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冷たいはずの公爵邸は、思ったよりも温かい。
豪奢ではあるけれど、どこか落ち着く空間で、わたしは少しずつ自分の居場所を見つけ始めていた。
けれど、心の奥底にはまだ、婚約破棄の言葉が棘のように刺さっている。
――「無能」。
あの言葉を、忘れることなんてできない。
そんなある日、公爵様――アルベルトが食堂でわたしを待っていた。
長いテーブルの端で、彼は背筋を伸ばし、相変わらず氷のような眼差しをこちらに向けていた。
けれど、不思議とその視線は居心地の悪いものではない。むしろ、見守られているような……そんな感覚さえする。
「アイリス、こちらへ」
「は、はい……」
小さく返事をして近づくと、椅子を引かれた。
思わず驚いてアルベルトを見上げると、彼は少しだけ唇をゆるめたように見えた。
「公爵様が、わたしの椅子を……?」
「当然だ。君は客人ではない。これからは、この屋敷の――いや、私の隣に立つ存在だからな」
「……!」
心臓が大きく跳ねた。
からかっているわけではない。彼の声音は真剣で、冗談を挟む余地など一切ない。
どうして、こんなふうにまっすぐ見つめられるのだろう。わたしは何も持っていない。何もできない。……「無能」と呼ばれて婚約を破棄された女なのに。
「アルベルト様……」
「呼び捨てで構わない。君は私にとって、特別な存在だから」
「そ、そんなこと、言わないでください……」
耳まで赤くなるのがわかった。
視線を逸らしたいのに、彼の瞳に捕らえられて逃げられない。
――その時。
扉が勢いよく開かれ、甲高い声が食堂に響き渡った。
「アイリス!」
あの声。わたしの心臓が凍りつく。
振り向けば、そこには……元婚約者、王太子エドワードが立っていた。
「……どうして、ここに」
「君が公爵邸にいると聞いて、いてもたってもいられなくなったんだ!」
エドワードは堂々と部屋に踏み込み、アルベルトの冷たい視線も意に介さない。
まるで当然のように、わたしの腕を掴もうと手を伸ばしてきた。
――だけど、その瞬間。
アルベルトの手が伸び、わたしを引き寄せる。
「触れるな」
低く鋭い声が響いた。
エドワードの手は宙に止まり、彼は驚いたように目を見開く。
「な、なぜ公爵がアイリスを庇う!? この女は無能で――」
「誰が無能だと?」
空気が一瞬にして張り詰める。
アルベルトの放つ威圧に、エドワードでさえ言葉を詰まらせた。
「……っ、だが、あの女は王太子妃には相応しくないと判断した。だからこそ、婚約を破棄したのだ!」
「その判断が愚かだと言っている。アイリスは聡明で、誰よりも誇り高い女性だ」
「そ、そんな……!」
「君は自らの宝を手放した。それを拾ったのが私というだけのことだ」
わたしは唇を震わせた。
アルベルトの言葉が、胸の奥にじんわりと広がっていく。
「宝」だなんて、今まで一度も言われたことがなかった。
「アイリス……! 騙されるな! 公爵は冷酷で有名なんだぞ! そんな男の妻になるなんて、不幸になるに決まっている!」
「……」
わたしは一瞬、迷った。
けれど、アルベルトの大きな手が、そっとわたしの指を握ってくれる。
その温もりに、すべての答えが込められているような気がした。
「エドワード殿下。どうかお帰りください」
「なっ……!?」
「わたしは……もう、あなたに必要とされたいとは思いません」
震える声で、はっきりと告げた。
エドワードの顔が見る見るうちに青ざめ、やがて怒りで赤く染まっていく。
「貴様……! 後悔するぞ、アイリス!」
「後悔するのは、殿下の方です」
アルベルトが静かに言い放つ。
その冷たい眼差しに射すくめられ、エドワードは舌打ちをして部屋を出て行った。
扉が閉まると同時に、わたしの膝から力が抜けた。
アルベルトがすぐに支えてくれる。
「大丈夫か?」
「……はい。でも、少し怖かったです」
「安心しろ。君を二度とあんな目に遭わせはしない」
彼の言葉は、まるで誓いのようだった。
胸の奥が熱くなり、涙がこぼれそうになる。
「……どうして、わたしをここまで?」
「理由が必要か?」
アルベルトはわたしの頬に指を添え、まっすぐに見つめてくる。
その距離が近すぎて、呼吸すら苦しい。
「君が愛しいからだ」
――心臓が跳ねる。
その言葉に、世界が一瞬止まったような気がした。
わたしは無能なんかじゃない。
少なくとも、この人の目に映るわたしは……大切にされる価値のある存在なのだ。
