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第2話
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その日、俺は営業成績の悪さがたたって、上司から大目玉を食らってしまった。あげく、後輩とも比較されてしまった。俺が最も恐れていた事態だ。
以前、後輩に商材について話を聞いたところ、やはり、後輩もデメリットに気づいていた。だが、後輩はそれを説明していないらしい。
「気にし過ぎですよ。しょせん仕事。売っちゃえば俺らの勝ちっすよ」
後輩の弁だ。だが、それはあまりにも軽薄ではなかろうか。仕事うんぬんというより、人間対人間のやり取りとして、あまりにも誠意を欠いた行為ではなかろうか。
だが、成績の悪い俺の言葉は、社内で何の意味も持たない。俺は喉まで出かかった「誠意」という言葉を黙って呑み込んだ。
上司に怒鳴られたこともあり、俺は特に気分が落ち込んでいた。世の中に辟易していたのはいつものことだが、その日は、勢いで電車に飛び込んでいてもおかしくはなかった。
そう言う意味では、あののぼり旗は俺の命を救ったということになるのかもしれない。
人を殺してみませんか?
ガタ落ちしたテンションで、足を引きずるように歩く俺の視界に、こんなことが書かれた旗が入ってきた。狭い路地の少し奥に、その旗はあった。旗自体、あまり大きな物ではなかったこともあり、もし元気いっぱい、快活に歩いていたら絶対に見つからなかっただろう。足を引きずるようにチンタラと歩いていたからこそ、見つかった旗だ。
そして、それが、そういう人間を求めているがゆえの配置に見えて、少し不気味に思えた。
普段の俺なら、そんなものを見ても、奥に進もうなどとは考えなかっただろう。だが、その日の俺は芯でもいいと思えるほどの心理状態だった。
もうどうにでもなれ。
そう思いながら、吸い込まれるようにのぼり旗の奥に分け入っていった。
路地は思った以上に長かった。ネズミはおろかゴキブリすらいないように感じられた。生命という生命がいなくなったかのような、この世から隔離されたような空間。「これ以上進んだら、もう戻れなくなるかもしれない」という不安が、足を進める度に、自分の中で大きくなっていくのを感じる。それでも、俺の足は止まらなかった。
路地の奥は行き止まりだった。ただ、行き止まりの右手に扉が見られた。明かりが漏れている。店だろうか。
ふと、扉のそばにある小さな旗に目が行った。
人を殺してみませんか?
どうやら、ここが目当ての場所のようだ。
俺はおずおずと扉を引いた。中に入って、まず目に飛びこんできたのは古びた木製のカウンターだった。カウンターの手前は人間が十人も入れないであろうスペースしかない。カウンターの向こうは店員が一人立つのでやっとだろう。カウンターの隣には奥につながっているようだったが、暗くて、その先は確認できなかった。
不潔ではないが古びている。それが、俺が最初に感じた印象だった。
「いらっしゃいませ」
頭までフードをかぶり、布でできた骸骨マスクを被った店員が声をかけてきた。安っぽいコスプレのようだ。金の無い学生がハロウィーンで着ていてもおかしくない。死神気取りなのだろうか。
「あの……表の、のぼり旗を見てきたのですが……」
俺が尋ねると、店員は「ああ」と言って笑って言った。
「そうだそうだ。片付け忘れてた。おーい、ケンくん。終わったら、表の旗、かたしといてー」
人を殺すなどと言っているわりに、どこか和やかな雰囲気だ。個人経営の居酒屋にでも来た気分だ。だが、俺より先に店にいた男に気づいた瞬間、やはりここが普通じゃないことを知った。
その男は一目見てヤバいと思える外見をしていた。派手に染められたモヒカン頭に、対象のピアス。腕には山ほどのタトゥー。なにより、その目は薬でもやっているかのように焦点が合っていなかった。
不意に男がこちらを睨んできた。慌てて、俺は目をそらす。一瞬でも、関わり合いにはなりたくなかった。
「はーい、お待たせしましたー! まずアンケートお願いしますねー! あ、こちらのお兄さん、書き終わりましたか? それならカウンターへどうぞ」
お通しでも持ってくるかのように、死神がアンケートを持ってきた。ざっと目を通した限り、大した内容ではなかった。こちらの簡単なプロフィールと最近の悩みと言ったところか。
「個人が特定されない範囲でかまいませんので、正直に書いて下さいね」
死神に言われた。もともと文章を書くのが苦手ではない俺は、今、自分が抱えているストレスをアンケート用紙に吐き出すかのように空欄を埋め始めた。
その時、カウンターから怒声が聞こえた。
「おい! なんでダメなんだよ!!」
先ほどの男が何やら叫んでいる。死神は、それに対してひょうひょうとした様子で応える。
