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第10章 鳥海柵の奇襲 1
しおりを挟む康平五(一〇六二)年長月、衣川関陥落の二日後。胆沢郡鳥海柵。
清原・国府勢が鳥海柵に攻め寄せたのは未明のことであった。
しかし、山影に沈みゆく月明かりを以てさえも視界に収まらぬ威容を見せ、両翼を胆沢川の岸辺まで広げて迫る様を誇りつつも、灯どころか人の気配すらない奥六郡最大の城柵は、水を打つ周囲の静けさも相俟って宛ら酒吞童子の砦の如く清原源氏の目に映った。
「――誰も居りませぬ!」
先行させていた物見の報告を受け、ぞろぞろと門を潜り砦の内に兵を進めると、成程、つい先ほどまで安倍の将兵らが所在していたと思われる気配がそこかしこに残されている。厩の飼葉桶には干し草が詰め込まれ、甕の水は汲み置かれたまま、ぼうふら一匹湧いていない。
「連中、どうやら我らの大軍が迫るのを見て戦わずして退散したものと見えますな。此処に至るまで我ら清原は連戦連勝、それも只の勝ちならず、まさに圧勝でありましたからのう」
「はは、圧勝か。良い響きじゃ」
国府源氏勢への当て擦りを多分に含んだ、後の世の中学生のような自画自賛を聞こえよがしに口にしながら砦内を物色して廻る武則らの後ろを続く頼義は、以前ならばその謂い様に歯噛みして憤慨を噛み殺していたであろうが、今は表情を落としたまま無言で自軍将兵らを従えるのみである。
明くる朝。
「御館様、蔵を改めておりましたらば山積みの酒樽を見つけましたぞ!」
「おお、それは良い置き土産じゃ。皆で祝勝の宴を開こうではないか!」
配下の報告にほくほくと顔を綻ばせた武則が、早速広間に酒樽を運ばせ手づから一升枡で汲み呷ろうとする。
他の将兵らも後れを取らじと先を争って酒器を手にする。
ぼそりと頼義が呟く。
「……よもや我らを殺そうと毒を仕込んでおるやも」
ぴたりと皆が枡の手を止めた。
手は止めたが、皆樽の中に目を落としたまま顔を上げようとしない。
何しろ仙北より此処に至るまで戦に明け暮れ長雨に振られてばかりの辛い行軍であった。酒は飲みたい。酒が飲みたい。死ぬのは怖い。ちゃぷりと樽に揺蕩う雫の水音さえも耳に艶めかしい。
この野郎いらぬことを口走りやがって、と頼義を恨めしそうに睨む者もちらほら。
「これは誰かに毒見をさせねばなりませぬのう!」
妙に嬉しそうに秀武が哂う。
「生憎と折角手に入れた儂の玩具を至らぬ女兵の不始末で逃がされてしまったで、安倍の俘虜にでも毒見させてみてはどうかのう。簒奪した敵本拠の広間で敵兵が毒に悶える様子を肴に一献傾けるのも乙じゃでのう」
そんなもの肴に飲めるのはお前くらいなものだという言葉は敢えて誰も口にしなかったが、そもそもこれを毒酒と決めつける口振りなれば肴を充てる酒は一体何処から持ってくるつもりなのか。
その時、つかつかと歩み寄った義家が兵の一人から枡をひったくると、ざぶりと酒を汲んでぐびぐびと飲み干してみせた。
「……ほう、これは甘露!」
ほっ、と旨そうに息を吐く義家を呆気に見ていた将兵らであったが、すぐに我先にと酒を汲み始める。その様子を義家は小馬鹿にするように眺めていた。
(……清原の奴ら、勇ましいのは戦場だけか。貞任ともあろう男が酒に毒を仕込むような姑息な真似などするものか!)