豪奢ではあるけれど、どこか落ち着く空間で、わたしは少しずつ自分の居場所を見つけ始めていた。
けれど、心の奥底にはまだ、婚約破棄の言葉が棘のように刺さっている。
――「無能」。
あの言葉を、忘れることなんてできない。
そんなある日、公爵様――アルベルトが食堂でわたしを待っていた。
長いテーブルの端で、彼は背筋を伸ばし、相変わらず氷のような眼差しをこちらに向けていた。
けれど、不思議とその視線は居心地の悪いものではない。むしろ、見守られているような……そんな感覚さえする。
「アイリス、こちらへ」
「は、はい……」
小さく返事をして近づくと、椅子を引かれた。
思わず驚いてアルベルトを見上げると、彼は少しだけ唇をゆるめたように見えた。
「公爵様が、わたしの椅子を……?」
「当然だ。君は客人ではない。これからは、この屋敷の――いや、私の隣に立つ存在だからな」
「……!」
心臓が大きく跳ねた。
からかっているわけではない。彼の声音は真剣で、冗談を挟む余地など一切ない。
どうして、こんなふうにまっすぐ見つめられるのだろう。わたしは何も持っていない。何もできない。……「無能」と呼ばれて婚約を破棄された女なのに。
「アルベルト様……」
「呼び捨てで構わない。君は私にとって、特別な存在だから」
「そ、そんなこと、言わないでください……」
耳まで赤くなるのがわかった。
視線を逸らしたいのに、彼の瞳に捕らえられて逃げられない。
――その時。
扉が勢いよく開かれ、甲高い声が食堂に響き渡った。
「アイリス!」
あの声。わたしの心臓が凍りつく。
振り向けば、そこには……元婚約者、王太子エドワードが立っていた。
「……どうして、ここに」
「君が公爵邸にいると聞いて、いてもたってもいられなくなったんだ!」
エドワードは堂々と部屋に踏み込み、アルベルトの冷たい視線も意に介さない。
まるで当然のように、わたしの腕を掴もうと手を伸ばしてきた。
――だけど、その瞬間。
アルベルトの手が伸び、わたしを引き寄せる。
「触れるな」
低く鋭い声が響いた。
エドワードの手は宙に止まり、彼は驚いたように目を見開く。
「な、なぜ公爵がアイリスを庇う!? この女は無能で――」
「誰が無能だと?」
空気が一瞬にして張り詰める。
アルベルトの放つ威圧に、エドワードでさえ言葉を詰まらせた。
「……っ、だが、あの女は王太子妃には相応しくないと判断した。だからこそ、婚約を破棄したのだ!」
「その判断が愚かだと言っている。アイリスは聡明で、誰よりも誇り高い女性だ」
「そ、そんな……!」
「君は自らの宝を手放した。それを拾ったのが私というだけのことだ」
わたしは唇を震わせた。
アルベルトの言葉が、胸の奥にじんわりと広がっていく。
「宝」だなんて、今まで一度も言われたことがなかった。
「アイリス……! 騙されるな! 公爵は冷酷で有名なんだぞ! そんな男の妻になるなんて、不幸になるに決まっている!」
「……」
わたしは一瞬、迷った。
けれど、アルベルトの大きな手が、そっとわたしの指を握ってくれる。
その温もりに、すべての答えが込められているような気がした。
「エドワード殿下。どうかお帰りください」
「なっ……!?」
「わたしは……もう、あなたに必要とされたいとは思いません」
震える声で、はっきりと告げた。
エドワードの顔が見る見るうちに青ざめ、やがて怒りで赤く染まっていく。
「貴様……! 後悔するぞ、アイリス!」
「後悔するのは、殿下の方です」
アルベルトが静かに言い放つ。
その冷たい眼差しに射すくめられ、エドワードは舌打ちをして部屋を出て行った。
扉が閉まると同時に、わたしの膝から力が抜けた。
アルベルトがすぐに支えてくれる。
「大丈夫か?」
「……はい。でも、少し怖かったです」
「安心しろ。君を二度とあんな目に遭わせはしない」
彼の言葉は、まるで誓いのようだった。
胸の奥が熱くなり、涙がこぼれそうになる。
「……どうして、わたしをここまで?」
「理由が必要か?」
アルベルトはわたしの頬に指を添え、まっすぐに見つめてくる。
その距離が近すぎて、呼吸すら苦しい。
「君が愛しいからだ」
――心臓が跳ねる。
その言葉に、世界が一瞬止まったような気がした。
わたしは無能なんかじゃない。
少なくとも、この人の目に映るわたしは……大切にされる価値のある存在なのだ。
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