「すみません。お客様は基準に達していないため、サービスを提供できません」
「はぁ!? ここに来れば人が殺せるって言うから、わざわざ来たってのによぉ! ふざけんなよ。お前をぶっ殺すぞ」
「アハハ。そう言われましても、無理なものは無理ですよ。すみませんがお引き取り下さい」
正直、怒り狂う男の迫力は、無関係なはずの俺でも思わず震え上がるほどだった。なのに、なぜこの店員は、あんなに余裕の態度なのか。俺には理解できなかった。
「馬鹿にしてんのか?」
そう言うと、男は何かを取り出した。それが何か分かった瞬間、俺は目を見開いた。男が持っていたのは巨大なナイフだったのだ。
だが、次の瞬間、男は硬直して動かなくなった。そして、何を思ったのか、ナイフを仕舞うと、舌打ち交じりに店を乱暴に出て行った。いきなり態度が豹変した男を不思議に思った俺だったが、死神の方を見たら納得した。
一瞬、死神が懐に金属製の筒を隠すのが見えたのだ。おそらく銃だ。先ほどの男がナイフを取り出した瞬間、死神は銃を向けたのだろうか。やはり普通じゃない。普通の人間は殺意を向けられた瞬間に、ためらいなく銃口を向けたりはできない。普通は狼狽えるのが先だろう。
やっぱりいかれてる。
このあたりで、俺は来たことを後悔しはじめていた。しかし、帰ると言い出す度胸も無い。結局、アンケートは馬鹿丁寧に書き上げてしまった。
だが、中身はヘタレそのものだ。会社の悩みを欠いているだけのアンケートで「基準」とやらを上回れるとは到底思えない。俺は断られるのを密かに期待しながら、カウンターにアンケートを出した。こんなところに来た自分が悪かったのだ。もう来ないから、帰らせてほしいと思いながら。
「ふむふむ……うん! OK! 合格です!」
だが、死に神から帰ってきた返事は、まさかの合格だった。
「え? 合格!?」
「ええ、文句なしの合格です! こういう真面目な方を求めていました。いやー、やんなっちゃいますよねぇ。『人が殺せる』と聞いたら、さっきのような輩ばかり来てしまって……。かと言って、真面目そうな方を捕まえて『人を殺しませんか?』なんて聞けませんし。難しいところです」
世間話でもするかのようにとんでもない話をする死神に、俺は引きつった笑顔を浮かべる。
「ちなみに、なんで真面目な人間を求めていたんですか?」
「私たちがやりたいのは、人の枠を外してあげることです。悪人には善行を、善人には悪行を。その人が今までに生きていた世界とは別の世界を見せてあげる。そうすることで、今までとは比べ物にならないほど成長する人は結構多いんですよ。で、今日は悪行の日。お客様のように、今まで真面目に生きてきた人の枠を外す日です!」
そう言って、死神は笑った。俺には本物の死神に見えた。
以前、後輩に商材について話を聞いたところ、やはり、後輩もデメリットに気づいていた。だが、後輩はそれを説明していないらしい。
「気にし過ぎですよ。しょせん仕事。売っちゃえば俺らの勝ちっすよ」
後輩の弁だ。だが、それはあまりにも軽薄ではなかろうか。仕事うんぬんというより、人間対人間のやり取りとして、あまりにも誠意を欠いた行為ではなかろうか。
だが、成績の悪い俺の言葉は、社内で何の意味も持たない。俺は喉まで出かかった「誠意」という言葉を黙って呑み込んだ。
上司に怒鳴られたこともあり、俺は特に気分が落ち込んでいた。世の中に辟易していたのはいつものことだが、その日は、勢いで電車に飛び込んでいてもおかしくはなかった。
そう言う意味では、あののぼり旗は俺の命を救ったということになるのかもしれない。
人を殺してみませんか?
ガタ落ちしたテンションで、足を引きずるように歩く俺の視界に、こんなことが書かれた旗が入ってきた。狭い路地の少し奥に、その旗はあった。旗自体、あまり大きな物ではなかったこともあり、もし元気いっぱい、快活に歩いていたら絶対に見つからなかっただろう。足を引きずるようにチンタラと歩いていたからこそ、見つかった旗だ。
そして、それが、そういう人間を求めているがゆえの配置に見えて、少し不気味に思えた。
普段の俺なら、そんなものを見ても、奥に進もうなどとは考えなかっただろう。だが、その日の俺は芯でもいいと思えるほどの心理状態だった。
もうどうにでもなれ。
そう思いながら、吸い込まれるようにのぼり旗の奥に分け入っていった。
路地は思った以上に長かった。ネズミはおろかゴキブリすらいないように感じられた。生命という生命がいなくなったかのような、この世から隔離されたような空間。「これ以上進んだら、もう戻れなくなるかもしれない」という不安が、足を進める度に、自分の中で大きくなっていくのを感じる。それでも、俺の足は止まらなかった。
路地の奥は行き止まりだった。ただ、行き止まりの右手に扉が見られた。明かりが漏れている。店だろうか。
ふと、扉のそばにある小さな旗に目が行った。
人を殺してみませんか?