皆が宴に酔いしれている間にも、続々と援軍到着の報告が入る。出羽からの増援もあれば、清原の戦果を耳にして旗色を読み参陣を願い出る近隣勢力も少なくない。
「どうじゃ。陸奥はいよいよ我らの色に染まりつつある。安倍は厨川の僻地に追い詰めた。あともう一押しで我らの勝利ぞ。いや、既に勝利は決まったも同じ。謂わばこれは勝鬨の祝宴よ! あの忌々しい安倍の一味の首を目の前にずらりと並べた暁には、再び皆で飲み直しじゃ!」
すっかり酔い心地に気を良くした武則が大枡に並々と注いだ濁り酒を景気よく飲み干す。
将兵達も蔵の酒樽を片っ端から引っ張り出し浴びるように呷った。
……それまで武則の隣席で黙々と杯を干していた頼義が、不意に俯き、肩を震わせて涙を落とした。
「おやおや、陸奥守殿、どうして泣いておられるか? さては永きに亘る陸奥の任務に於て初めて鳥海柵に足を踏み入れ感極まったか! いや、お気持ちはお察し致す。貴殿にとっては念願の勝利じゃ。今に貞任奴の首を討ち取った暁には、歓喜の余りその白髪も忽ち黒くなりましょうて」
そう言って笑いながら武則が肩を叩くが、頼義の涙は念願の戦勝叶った喜びによるものなどではなかったのである。
「……きっと恐ろしくなったのであろうよ。隣にいる輩のことがな」
背中を丸め啜り泣く父親を眺めながら義家が杯を呷る。
「某も、察して余りありまする」
隣で酌をする元親が、やるせない面持ちで頷く。
「安倍と清原は血縁深き間柄、氏を異とするも同じ奥羽一族といってよい。それを、散々勿体つけ有利な条件で国府の名文を手に入れるや否や、何ら躊躇いなく、寧ろ嬉々として皆殺しを図ろうとする。奪った酒に酔いしれ、次は誰を討とうかなどと、身内を殺す相談しながらそれを肴に宴会じゃ。父上ならずとも、まるで鬼の巣にでも招かれた心境だろう。……ぞっとせぬ」
「恐ろしい相手と組んでしまいましたな」
「思うに、清原は大きくなり過ぎたのじゃ。大きくなれば、それだけ互いの縁も血も薄くなるのかもな」
じっと杯の酒に映る自身の顔を見つめながら、小さな声でぽつりと呟く。
「――我ら源氏も、いずれそうなるかもしれぬ。きっと、父上はそれを思い恐れておるのだ」
ふと、自分の口にした言葉にじっと考え込む。思い巡らせてみれば、そういった兆候は源氏の内部にも心当たりがいくつか浮かぶ。他人事のようには語られぬ。
(……しかし、武則もだが、父上についても、もう自分には腹の内が読めなくなった。ああやって泣いて見せているにしても、実際はどういった意図があるのやら)
やがて、義家は傍らの太刀を掴んで立ち上がる。
「御曹司、何処に行かれるか?」
「訪ねたい人がいてな。今日は帰らぬかもしれぬ」
元親が眉を顰める。
「気を付けられよ。敵の残党がうろついているかもしれませぬ」
「なに、すぐそこじゃ」
笑いながら、義家は宴を中座し、部屋を出ていった。
「……はて、同じような遣り取りが以前あったような」
金ヶ崎西根、安倍氏居城。
(……やはり、誰も居らぬか)
しとしとと小雨の降る無人の門前で屋敷を見やりながら、六年前この門を訪ねた日の事に思いを巡らす。
あの日、玄関では双子の侍女達が顔を輝かせて自分を出迎えてくれた。
(たしか、衣川の河原で着物が流されたと泣いていたっけ)
一加がそれに気を取られているうちに自分は今のうちにと上着を置いて逃げ出したのだった。次の日どんな顔して娘に会えばよいのかと頭を抱えて悩んだのが今となっては微笑ましい。
――もう幾年もすれば裳を着せる年頃になりまする
ふと一加の言葉が蘇る。……あの女童達も、もう十四、五を数える年頃か。本当に早いものだ。無事であってくれれば良いが。
まるで随分前から無人であったように閑散とした玄関で履物を脱ぎ、あの日女主人に案内された通りに屋敷を進む。
娘の部屋には、未だ微かに伽羅木の香りが残っていた。
……あの夏の河原で、初めて一加と結ばれた時、娘の衣を解いた際にも、仄かな水の匂いと一緒にこの匂いがうっすらと香っていたのだ。
――もう、逢えぬものと……
……今思えば、いつ自分が逢いに来るか、いつ逢いに来ても良いようにと、常に衣に焚き染めていてくれたのかもしれぬ。来るかどうかわからぬものを、既に敵味方に隔たれていたものを、それでも待っていてくれたのだ。
壁に立てかけられたままの釣り竿に目を向ける。
――お生憎、今日はまだ水浴みをしておりませぬ。源太様がお見えになってから、と思いまして
……これを突然首筋に当てられたときは、てっきり刀かと思い本当に肝が冷えたものだ。
――私の裸をかっ!?
