怒の形相で矢を番える。
「おのれ……言わせておけば、俘囚風情が! ――ぶは!?」
「やれやれ、最後まで見苦しい奴じゃ!」
馬の後ろ脚に雪を掛けられた国妙が噎せ返るのを、重任は肩を竦めながら横目で見やった。
ようやく東の尾根まで辿り着いた頼義一行が、馬を止め、お互いの安否を確かめ合う。
「……たった、これだけか?」
震える声で、頼義が問う。
「御君を含め、我らのみ。後は御曹司と、加勢についた景季君らが無事であることを祈るばかりでござるが」
大宅光任も肩を落として答える。
今この場で生存を確認できるのは、頼義、光任の他は、藤原景通、清原貞広、藤原範季、藤原則明の全て合わせて六名のみである。
「千三百を超える我が国府精鋭が、たったこれだけと……」
全員が、言葉を失う。
「御君をお救い出来たのが、せめてもの僥倖じゃ。そう思うより他はない」
項垂れながらも一同を励ますように範季が呟く。
「それに、まだ我が倅が戻ってきておらぬ。きっと、今に御曹司をお連れして我らの元に無事帰って参りましょうぞ!」
空元気を振り絞るように声を上げる景通だったが、やがてその顔がくしゃりと歪む。
「きっと、無事に戻ってきまする。……倅が、生みの親より先にくたばるなどと、そんな親不孝があるものか……っ!」
おいおいと声を放って泣く景通に掛ける言葉が見つからず、皆再び沈痛に俯いた。
そこへ、一行の傍に近づいてくる一群がある。
皆が目を輝かせて振り返り――絶望に突き落とされた。
近づいてくるのは、白い外套を纏った軍勢。
陸奥勢による残党狩りであった。
「――これまでか!」
側近らが天を仰いで呟き、或いは地に目を落とし涙を絞った。
只一人、頼義だけが物凄い形相で敵の頭目を睨みつける。
「……おのれ、あやつめ! こんなところで相見えようとはっ!」
呪詛を滲ませながら歯軋りする頼義の前で、陸奥兵らを引き連れた安倍軍参謀――経清が、敵意を込めてこちらを睨みつける国府残党達を見回した。
「残ったのは、たったこれだけか?」
意外そうな顔で首を傾げる経清の様子に、とうとう頼義が咆哮を上げながら飛びかかろうとした。
「経清、八つ裂きにしてくれるっ!」
真っ赤な狂相で掴みかかろうとする総大将を皆が必死で押さえつける。
その醜態を無表情で見つめる経清の前に、光任が馬を降りて跪いた。
「経清殿、頼む。以前の同僚の誼と思い、御君だけは見逃してほしい。代わりに我ら五人の首をくれてやる。だから後生じゃ!」
涙を浮かべ懇願する様子に、他の者達も思わず黙り込み、経清を見つめる。
暫く光任を見下ろしていた経清が、やがて口を開いた。
「永衡殿の仇、必ず討ってくれようと位牌の前で誓っておった。――ついこの前までな」
永衡の名を聞いて、側近の何人かが痛ましい思いで顔を伏せる。皆がその陰謀に賛同し加担していたわけではないのである。
――此度の戦で愛別の苦しみに遭うは、私一人で十分。
――戦で愛する者を喪うは、私が最後となれば良い。たとえ叶わずとも……
「……だが、途中で気が変わった」
そう告げると、それ以上何も言わずに経清は配下を引き連れて頼義らの元を去っていった。
一同が呆気に取られてその背中を見送る。よく見れば、経清配下の兵達は、皆亘理、伊具から安倍に帰順した者達であった。一様に無言であった。
「経清殿……感謝いたすぞ!」
側近達が涙に暮れながら手を合わせるのを他所に、頼義の胸中には暗い憎悪がますます炎を上げ猛り狂っていた。
(……どこまで予を虚仮にすれば気が済むか! おのれ、このままでは終わらさぬぞ、経清奴ェっ‼)
「おい、貴様、何をしておるか!」
黄海川の川岸を、この冬空の下、衣一つでうろついていた不審な男を、陸奥兵の一人が呼び止める。
ぎくり、と、歩みを止めた男が、引き攣った笑いを浮かべながら振り返る。
「せ、拙僧は近所の寺の見習い坊主でございまする。亡くなられたお侍様の供養をさせて頂いておるところ。いやはや、戦とは恐ろしいものにございまするなあ。……南無八幡」
「なんだ御坊様か、ご苦労にござる」
労いの言葉を投げかけながら去っていく兵士の後ろ姿を合掌して見送った茂頼が、ホッと息を吐く。
(……総大将、一体今頃どちらに居られるのか?)
霧の中彷徨っているうちに味方とはぐれ、いつしか合戦は終わってしまっていたのである。
坊主に化けるため、頭髪は自ら剃ったとのこと。
無心に東の山裾を目指していた義家は、河の傍の枯れ木に凭れずぶ濡れで震えている国府軍の武将を見つけ声を上げた。
「十郎っ⁉」
「御曹司。……良かった、御無事であったか」
蒼白の顔を上げた元親が力なく笑う。
「そなたこそ、その有様はどうしたのじゃ。川にでも落ちたか?」
慌てて馬から降りて駆け寄り、額に手を遣ってみる。酷い熱である。
「敵と渡り合っているうちに足を滑らせましてな。流された振りをしてここまで遡って泳いできたは良いが、いや、冬の川は冷とうて敵わぬ。西国の生まれゆえ、陸奥の寒さはどうにも慣れませぬ……それは?」
主が手にしている束髪に目を留め、尋ねると、暫し義家は俯いた後に答えた。
「景季じゃ」
元親が息を飲み、それきり黙り込んだ。
熱に浮かされ朦朧とした足取りの元親を支えながら二人同じ馬に乗り、合流場所へ向かう。
「……負けてしまいましたな」
「ああ」
「これから陸奥はどうなりますやら……」
「別に良いではないか。……戦の勝ち負けなど、結局のところ、我らには大して関わらぬ話じゃ」
違いない、と元親が小さく笑う。
「……ともあれ、これで暫しは平和になるか」
どこか寂しそうに義家は微笑んだ。
――官軍大いに破れ、死する者数百人なり。
生き残った国府の将兵も殆どが傷を負い、また、敗走中に落ち武者狩り等に遭い命を落とす者も多く、多賀城まで無事に逃げ延びた者は僅かであった。
将兵の大半を失うのみに留まらず、源氏の中核を担っていた側近の殆どが討死するというこの決定的な大敗北により、国府多賀城の兵力は再起不能なまでに壊滅し、国府主導による陸奥攻略の継続は事実上不可能となった。
天喜五年十一月。
黄海の合戦は、安倍氏率いる陸奥勢の圧倒的勝利を以て幕を閉じた。
この合戦により黄海盆地は国府兵の亡骸に埋め尽くされ、流された血により一面は血の海の如く真っ赤に染まったという。
その地獄絵図の如き光景は、一説には血の海という此の地の由来になったともいわれている。
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