どうやら、ここが目当ての場所のようだ。
俺はおずおずと扉を引いた。中に入って、まず目に飛びこんできたのは古びた木製のカウンターだった。カウンターの手前は人間が十人も入れないであろうスペースしかない。カウンターの向こうは店員が一人立つのでやっとだろう。カウンターの隣には奥につながっているようだったが、暗くて、その先は確認できなかった。
不潔ではないが古びている。それが、俺が最初に感じた印象だった。
「いらっしゃいませ」
頭までフードをかぶり、布でできた骸骨マスクを被った店員が声をかけてきた。安っぽいコスプレのようだ。金の無い学生がハロウィーンで着ていてもおかしくない。死神気取りなのだろうか。
「あの……表の、のぼり旗を見てきたのですが……」
俺が尋ねると、店員は「ああ」と言って笑って言った。
「そうだそうだ。片付け忘れてた。おーい、ケンくん。終わったら、表の旗、かたしといてー」
人を殺すなどと言っているわりに、どこか和やかな雰囲気だ。個人経営の居酒屋にでも来た気分だ。だが、俺より先に店にいた男に気づいた瞬間、やはりここが普通じゃないことを知った。
その男は一目見てヤバいと思える外見をしていた。派手に染められたモヒカン頭に、対象のピアス。腕には山ほどのタトゥー。なにより、その目は薬でもやっているかのように焦点が合っていなかった。
不意に男がこちらを睨んできた。慌てて、俺は目をそらす。一瞬でも、関わり合いにはなりたくなかった。
「はーい、お待たせしましたー! まずアンケートお願いしますねー! あ、こちらのお兄さん、書き終わりましたか? それならカウンターへどうぞ」
お通しでも持ってくるかのように、死神がアンケートを持ってきた。ざっと目を通した限り、大した内容ではなかった。こちらの簡単なプロフィールと最近の悩みと言ったところか。
「個人が特定されない範囲でかまいませんので、正直に書いて下さいね」
死神に言われた。もともと文章を書くのが苦手ではない俺は、今、自分が抱えているストレスをアンケート用紙に吐き出すかのように空欄を埋め始めた。
その時、カウンターから怒声が聞こえた。
「おい! なんでダメなんだよ!!」
先ほどの男が何やら叫んでいる。死神は、それに対してひょうひょうとした様子で応える。
「すみません。お客様は基準に達していないため、サービスを提供できません」
「はぁ!? ここに来れば人が殺せるって言うから、わざわざ来たってのによぉ! ふざけんなよ。お前をぶっ殺すぞ」
「アハハ。そう言われましても、無理なものは無理ですよ。すみませんがお引き取り下さい」
正直、怒り狂う男の迫力は、無関係なはずの俺でも思わず震え上がるほどだった。なのに、なぜこの店員は、あんなに余裕の態度なのか。俺には理解できなかった。
「馬鹿にしてんのか?」
そう言うと、男は何かを取り出した。それが何か分かった瞬間、俺は目を見開いた。男が持っていたのは巨大なナイフだったのだ。
だが、次の瞬間、男は硬直して動かなくなった。そして、何を思ったのか、ナイフを仕舞うと、舌打ち交じりに店を乱暴に出て行った。いきなり態度が豹変した男を不思議に思った俺だったが、死神の方を見たら納得した。
一瞬、死神が懐に金属製の筒を隠すのが見えたのだ。おそらく銃だ。先ほどの男がナイフを取り出した瞬間、死神は銃を向けたのだろうか。やはり普通じゃない。普通の人間は殺意を向けられた瞬間に、ためらいなく銃口を向けたりはできない。普通は狼狽えるのが先だろう。
やっぱりいかれてる。
このあたりで、俺は来たことを後悔しはじめていた。しかし、帰ると言い出す度胸も無い。結局、アンケートは馬鹿丁寧に書き上げてしまった。
だが、中身はヘタレそのものだ。会社の悩みを欠いているだけのアンケートで「基準」とやらを上回れるとは到底思えない。俺は断られるのを密かに期待しながら、カウンターにアンケートを出した。こんなところに来た自分が悪かったのだ。もう来ないから、帰らせてほしいと思いながら。
「ふむふむ……うん! OK! 合格です!」
だが、死に神から帰ってきた返事は、まさかの合格だった。
「え? 合格!?」
「ええ、文句なしの合格です! こういう真面目な方を求めていました。いやー、やんなっちゃいますよねぇ。『人が殺せる』と聞いたら、さっきのような輩ばかり来てしまって……。かと言って、真面目そうな方を捕まえて『人を殺しませんか?』なんて聞けませんし。難しいところです」
世間話でもするかのようにとんでもない話をする死神に、俺は引きつった笑顔を浮かべる。
「ちなみに、なんで真面目な人間を求めていたんですか?」
「私たちがやりたいのは、人の枠を外してあげることです。悪人には善行を、善人には悪行を。その人が今までに生きていた世界とは別の世界を見せてあげる。そうすることで、今までとは比べ物にならないほど成長する人は結構多いんですよ。で、今日は悪行の日。お客様のように、今まで真面目に生きてきた人の枠を外す日です!」
そう言って、死神は笑った。俺には本物の死神に見えた。
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