……後にも先にも、あんなに真っ赤になって動揺した姿を見せてくれたのはその一度きりであった。悪いことをしたと思う。……どの姿を思い出から切り取って眺めて見ても、ただ、ただ愛おしい。
部屋に入り、見回してみる。慌ただしく撤退した様子の鳥海柵とは違い、それなりに整頓してから退去したらしい。私物は大部分残されたままであったが、部屋に招かれたあの日に比べれば、味気ないほどにがらんとして目に映る。
――それが、私からの答えでございまする
……そう言って、挑むように笑ってみせた一加。
あの勝気な笑顔は、他に二度向けられたことがある。
一度は、衣川の宴で初めて一加と出逢った時。最初のうちは田舎娘と心の中では侮っていた自分を一瞬で魅了して見せたあの舞の最中に、ほんの一瞬だけ目が合った際に、ふっとこちらに向けて見せてくれた微笑。
もう一度は、あの河原の逢瀬にて。初めて一つになろうという際に、恥じらいと怯えの表情の入り混じった間に、まるで自分を試すような眼差しにその微笑を浮かべて、じっと見つめて問いかけているようだった。――果たしてこの羽衣、最後まで離さずにいる覚悟はおありか、と。
――もう、此処には来ないでくださいまし
お互いに、すぐにまた逢えるものと思っていた。
戦など、すぐに終わるものと思っていた。
いつまでも蟠りなど残らぬ戦と思っていた。
きっと再び衣川の河原で睦み合えるものと思っていた。
――貴公らが始めた戦ぞ、戦が終わるとは、貴公ら国府が陸奥から退くか、我らが皆貴公らに討ち取られるかじゃ!
(……ああ、どうして)
――貴様は国府の手の者ではないか。敵の話を只鵜呑みにせよと?
(こんなことに……!)
――お願いじゃ。源太様。血に染まったこの姿、見るに堪えぬと仰せなら、どうかこれ以上は……!
(……ああ、一加よ)
――お願い、もう……黙って
(……逢いたくて堪らぬよ、もう一度)
義家の頬から、涙が伝う。
――次にお会いするのは戦場か。今度は私から逢いに行きまする。あなたを殺しに行きまする。御曹司様!
(ああ、……早く、俺を殺しに来てくれ!)
俄かに雨足強まる気配に振りむけば、あの日雪を被っていた庭の椛が、赤く色づき雨に濡れていた。
翌朝屋敷を出ると、辺り一面、前が見えぬ程の霧に翳んでいた。
(……結局、一晩過ごしてしまったな)
泣き腫らした赤い双眸が人目に付きはせぬかと気にしつつ鳥海柵に戻ると、何やら柵の周囲が慌ただしい。
「何の騒ぎじゃ?」
徒兵の一人を捕まえて尋ねる。
「昨日の夕方に本陣を目指していた兵站部隊が安倍残党の奇襲を受けたのです。白い外套を羽織った金ヶ崎の兵らと思われまする。中には女武者の姿も見えたとか」
義家がハッと息を飲む。
そこまで話していて、相手の素性に気が付いたらしく、
「もしや貴方様は国府の御曹司様か? 幕僚の方々が大層心配されておられましたぞ!」
兵に礼を言って本陣へ駆け付けると、丁度自分を探しに行こうと出てきた元親と鉢合わせた。
「流石に陸奥守様もお怒りでしたぞ!」
珍しく元親の口調にも怒気が籠っている。
「昨日の襲撃については既にお聞き及びのことと思いまするが、再度の襲撃を警戒し、御曹司に終日付近の巡回の命が下されておりまする。……要は無断外泊のお仕置きですな」
やれやれと元親が肩を竦める。
「無断のつもりはないんじゃがのう」
恨めしそうな眼差しを向けつつ義家は苦笑した。
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